愛しているから許さない。

冷凍庫を覗きこんだまま、彼はたっぷり10秒のあいだ静止した。





黒のデスクチェアに座り込んだ姿勢で、ぐん、と握りこぶしを、突き上げるようにして天井のほうへと伸ばす。
背筋が伸びたことでバキバキと骨やら筋肉やらが軋んだ。
大口は開けないよう、噛み殺したあくびを一つ。
長時間のデスクワークは体力的に厳しいところはなくとも、疲れがたまらないなんてことはない。
ちらりと見ると時計の針は午後5時40分を指していた。
今日やらなければならない仕事は全て終わっている。自分を褒めたい。えらいわたし!超えらい!
最近送っていた死に向かうような恐ろしい日常であれば、あーほんと疲れたな、もう早く帰りたいな、とグチグチ内心呪怨を並べ立てて仕事を必死にこなしているか、最早無になり悟りを開いていた時間帯だ。
終電でその上仕事を持ち帰り、睡眠時間もロクにとれなかった、そんな日常。

生憎と最近の私はとても機嫌がいい。鼻歌でも歌ってやろうかという気分だった。
何故かというと、定時退勤の日が続いているからだ。ビバ定時。こんなに素敵な言葉の響きはない。時間があるってことは心にも体にも余裕があるってことで、本当に素敵。

しかし忙しかった仕事が落ち着いてくると、「あれ、仕事ないけど大丈夫か?何か見落としがあるのでは?」と不安になってくる。
「持ち帰りの仕事がない?え、どういうこと?本当にホント?」と思わず何度もメールをチェックしてしまうと零すと、同棲している彼には「きみ...そういうの、社畜っていうんじゃないのかな...やっぱり転職する?」と更に心配された。

ただでさえ先日、風邪で寝込もうが高熱に喘えごうが自宅で仕事をする私にあくせくと世話を焼いていた精市は、私の勤務先に激怒していた。そりゃもうツンドラのごとく、私以上にキレまくっていた。
リクルートの社員か?と思うくらい他の企業のプレゼンをしてくるので、本気で彼は私を転職させようとしている。

とにかく、ここのところ彼には心配と迷惑をかけっぱなしだったことを申し訳なく思っている、ので。

スーパーに行ったときに値引きシールの貼ってある商品が少なくとも、仕事が少なくて不安だろうと、これ以上彼に心配をかけなくて済むように定時退勤をもっと心から楽しみたい。


そしてそんな今日、素晴らしくいいアイデアがポンと頭の中に浮かんだ。


別に仕事を頑張ったからといって、ブラック企業に属するであろう勤務先からボーナスが貰えるわけでもない。月40時間以上残業したところで残業代なんて出ない。自信満々に言うことでもないが、これが現状である。
よって私の貯金も多くない。
でも、その少ない貯金をはたくときが今、来たんじゃないのか。
だって前から欲しいと思ってたし。こういうの、全然アリでしょ。
この計画が成功しないビジョンも浮かばない。
なんせもう何年も彼と一緒にいるのだ。好きで、ずっと過ごしてきたのだ。彼のことをたくさん知っている自信がある。
彼は多分、最初は驚いて怒るんだろう。
そしてその数時間後には、困った顔をしながら許してくれるのだ。
彼はたまにめんどうで、全然予想と違う行動をとるときがあるけれど、これは当たるはず。
かわいい恋人の怒る顔と複雑そうに困って笑う顔の二つが頭に浮かぶ。

帰りに繁華街に寄ることが楽しみで仕方なくなって、定時までのあと20分、明日の分の仕事の準備を進めることに決めた。



「たっだいま!!」
午後7時36分。
機嫌のいい声で玄関の扉を開けると、彼はすでに帰宅していたらしい。
リビングから「おかえり」と返してきた精市の声はひどく冷たく、強張っていた。
これは彼の機嫌が悪そうだ、と察した私は、口を噤んでいそいそと靴を脱ぐ。
それでもへら、と笑いながら、ダイニングテーブルの前で腕を組みながら座る彼の前にケーキの箱を差し出して。
「お土産」とひとこと告げると、彼の機嫌はますます降下した。

「何これ。贖罪のつもり?」
「ええと...何のことでしょう」
「いいから座って」
「ハイ...」

せめてお気に入りのスカートが皺にならないよう、丁寧に椅子に座ると、「ちょっと、ケーキはちゃんと冷蔵庫に仕舞ってきてよ」と凍えた声。
あ、そうでした...と思いながらまた立ち上がって冷蔵庫を開き、白い光の中に箱を鎮座させた。
その行動の最中にも、なんで私、怒れらてるんだろうなあ、何かしたっけなあ、と内心首をひねる。心当たりはない。

恋人である精市にこんな風に怒られることは、同棲し始めてからもたびたび、両手の指では足りないほどにはあった。
その理由はだいたいが「え、そんなことで」と驚くようなことだったりする。
こればかりは、精市と長くともに過ごしてきても予測しにくく、避けにくい。大好きだけれど、めんどくさい彼は妙なところに地雷があるのだ。

神の子なんてクソダサふたつ名が付いていた、一部界隈では恐れられているらしい私の恋人は、実はとっても面倒でかわいい人なのだと、私だけが知っている。

この優越感は計り知れない。だから私は彼に怒られるのが、実はちょっとだけ好きなのだ。ほんとに、ちょっとだけ。


「ほら、早く座りなよ」
「はい...」

また丁寧に椅子に座りなおすと、精市は苛立ちと悲しみを顔に浮かべながら溜息をこぼして。そして詰問した。

「冷凍庫にあったハーゲンダッツ勝手に食べたでしょ」
「え?うん、食べたね。限定の方‥食べていいって言ってたじゃん。」

精市が仕事を頑張る私にお土産だと、先日冷凍庫にハーゲンダッツを2個入れてくれていた。どっちを食べたい?と聞かれ、期間限定の方を食べたい、と言えば精市はさらっといいよと言って頷いたのに。

「俺は君と一緒に食べたかったんだよ!」

なんでも一緒にやりたがる系の女子かよ。
精市の怒っている理由に気づきガク、と項垂れてしまった。怒っていると言うか、これは拗ねているのだ。私の恋人はとてもかわいい。それからとてもめんどくさい。

「お風呂あがりに耐えられなくて‥精市昨日は疲れて寝てたから、起こすのもなんだしいいかなって‥」
「起こしてよ!また買ってくるけどさ!君にあーんしてほしかったよ!」

私たちがいつから付き合ってるとおもってるんだよ!あーんなんて数え切れないくらいやってきたじゃん!今更ハーゲンダッツで怒らないでよ!
なんだかなあ、と思いつつ、ごめんね、と殊勝なふりをして謝る。

「君といつだって一緒に楽しみたいんだから、それを忘れちゃダメだよ」

それをいつだって忘れない精市ってすごいな、とも改めて思った。

精市は中学生の時に難病で死ぬような思いをしてから、変わったように思う。
一分一秒を大事にして生きている。いつだって全力で生きている。
そして私のことも大切にして、一緒にやることの全てを楽しもうと、出来るだけ多くのことを一緒にやろうと言う。ひとはいつ死ぬかわからないから、と。

それが今のようにとってもめんどくさい事態になることもあるけれど。普段の精市はとにかく優しいできた恋人だし、彼のめんどうなところも含めて、私はとてもとても精市のことが好きだ。

「好きじゃなかったらこうして怒らないんだから。わかってる?」
「わかってるよ」

静かに頷くと、彼は少しだけほっとした様子を見せた。
一緒にやりたいのに、どうして誘ってくれなかったの、という精市の怒りはいわば愛情の裏返しで。だからめんどくさいな、と思いはしても、もう内心ほんとめんどうだなと思ってもいるけど、喧嘩に発展したことはない。
そこには痒い嬉しさもあって。めんどくさく愛されている。自覚は大いにあります。

だから、もういいんじゃないかなと思うのだ。
心配かけて、かけられて、愛されて愛して、互いのことをたくさん知って、色んな感情を共有して。同じ部屋に住んでからも、たくさんのことがあった。それでも持ちつ持たれつ、今までと変わらず過ごして来れたから。

「お怒りのところ恐縮なのですが」
「なに?」

まだ少し拗ねたような様子の精市の目の前で、通勤用の鞄から今日買ってきたばかりのものを取り出した。
テーブルの上にその白い箱を置く。
それがなんなのか一瞬でわかったらしい精市は、目を見開いて動揺した。

「えっ‥ごめんちょっと待ってくれないか」
「ごめ〜ん待たない。結婚しよっか」
「ええ‥」

困惑と、怒りと、戸惑いとうれしさと、普段はにこやかな表情の多い精市が目一杯いろんな感情を顔に浮かべて、おそるおそる箱に触れる。ほら、私の前では彼はこんなにも可愛い。

仕事もしているし滅多につけなくなったけど、ペアリングを買ったこともあったので、精市の薬指の号数は知っていた。そして精市が指輪のデザインに拘りがないことも知っている。

精市が箱を静かに開ける。そこには指輪が一本おさまっていた。

「デザインがすごくシンプルなんだけど、これは俺用の婚約指輪なの?」
「結婚指輪だけど。婚約指輪とかいらないかなって思って。私用のもう一本は精市に買ってもらおうかな〜って思ってるよ!予算が足りなかったから二本は買えなかったんだよね」
「きみは馬鹿なのかい!」

一般的な男性より少し長めの、ウェーブがかった髪を精市はぐしゃぐしゃとかきむしって、深いため息をついた。

「男性の方が先に結婚指輪をもらうって、あまり聞いたことがないけどね」
「まあいいんじゃない、べつに」
「明日絶対きみの分を買いに行くから早く仕事あがってくれよ。一緒に買いに行くよ」
「さきに返事を聞かせて欲しいのですが」
「俺から結婚してほしいってきみに言いたかったんだけど?!返事?!いいにきまってるだろう!あと結婚指輪は当然一緒に買いに行きたかったよ!?また先走って!」

やっぱり怒らせちゃったなあ。

しかし予想に違わず、精市は怒るだけ怒り、ケーキを食べる頃には困った顔をして許してくれるのだった。