それは私の、大一番の賭けだった。
誰も知らない、知る事もないであろう私の勝手な賭け。代償は知る由もない。そしてその代償を背負うのは他の誰でもない。

久しぶりにつけた、左耳のダイヤモンドの一石ピアス。純粋に、なんども、見るたびにきれいだ、と思った。光に反射した冷たい輝き。
私に似合うかどうかなんて私にはわからない。自身の見解では、これはまだ大人びていて、つけたときには背伸びしている感じがした。背伸びがしたかった。大人だと思いたかった。今だけは。
心の中に秘めた願望はどろどろと、濁りきっていて、何も区切りは付かないまま。そしてこのピアスのように、最初のこんな風に輝いていたはずの光を取り戻すことは、きっとないのだろう。それが大人びるということならば、私は大人を学んでいる真っ最中であるといえるのかもしれない。

しかし、これは私の指針になるものだ。理不尽に、勝手に決めたこと。これから賭けに勝てば、その身勝手なこの決断を少数の友人も恋人は知ることになる。ただそれだけの賭けだ。
震える手でピアスの表面に触ると、冷たい光が鈍くなった。


「おはよ!今日アップにしてるのかわいいじゃーん!ピアスもついてる!卒業式だからってコイツ〜!浮かれやがってこのこの〜!」
「ふふ、たまにはね」

ワンレンの長めのボブをいつもそのまま下ろしているだけの私が、髪型を変えるのは珍しかった。ポニーテールにした髪が重たく、頭を動かすたびに揺れる。それはある種の新鮮な重さだった。
そんな髪型にいち早く気がついた可南子がにやにやしながら私を褒め、私も笑いかえした。うれしいと、今はただそう思った。
可南子と夢、梨沙と私の四人はいつも一緒にいる女子グループだ。
しかし、それも今日で最後。
きっと彼女たちはあとから怒って泣いて心配してくれる。賭けの結果を伝えることになろうとそうでなかろうと、彼女たちはとてもいい子達だった。わかっていた。 大切な友達だったから。でも、きっと裏切ってしまう。私は所詮、友人より好きな男をとってしまう、典型的な駄目な女だったということだ。

私の賭けの勝率はどれくらいだろう。多分、5パーセントくらい。それくらいしか見込みがないことも、ちゃんと分かってる。分かっていて、誰もいない舞台に1人で上がったのだ。
つまり、彼女たちに本当のことを伝える確率もそれくらいということだった。

私はどこまでも意気地なしで。

ありきたりな何処にでも転がっている失恋で、深く傷つくような弱虫だった。だから心の中で友人たちには謝っておく。ごめん。本当にごめんなさい。きっと許してはくれないだろう。許さないでいいよ。

濃くて楽しい高校生活の中で私のことは、いつか忘れると私は信じている。あの薄情な友人はどこにいったのだろうと、10年後くらいに思い出してくれたら、きっとそれだけで幸せで、悔いはない。だから、ごめんね。



私のお付き合いしている彼氏、柳生比呂士はあまり表情の変わらない人だった。
立海大付属中学3年A組、男子硬式テニス部所属。
私とは住んでいる世界が違う、かっこいいひと。近くにいるのに最初から遠い人だった。どこまで手を伸ばしたら届くのか、それとも手を伸ばしても方向が最初から違うのかもしれない。きっと永遠に遠く、手は交わらないままだ。
中学に入学してしばらくして、彼の冷たい相貌を見たときに一目惚れをした。すごく簡単な、一行で済んでしまうようなきっかけ。一目惚れって本当にあるんだと初めて知った。視界の中がキラキラして、あの人のことがもっと知りたいと願った。あのころは。あの時の私の気持ちは、このピアスのように、きらきらと輝いていたのだ。今思えば。
比呂士は同い年の男の子たちとは違ってひどく大人っぽくて落ち着いていて、一人称が私なのも他の人と違っていて好きだった。紳士的な言動も知れば知るほど好きになる。ろくに話したこともないくせに好きで好きで堪らなくて、玉砕すると分かっていても告白してから早一年半。

何故か玉砕せず、ここまで彼と付き合ってこられたのはきっと幸せなことだった。

でも、それを無かったことにしたくてたまらない。記憶を全部ぐちゃぐちゃにかき回したい。消えて欲しかった。なにより周りの人から、彼から、わたしの、

誰かに言って欲しかった。
ちゃんとお前は彼女として好かれてる、大丈夫だよって。それはお前のバカな勘違いだよって。
しかし誰が言ってくれただろうか。それ以前に私は悩みを周囲に相談することもしなかった。
だって、告白にOKしてくれたのは、比呂士のそっくりさんなんかじゃない。彼本人だったから。
彼が私を好きなんて。そんなわけないのはこの一年半でちゃんとわかって自覚している。だからこんなにも心が痛い。 恋をまともにしたこともなかった。失恋はこういうものなのかもしれないと、気がついたときにはから笑いが溢れた。

比呂士に会うのは次第に怖くなって、遂には先日胃に穴が開いた。
好きなのに怖くて、それが辛かった。

比呂士は、良い人だ。優しい彼氏だ。紳士的でいつだって私を優先してくれた。ワガママを言ってたまに困らせても、宥めてくれるばかりで怒らなかった。

私はずっとずっと彼のことが好きで好きで。私は比呂士のことをずっと見てきたはずだった。だから、

いつかきっと彼には、ちゃんと好きな人ができるだろう。
それが私じゃ無かっただけのことで。


ただそれだけ。



きっと、これはどこにでも転がっているありきたりな失恋の話。




今日は卒業式。泣いている子が少ないのは、エスカレーターの持ち上がりで高校でほぼ面子が変わらないからだろう。人がごった返す校庭を潜り抜け、周囲を見渡したところで泣いている生徒は女子が2人くらい見うけられただけだった。
男子テニス部が多くいるあたりでさらに首を回すと、見知った人を2人見つけた。1人は比呂士で、1人は仁王くん。
女子生徒が群がる前にとそばに駆け寄り卒業おめでとうと声をかけると、仁王くんはいつもの飄々とした顔で「卒業したところでどうせ何も変わらんのじゃし、目出度いもんなんてないのぉ」といつもの独特な調子でそう言って、卒業証書の筒箱で左肩あたりを叩きながら去っていく。
私たちが2人きりになるように、いつだって仁王くんは気を遣ってくれていた。その行動は今日も変わらなくて、自嘲的な笑みがこぼれた。彼が気遣うほどの信頼や愛情は、比呂士と私の間には、きっとただの一度も存在しなかった。

「貴女も卒業おめでとうございます。こちら、いりますか?」

彼の手のひらで、その体温で少し温まった丸いボタン。比呂士の濃緑のブレザーからはひとつボタンが消えていて。詰襟の制服でなくても記念の第二ボタンをくれるらしい。そ、と私の手のひらに落とされた、生ぬるい温度。

きっとこれは、私の一生の宝物になる。きっと、きっと。これは痛くて苦しい、忘れられない思い出になる。いつか封をして、そっと開けられる日が来たらいい。

「ありがとう‥」

泣きそうになりながら笑う。ぎゅっとボタンを握りしめて、この温度がずっとなくならなければいいのにと願ってしまった。もう既に、私の体温で上書きされてしまっているだろうに。
ぽつぽつとこの校舎での3年間の思い出を穏やかに話し合いながら、教室前までたどりつく。並んだ二つの肩はいつだって拳1つ分より少し遠い。

結局比呂士は私の耳のピアスについて、何も言わなかった。髪型の変化にだって気づいているかもわからない。今まで彼の前でしたことはないポニーテールだったはずだった。
柳生比呂士という男は少なくとも、彼の興味のある対象についてもう少し異なる、そう、今日は様子が変だとか、今日は寝癖がついているだとか、細やかな違いについて指摘のできるひとだった。
それでは、といつものような紳士的なしぐさで、クラスの違う比呂士は背を向けて去っていく。いつもと同じ、穏やかな品のある歩き方で。
比呂士は何も変わらない。私はそれに、またね、と言えなかった。凝るように、胸の内が冷えて固まる。


ほら、やっぱり私の負けだ。

この賭けに負けた代償は、なんだろう。



「やだ、寧々泣いてるの〜?絶対泣かないって言ってたじゃん!」

教室に入るとわらわらと女子3人が寄ってきて私の肩や頭を叩く。そんな泣くことないのに、ってケラケラ笑って写真を撮っている。明るい彼女たちに今までどれほど救われてきただろう。
そうだね、おめでたいのに何でだろう‥そう私も言うのに涙が止まらない。比呂士が‥予想通り何も言わなかったから。私は彼のことをある程度正しく把握しているつもりだから。

もう比呂士のことは考えたくない。この友人達のことだけ考えて、そして帰って眠ろう。そうすれば必然的に明日になって、また忙しくなる。
全部忘れよう。無かったことには出来ないかもしれない。記憶のかけらを、少しずつ遠ざけて、箱の中に仕舞い込む。そしていつかガラクタのように捨てられる日は、来るのだろうか。
全部。彼に恋をしてしまったことさえも。

「春休み全然私たちに会えないからって〜寂しがってんの?寧々おばあちゃんち行くんでしょ?楽しんできなよ!」
「おみやげよろしくね〜」

夢と梨沙が私の頭をクシャクシャと撫で回しながらそう言うので、もうすっかりポニーテールは崩れきっていた。私はその言葉に頷けなくて、曖昧に微笑んだ。
うそをつくのは、苦手だった。




比呂士は本当に楽しい時、少しだけ右の頬に凹みができる。顔の輪郭は運動部の青年らしくシャープなのに、そこだけ癖がついている。えくぼにならない程度の凹みは、きっと気付く人が気付く程度のもので、私といるときに一度も見せてはくれなかった。私はそのくぼみがとても好きだった。私以外の人と話すときに出る、その凹みが。
本当に楽しいとき、喉にも特徴が出る。声を上げて楽しそうに笑うのを我慢するように、男らしい喉仏が下に下がる。

比呂士が付き合ってくれたと浮かれていられたのは、ほんの少しの間だけだった。ダイヤモンドがダイヤモンドでいるためには、ある程度指紋をつけたぶんだけ使った分だけ、洗ったりくすみを磨き直したりする必要があるように。悲しみが積もったら、その分だけ、楽しいことや幸せなことを増やして輝きを取り戻す必要があったのだ。
比呂士に楽しんで欲しくて、共通の話題が欲しくて有名なテニスプレイヤーの名前はあらかた覚えたし、物覚えの悪い女子は苦手だと言っていたから勉強だって頑張ってきたと思う。
でも多分そういうことじゃなく、比呂士は元から私のことを好きになる要素が無かった。そんな彼にとっての特別な何かを私は持っていなかった。
なにも見せてはくれないくせに、彼は本当の顔なんて何一つとして見せない癖に笑顔のフリだけは得意。優しいフリもすごく得意で。
彼のことがどんどんわからなくなっていった。仕草は詳しく見ていて、彼が楽しんでいないことはわかるのに。
比呂士はどうして私と付き合ったりしたんだろう。好きじゃないのに好きみたいなそぶりをするのはどうして?全然わからない‥こわくて、聞けない‥。聞いたらすぐ楽になれるのに。
彼のことが怖くなって、混乱して。私のことを好きじゃないこと、唯一それだけはよく分かっていた。
私は‥なにも特別じゃない。努力しても彼は虚構の笑みしか向けてくれない。
悲しくて虚しくて、それをどうすることもできない。
毎日彼のそばで失恋する。発散できない悲しさに胃がキリキリと痛む。


そんなときだった。父の大阪への転勤が決まったのは。
迷わずついていくといった。
ここには大切な友人もいる。大切な思い出もある。好きな人も。ただもう胸が痛く毎日が苦しかった。逃げたかった。彼のいないところまで、忘れることができそうなところまで。

だからこれは、たったひとつの賭けだった。
比呂士とのデートで、私が買った一粒のダイヤモンドのピアス。彼がそれを覚えていてくれて、気づいてくれたら、比呂士に引越しのことを話そうと決めていた。
彼がきっと似合うと言ってくれたピアス。いつか付けているところを見せてくださいね、そう偽物の笑いを貼り付けて言ったことを、忘れられなかった。
そんな一言でも、私にとっては大切だったから。しまいこんだ宝物だったから。

ただ私は、賭けに負けてしまった。


さようなら、比呂士。
私に恋を教えてくれて、ありがとう。楽しくて、幸せな瞬間もあった。よく思い出せなくなってしまっただけ。悲劇のヒロイン気取りで、私が悪いのにね。どうか今だけ、悲しむことを許して欲しい。

あなたの冷たい目が好きだった。テニスをしているしなやかな体も、賢そうな硬い声も。ずっと抜けない敬語も。
私のことを好きになってくれない貴方も、大好きだった。大好きでいたかった。

やっていたSNSは全て消した。番号もアドレスも、住所も変えて。あなたのいないところへ行く。いつか、この傷がふさがって。あなたの事をいい思い出だったと言えるようになりたい。

そう願っている。ずっと。





「柳生くん、いますか」

顔のこわばった女子生徒たちが立っていた。確か隣のクラスで彼女の友達だ。
春休みでも中学に顔を出してテニスコートに立つ、そんな自分に話しかけてくる人間は多くない。少々驚く。
どうしたんですか、といつもと変わらないトーンで聞くと、彼女たちは寧々と連絡を取っているか、連絡が取れるかと立て続けに泣きそうにパニックになっているような声音で聞いてくる。
彼女。寧々は彼女だが、頻繁に連絡を取るような関係性でもない。少々上滑りしているというか、好き合って付き合っているわけでもないからだ。
彼女は、私に扮した仁王に告白した。仁王がそれを面白がって、たまたま了承してしまった。そこに私の意思はなかった。
勿論仁王のことを詰問して、寧々には謝罪しようかと思った。しかし寧々だって扮装を見破ることもできず告白してきたんじゃないかと思い、謝罪するのをやめて付き合うことにした。彼女が好きなのはうわべだけの自分。そしてその頃、完璧な紳士なんてものを気取る自分自身にも疲れ始めていて、寧々との付き合いは八つ当たりの部分も多かった。少し優しくすればうれしそうに笑う、そんな彼女を見下し内心嘲笑していた。
そしてどこか、潔白な自分もいた。こんな風に女子を弄んではいけない、嘘をつき続けるなんて不誠実なことをするのは許されないとどこかで私を責め立てた。その声を無視して、寧々と付き合い続けた。
次第に、寧々との交際は罪悪感にまみれていった。

だからだろうか。SNSのメッセージの一覧から彼女の名前が消えていた。電話も繋がらず、メールはエラーで返ってくる。ほかのSNSも全て退会していた。遠回しに、彼女に責められている気がした。

おまえのせいだと。

「ねえ、先生に聞いても進学先教えてくれないの、でも立海の高等部には進まないんだって。」
「ねえ、なんで?そんな、わたしたちの関係って薄っぺらかったっけ」

少女たちが嘆いている。
いや、違う。私のせいではない。
私と彼女の関係性が薄かったせい。
ひいては、彼女のせいなのではないだろうか。

この感情の名は、きっと、罪悪感というものだ。







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ヒロインは本来であればちゃんと仁王と柳生の見分けはつきます。緊張していただけです。という設定。


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