ガタガタと電車同士が擦れる衝撃音。
最近好きなアーティストの音楽をイヤホン越しに薄くかけながら目を閉じるいつもの朝の通勤の電車内は、いつも通りの混雑模様だった。
申し訳程度についたヒールの靴で出勤する。スポーツメーカーということもありカジュアルな服装の社員が多い中、たまに女らしい格好をしたくなるのは、やはり女性らしい美しさの指標で見られたいからなのだと思う。
社員証になるICカードを会社の入り口でタッチして、エレベーターで15階まであがると自分のデスクまで向かった。私の勤務先のスポーツメーカーは大手ビルの中に居を構えている。一度手放したはずの自社ビルを再度作っているらしいが、引越しはまだまだ先になるようだ。

名ばかりの企画職が私の社内でのポジションだ。本当のデザイン職はプランナーという冠が付く。
そんな私の仕事といえば、何かと衝突しがちな営業とプランナーの間に立つことであったり、プランナーが作成した資料を営業向けにわかりやすく作成しなおしたり、市場調査であったりする。
大切な仕事ではあるが、雑用も多いような仕事だ。
通勤途中のコンビニで適当に買ったお昼ご飯をばさりと机に乱雑に置く。まばらに聞こえてくるおはよう、というあいさつに、いつもと変わらない声でおはようございますと返した。

既に隣のデスクに座っていた先輩が、私の肩を叩いて興奮したように話しかけてきた。どうやら私の出勤を待っていたらしい。

「ねえねえ、知ってる?」
「どうしたんですか?」
「うちのCMやってる手塚国光、帰ってきたんだって!日本に!」
「そうなんですか?」

本人と知り合いだと漏らしてしまうとサインなどをせがまれそうなので、そう平気で嘯くと先輩は嬉しそうに続けて言った。

「しかもね!シューズの企画コラボ打診してるんだって!上の人が!」
「え?手塚国光に?」
「そうよー!もしかして会えたりしちゃわないかな!」

ウキウキと花を飛ばす先輩には申し訳ないが、私は出来ることならば会いたくない。
手塚と連絡先の交換などしていないので、噂の真偽のほどは確かめようもない。

ぎゅ、と胸のあたりが捻れるように痛んだ気がした。

それが本当のことであったのを知るのは、その当日の昼である。
新企画は構想段階で全て目を通すことになっている。
パワーポイントで上の人が適当に作ったであろう資料には、しっかり手塚国光コラボと記載されていた。回されてきた企画書のデータは決して重くはないのに、重い気がした。
ひゅ、と驚きに息を吸いながら、震える手でカチカチとダブルクリックしてデータを開いた。
履きやすさ、軽さを意識しながら手塚を意識したシャープなデザインの企画。それでも中高生が背伸びをすれば届きそうな価格帯に設定して、スポーツ量販店にも並べてもらうことを前提としていること。などのざっくりとした概要が並べ立てられている。
テニスラケットを持った少年たちの後姿のイメージ画像は、いやがおうにも私が恋した青春を思い起こさせる。

同じく社内メールに気付いた隣の先輩は手塚の熱心なファンだったようで、目を潤ませて大喜びしている。
私は掌にうっすら汗をかきながら、ただ手塚に会いたくはないと願った。




会いたくないと願ったところで、かの人にはあっさり会ってしまうものだ。
同じ時間に同じ会社の中にいる人間同士。ましてや私はプランナーと営業部屋の間をばたばたと駆け回っていることも多い。

偉い人がへこへこ頭を下げながら、手塚を持ち上げるように媚びへつらうように笑っている。嫌な笑いだと思うが、あれが上の人たちの常である。
対する手塚も通常運転のような無表情で。
ぞろぞろと六人ほどの男の集団は、手塚を中心としたモーゼの十戒のようだった。社員たちは彼らの姿をみかけると廊下で端に寄ったりするが、専務は手塚を社内案内しているようである。専務はここがどの部署だとか、社員を捕まえて話をさせようとしたりしていた。
平社員たちはCMの向こうにいたはずの手塚にじっと見つめられ、おっかなびっくりしたり挙動不審になったり、女性であればうっすらと頬を赤らめてみたりしていた。
廊下でほかの社員と同じように端に寄ってみた私なのだが、手塚に普通に見つかった。
手塚は少しばかり目を見開いて、会社で目立ちたくないそもそも手塚に会いたくなかった、などといった私の葛藤はお構いなしに私の目の前に立った。

相変わらず背が高くてすっとしていて、ノンフレームの眼鏡はよくよく見ると中学生の時とは若干デザインを変えたようだった。しかしその奥の冷たい双眸は以前とも変わりがなくて、かわむら寿司で見たようなうっすらとした焔が見当たらないことにほっとした。

「この前ぶりだな。ここで働いていたのか」
「うん、実は....」

低い声で突然話し出した手塚に面食らった専務や見知ったプランナーや営業の人たちの刺さるような視線に縮こまる。

「苗字さん、手塚さんと知り合いだったのか?」
「実は、中学の同級生でして...」
「え!?」

驚き絶句した周囲の反応に顔をあげていられない。またあとでね、と軽くここで言えたらきっと正解だったのだが、なかなか目にしない社長も目の前にいたこともあって、私も頭が回っていなかった。瞼を半分落としながら右下の床のほうに視線を向けると、手塚はは、と小さく息を吐いた。

「苗字は、企画に参加していないのか」
「うん...そうだね。私はあくまで調整役だから、何らかの形では関わるかもしれないけど」
「すみません、彼女に企画参加してもらうことは可能でしょうか」

小さく首を左右に振った私に、すぐに手塚は専務に話を振る。
ぎょっとして目を見開くと、専務も一瞬同じようにぎょっとしたものの、ええ、ええと頷いて君も参加するように!と調子よく言った。
専務は営業畑出身だ。咄嗟のイエスの判断には慣れている。そして部下に無茶ぶりをすることも、部下の意見を聞かず物事を強行することも。
その上都合の悪いことに、我が社にとって手塚は金の成る木である。
手塚はまだ現役を引退したばかり、時の人と言ってもいい。今から商品の開発期間がかかり商品の販売がこれからになっても、手塚はテニス少年たちの憧れの的なのだ。手塚の名前がつけば商品は確実に、他のシューズより売れる。

「て、手塚。私は参加しても、何もできないかもしれないよ」
「俺がお前に関わって欲しいといっても?」

手塚は賢い。自分がこの社内でどんな立場にいるのか、よく理解しているのだ。自分がお願いすればだいたいの無理は叶う状況だと。
諦めと悔しさと複雑な感情が胸の中でぐちゃぐちゃと入り混じって、そっと下唇を噛む。
手塚は視線を逸らさず、そんな私の顔をじっと見ていた。

よって一行は手塚を中心に私を引き連れて、会議室にとんぼ返りした。
会議室は予約制にも関わらず専務権限で予定をねじ込みである。
手塚はその様子を何も言わずに見ていて、迷惑をかけているのをわかっていてまで私をチームに引き込む手塚の心境を図りかねていた。
私の知る手塚は手塚は部長としてもテニスプレイヤーとしても学生としても、全ての立場において己を弁えている人間だった。
そもそも会議室に帰ってくることになったのは、手塚が企画チームでの私の立ち位置を今はっきりさせてほしいと明言したためだ。
専務は私の立ち位置など考えてもいなかっただろうし、なんなら本来のサポート役での参加でもよかった。それでは物足りないのだと手塚がすでに宣言したようなものだった。
そんなことをすぐに決めろと迫られるとも思っていなかっただろう。
私もめったに聞いたことがない手塚の我儘のような主張とはいえ、身の置き所のない申し訳ない気分になる。

「苗字にシューズデザインそのものをお願いしたいのですが、それは可能でしょうか」
「は」

プランナーの男性――――――30代既婚者で多少我の強いところのある鶴橋と思わず目を合わせる。
鶴橋は仕事は早く説明も簡潔だ。ただ気性がデザイナーらしく荒く、自分の仕事にプライドを持っている。この手塚の発言にはやや怒りを滲ませた。

「お言葉ですが手塚さん」

鶴橋としては反論せざるを得ないだろう。私はプランナーではない。
プランナーは謂わば専門職である。
靴の図面にデザインを描くのはすごく簡単だ。
ただ中身はそうではない。
構造上複雑なデザインを置いてはいけない場所も必ず存在する。そういったことを考慮してデザインを考えるのがプランナーだ。売れ筋や流行のデザインをチェックして、他社の靴を買ってきては分解してクッションやゴムを分析して自社製品に活かす。
私達企画もコスト含めある程度のことは知識としてわかってはいるが、それはプランナーが靴を分解研究したおこぼれの情報を授かっている形であり、自分たちの仕事の結果ではない。
しかしそんな説明などどうでもいいのは営業畑だった専務だ。専務は手塚に納得してもらえればそれでいいのである。

「鶴橋はサポートで苗字がメインで進める形にしましょう」

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