私たちの世代には世界的に名を馳せるテニスプレイヤーが数名いる。

そのうちのひとりが手塚国光だ。

歯磨きをしながらテレビを見遣る。
私が勤務するシューズメーカーのCMが流れていた。テニスラケットから光を迸らせる演出の中動くのは、手塚だ。ボールを返すときに、汗が額からしたたった。
彼は汗の滴るいい男で間違いない。昔からよかった顔は更に精悍さを増した。
彼をテレビで見ない日は少ない。数社CM契約していると聞いた。
クセの強い越前君や、財閥の一人息子という特殊な立場の跡部よりは手塚のほうが企業としては使いやすいのだろう。明らかに堅実そうで広告塔にするのに躊躇う要素がない。

「手塚君、大活躍ですね」

テーブルの向こう、推理小説を読んでいたはずの彼は眼鏡のブリッジを持ち上げ呟く。
私は歯ブラシをとって口を漱ぎ、冗談めかしてその言葉を口にした。

「比呂士は、どう思う?悔しい?」
「そんな感情はもうとっくに超えていますよ。今は純粋にファンですから」

柳生比呂士は婚約者だ。彼とは大学生の頃から付き合いだし、先日婚約をした。
医師を目指す彼は現在研修医をしており多忙を極める。生活も不規則でこうして話すこともあまりない。
しかし、それがお互いに楽だった。

比呂士にあなたは美しいですね、と言われ。これはつくりものだよ、と返したとき。
あのときは今より、表情さえいつも意識して作っていた。美しく見えるように。

私もそうですよーーーーーー似たもの同士ですね。だから、一緒にいませんか?と誘われたのだ。それは告白とは異なるものだったが、交際の申し込みで間違いなかった。

比呂士は周囲の目を異様に気にする節がある。世間体というのとは少し違うものの、自分への評価を気にしていた。理想の自分と理想の環境を追求することをやめなかった。
紳士的な口調、いつも冷静な顔つき。それは彼が作り上げた外界への仮面だ。
私もそうだ。周りの目を気にして美しさにこだわるようになり、世間一般の女性と同じように彼氏を欲しがった。恋をする気もない癖に。変わりたかった。見返してやりたかった。遠い国にいるはずの、初恋の人を。

比呂士の手は気持ち悪くなかった。私に恋愛感情を抱いていない手。
手を引かれても。セックスするときに這う感触も、気持ち悪さを感じたことはない。

いつのころからか、男性に触れられることに恐怖や嫌悪を感じるようになった。
恋愛感情というものをとりわけ嫌悪し、意識しすぎたせいだろうか。触れられると相手の感情が、私に好意を抱いているか否かわかるようになってしまったのだ。
不思議なことに、これは決して憶測などではなく、感覚としてきちんとわかる。その後彼らには告白されたり、ホテルに無理やり連れ込まれそうになったこともあるため、その奇妙な感覚は確信に変わった。
そのため好意を抱かれているとわかると途端に相手のことが薄気味悪くなり、近くにいると吐き気を伴うようになってしまった。
比呂士も世間体を気にして彼女が欲しいだけで、恋愛をしたいわけじゃない。優しさの仮面を被りつつもその実冷酷で潔癖な比呂士は、恋愛感情も面倒で汚いものだと思っている。
互いに互いの都合が、よかった。

「今日は何時に帰るの?」
「申し訳ありませんが、今日は帰れないと思います」
「わかった、頑張ってね」
「はい、ありがとうございます」

比呂士を見送る際に、玄関先で軽くキスをする。恋人の真似事、歪んだ関係性。それでも私たちの形には、お互いに満足していた。






「手塚、現役お疲れ様」
「ああ、ひさしぶり、だな。ありがとう」

困惑気味に腕を傾けた手塚と乾杯する。思った以上に私は冷静で、ああ、傷は乗り越えられたのかもしれないと思う。
彼と会うのは中学三年のとき以来になる。
あれはもう遠くなってしまった以前の事と割り切って、いつの間にかちゃんと歩き出せていたのかもしれなかった。

「ごめんね、今日手塚へのお疲れ様会だって知ってたら何か持ってきたんだけど」
「いや、オレが言わなかったから。ごめん」
「気を遣わせてすまないな、大石」

大石が手塚をサプライズで皆に会わせたかったことはすぐにわかった。
そして、私が婚約したと告げたときの大石の表情。乾と菊丸の不可解な態度に納得がいった。
私が未だに手塚に未練を持っていると思っていたのだろう。だからこそここに呼んだ。気遣わせてしまった。

あまりにも当時の私は愚かだった。

彼がドイツに旅立つことはテニス部経由で知った。それでも手塚本人から私に話があるものだと信じて疑わなかった。
当時も今と同じように大石が気を遣って、空港へ手塚の見送りに誘ってくれたものの、そのときの私はあまりの胸の痛みに動くことすらできなかった。

手塚。手塚にとっての私って、いったい何だったの。あの冷たくともあたたかなキスは一体なんだったのか。初めての、甘いキスだった。
泣きながらベッドで蹲った夜。

愚かな勘違いをしていた。私と手塚は両思いだったと。こんなに痛いものならば。愚かな勘違いをするくらいならば、恋愛感情なんて二度と抱くものか。
男を手玉に取るくらい美しくなってやる。そしていつか、彼が風の噂できくといい。あいつはお前のことなど忘れて幸せになったと。


「手塚、左腕の調子はどうなんだ?」
「日常生活には支障がないレベルには落ち着いている。問題ない」
「テニスは、もう」
「出来ないかもしれないが、出来るかもしれない。オレは希望を捨てるつもりはない」

左腕を抱えながらそう口にした手塚は、とても現役を引退した人間には見えなかった。諦めなど微塵も見えない闘争心が滲む瞳だった。越前君がのし上がって来てよ、と挑戦的にその目を見つめると、ああ、と手塚は頷いてみせる。

手塚はやはりテニスしか見ていないのだ。今も変わらず。その事実を突きつけられ、あれはやはり勘違いだったんだと痛感して。中学生の頃の苦しみを思い出す。それでも、笑え。口角を美しく上げろ。
あのころの愚かな私はもういないのだからと言い聞かせて。

「手塚の新しい門出を祝して!それから、苗字の婚約も、おめでとう!」

乾杯、と大石が音頭をとり、またゴチャゴチャと煩い空間に舞い戻る。手塚、ともう一度彼とグラスを合わせようとすると、手塚が固まっていた。

「手塚」

二度ほど呼ぶと、ああ、と手塚が動揺を顔に浮かべて私を見る。いつも冷静沈着な彼らしくない表情を訝しむ。

「婚約、したのか」
「うん、そうだよ」

指輪の沈む左手をひらひらと揺らしてみせる。風の噂で聞くどころではなく、目の前で言って、笑って。

「幸せになるよ」
「そう、か。おめでとう」
「ありがとう!」

再びグラスの合わせた。ビールを飲み、新たに用意されたお寿司を口に運んで行く。もう食べられないくらい食べているものの、それでも美味しい。
河村は、やはりたくさんの努力をしたのだろう。無数に彼の手についた切り傷は職人ならではのものに見えた。

「そういえば、苗字は結婚したら苗字が変わるのか」

乾が鮪を品よく食べながら聞いてきた。

「うん、柳生になるよ」
「柳生?柳生だと?もしやあの柳生じゃないだろうな」
「ああ、うん。立海大付属だった柳生だよ。私の婚約者」

大石と菊丸が驚きにつるりとグラスを掌から落とす。ビールやら何やらがテーブルや床に溢れ混沌とし、河村が白眼を剥いた。しかしすぐに片付けてしまうあたりも流石としかいいようがない。慌ててみなで片付けを手伝いながら大石の混乱した顔を見る。想像以上に動揺させてしまったらしい。
正気っスか、と三白眼を開いた海堂君にもうん、と頷く。彼らにとっての比呂士のイメージはそんなに悪く無いものだと思っていたのだが、違ったようだ。

「底が知れない感じがするんすけど」
「比呂士が?」
「あの仁王とかと一緒にいるんすよ」

フシュウウ、と恨みでもあるように警戒してみせる海堂君に、そうでもないよと言ってもあまり信じてもらえない様子だ。彼だけでなく、もしかしたら立海テニス部だった彼ら全員に苦手意識があるのかもしれない。
比呂士は底が知れないわけではない。丁寧な口調と表情で分かりにくくしているだけだ。仁王くんのほうがよほど底が知れない。首を傾げつつお寿司を取ると、私の右側に大きな手が迫る。
その手は優しくゆっくりと、耳に触れ髪をかけた。

驚いてその手の主を見る。手塚だった。

「すまない。髪が皿につきそうだった」
「あ、本当。ごめん、ありがとう」
「やるねえ、手塚。柳生に怒られないといいね」
「比呂士はそんなことで怒ったりしないよ」

不二にそう言って微笑みながら、衝撃にすこし泣きたかった。手塚はじ、と私の耳を見ている。横顔を、見ている。顔の右側がチリチリと熱い。
先程触れられた感触が、間違いでないのなら。

手塚は私に好意を持っている。

そして、気持ち悪くならない自分に、泣きたくなって吐きたかった。どうして、今更。