「ねえ、手塚!あれは?」

少女のものと言っても差し支えない、甲高い声が森に響く。その声はとても機嫌が良さそうにはしゃいでいた。
それに応えるようにして、幼い顔をした無表情の手塚が、ぶっきらぼうに「どれだ」と言う。

私たちが中学2年になった、夏休みの夜だった。

彼が無表情なのは常のことだったので、反応があるだけで、たったそれだけで嬉しくて、なぞるように空に向かって指先を動かして見せる。日に焼けて黒くなった、少年のような爪の短い指先だ。
おさない私の顔の真横には心の読めない手塚の顔がある。あの瞬間、私の指した星座、見ているものはきっと同じだった。彼の銀色の眼鏡のフレームが私のこめかみあたりにぶつかる。
暗闇の中には申し訳程度のランプしかない。互いの顔がそんな至近距離でようやく見えるような闇。

「あれか。いて座じゃないのか」
「ふーん」
「お前は星に本当に興味があるのか?」

呆れた声に、一番興味があるのは手塚だよ、とは正直に言うことも出来ずにへへ、と笑ってみせる。
手元の広げたはずの星座表は暗くてよく見えない。それにこんな東京じゃ本当は星もよく見えない。
都心のはずれの山小屋で何度も手塚と空を見上げた。長期休みには必ず彼を誘った。
あの眼鏡の冷たいフレームの温度。寝袋のざらついた手触り。食事時の飯盒の、軍手越しの熱さ。ぱちぱちと弾ける火花。
手塚の眉根を寄せた険しい顔、無表情、それが少し緩んだときの目元。
一緒に見た昆虫図鑑にうつった葉の影。
耳の横をつたい落ちた汗の雫。山の峰。静寂の中走り去る遠い電車の音。

すこしあたたかい、重なった薄い唇の感触。

全部覚えている。思い出そうとすれば鮮明に思い出せる。それでも苦しいから敢えて思い出したりはしない。ただふとした瞬間に思い出してしまうそれらは、心の奥底まで注意深く沈めなければ、



「手塚。そういえばお前さん、苗字と仲が良かったろう。あのことは伝えたのか?」

ごぽごぽと、深海を揺蕩うように見えた景色。何度も見たこれは中学3年生のときの現実を再現した夢だ。擦り切れるほど思い出した記憶のかけら。

「いえ、まだ」
「己の口から早く伝えたほうがいい。そうでなければ後悔するぞ」

竜崎先生。手塚はね、テニスに夢中で、部活に夢中で。私のことなんて、あの冷たく鋭利な眼差しの中にはなかったんだよ。伝えたい、今ならわかること。あのときの愚かな私と先生に。
今はもう、落ち着いて見られる。でもそうなるまでに、どれほど長い時間がかかっただろう。
ねえ、手塚。「いえ、まだ」。それをいつか私に伝える気はあったのだろうか。
一定の温度で変わらないいつもの手塚の声。低くて硬くて。あなたの声が揺れるのは、いつだってテニスのことばかりだった。

あなたは私の痛い過去の記憶。

すっかり身長の大きくなった手塚の背を見るだけで、通り過ぎた職員室の扉。
目の端に過ぎる青と赤と白。もう二度と現実に見ることは無い。

いつの間にか零れ落ちた涙に笑ってみせる。まだ私は泣けるのか。

もう二度と恋などという愚かな真似はするものか。

遠い異国の地で、いつか噂話できくといい。あいつはお前のことなど忘れて幸せになったと。



部屋でNetflixを見ていたときだった。

低い唸り声をあげて着信を告げるスマートフォン。珍しい電話だった。画面を見てさらに驚く。そこに映った文字は「大石秀一郎」だったからだ。
何度か、意識して深呼吸をする。間違い電話ではないだろうか。本当にわたしに用事なのだろうか。
震え続けるそれを、「もしもし」と緊張気味にとる。電話の向こうからも似たような緊張した声が返ってきた。
それに思わず笑みがこぼれると、大石は「なんだよ」と昔から変わらない柔らかな声音で言ったのだ。

「ひさしぶり。成人式以来だね。何かあった?」
「あ、えっと。あのさ。河村って覚えてる?」
「タカさんでしょ、お寿司屋さんの」
「そうそう、タカさんが中学のときのテニス部のみんなに、寿司握ってくれるっていうんだ。よかったら、苗字も来ない?」
「私、テニス部じゃないよ?」

大石とはそれなりに親しかったと思うし、他のメンバーも知ってはいるが、下級生となるとそんなに会話したわけでもない。しかし集まるのは私たちが中学3年時のレギュラー陣だという。全国優勝した年だ。そうすると下級生は桃城君と、海堂君か。あと、越前君。

「苗字がテニス部じゃなくても、店に男ばっかりじゃむさくるしいだろ?」
「大石の彼女でも連れてくればいいのに」
「今彼女いないし....」
「いっきに声が沈んだね」

クスクスと笑うと、あんまり傷を抉るのはやめてくれと言われた。どうやら彼女と別れたばかりらしい。
オレの愚痴でもきいてくれよ、久しぶりに会うのもいいじゃないか、と重ねて誘われ、たまにはそういった集まりに参加するのもいいかと了承することにした。
大石とは成人式の際少し話をした。そのとき連絡先も交換していたため、こうして連絡をとってくれたのだろう。彼が私を覚えていて、思い出してくれたことには少し嬉しさが募る。他のメンバーも会うのは成人式以来か。同級生ではないメンバーは高校の時以来にもなる。随分久しぶりの再会だ。


何度か来たことはあるため場所は知っていた、かわむら寿しのドアをスライドさせる。
暖簾の色が以前見た時より日焼けで薄くなったくらいで、内装は以前来たときと何一つ変わっていないことに感慨を覚えた。
中には既に数人集まっているらしく、座敷に座る人影が見えた。
懐かしいような、彼らが成長したことに感慨を覚えるような不思議な気持ちが胸に満ちる。

「いらっしゃい」
「呼んでくれてありがとう、河村」
「いやいや、呼んだのは大石だよ。でも会えたのは嬉しい。ひさしぶり」

真っ先に声を掛けてきてくれたのは河村だった。
へにゃりと気の抜ける笑みを浮かべる河村はあのころと何も変わらない。やや顔が大人びたくらい。手を唇に寄せクスクスと笑う不二は色気があり、相変わらず女子にモテそうだ。よーう!と手を振る菊丸はテンションこそ少年のように高いものの、見た目は随分男っぽくなっていた。乾は実年齢より少し上に見える。
大石にもひさしぶり、と声を掛けて彼の隣に座り、ビールを頼んだ。大石は髪が伸びて、あの不可思議な髪型ではなくなっていた。

「苗字、さん?あの苗字さんっすかあ?まじで?」
「桃城君も、ひさしぶり」
「ええ、ええ?滅茶苦茶綺麗、つか美人すぎて、え?まじすか?本物?」
「ひどいなあ」

目の前に座る桃城君の肩を冗談めかして叩く。彼は逆に髪が短くなったようである。そして随分と筋肉が増えたようだ。少年らしいバネはすっかりなくなり、ガタイのいい年齢相応の青年だった。

私の胸元まで届く長く伸ばした髪は毎日トリートメントとヘアパックを欠かさない真っ直ぐなものだ。
自分でも時折思う。随分と垢抜けたなと。
白い肌は山籠もりなどしなくなった証。ピンクベージュのネイルをいつも乗せている爪。
日々の体の手入れは怠らない。もう習慣化したそれを決意したのはいつだっただろう。
淡泊で平凡な自分の顔にはカラーメイクも似合うようで、随分と研究を重ねた。眉下から幅の広い目蓋にシャドウときつめのアイラインをひくとそれなりに印象が変わって映えることを知った。控えめな付け睫も付けている。余裕のある時にはマツエクもしている。
この中で一番容姿の変化があったのは恐らく私だろう。

「女ってすんげ...オレ今彼女いないんスけど、どうです?」
「桃城君の彼女にってこと?」
「おい桃」

大石が軽い口調の桃城君を止めに入った。それを手で制して首を振る。こういうとき、中学生の私ならどう対応したらいいか分からなかっただろう。今はもう知っている。

「褒めてくれてありがとう!でもごめんね。婚約者がいるから、桃城君とは付き合えないよ」
「あ、そーすか、残念....って婚約っ!?」
「実は婚約してます」

へへ、と笑う。出来るだけ幸せに見えるように。
驚いた様子ながら不二にはにこやかにおめでとう、と言われ、乾は何故か困惑顔で眼鏡のブリッジを押し上げた。菊丸はそわそわと落ちつかない様子で大石の肩を叩き、大石は俯いてしまう。
唐突に暗くなってしまった雰囲気に私は慌てた。

「あ、えー。私結婚したらだめ?驚かれてるだけ?」
「いや、全く駄目じゃない!そんなことあるわけないだろう!」

おめでとう!と徐に立ち上がった大石に予想以上に大きな声で言われたため、ありがとう、とまた笑った。
私の薬指に沈んだ冷たい指輪を、斜め前に座っていた乾がしげしげと興味深そうに見つめている。その左の掌を目の前でひらひらと動かして見せると、彼は本当に婚約したんだな、と感慨深そうに呟いた。
海堂君、越前君と続々と入店してきたあとには、ややもせず近況報告会のようなものになる。彼らともアルコールで乾杯できるようになったのだ。私たちは、もうすっかり大人だ。
みるみるうちに消えていく大量のお寿司を見て河村は嬉しそうにしていた。彼がテニスをやめて力を注いだものが、今私たちの目の前にあるのだ。

みなそれぞれ大人になった。大人になってしまった。それだけの年月が過ぎた。

「あ、ごめんちょっと電話」

先日、優しすぎて物足りないの、と悲しすぎるフラれ文句を交際していた女性に口にされてしまったらしい大石は、アルコールの入った赤ら顔でよろけながらも立ち上がる。

「だいじょーぶかあ?大石」
「大石、マフラー持っていきなよ。外、寒いと思うよ」
「さんきゅ」

すっかり季節は冬前で、コートが必要になるかというような気温だった。スマホを耳に当てながらあわただしそうに大石が店から出ていくのを見送る。

「ねえ、苗字」
「なに?」

大人みたいな顔になった、まだ見慣れない菊丸が私に聞いてくる。

「いま、幸せ?」
「いきなりだね」
「ねえ、いま幸せ?」
「菊丸は今幸せ?」
「オレがきいたのになあ」

ぶう、とむくれながら、どうだろうなあ、とやはり大人みたいな顔で菊丸は考える。
私も考えてみた。幸せよ、と即答するのが正解だっただろうか。
ぽっかりと空いた隣の席の住人が戻ってきたら、みんなが揃ったところで答えよう。私はいま、とても幸せだと。まるで当て付けのように。

引き戸が開く音がして、大石だろうかとなんとなく視線を向ける。
そこには人が二人いた。マフラーを巻いた嬉しそうな顔の大石が笑う、その先に。
大石より身長が少し高くて、髪はアシンメトリー。髪の色の色素は薄めで、鋭い目つきに厳めしい顔。昔よりもさらに大人になった。
ウィンブルドンを制し、華々しいテニスの現役人生に幕を下ろした手塚国光。

私の初恋だった人。

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