中学一年の校外学習はハイキングだった。
途中の道端に生えていた猫じゃらしをむしって、ぷらぷらとそれを揺らしながら歩く。ぞろぞろと中学生の集団が引率されながらジャージ姿で歩くのは、否が応でも目立つなあなんて思っていた。
山が大好きだった。祖父母は東京郊外に畑と山を持ち、そこでひっそり、それでも楽しそうに暮らしていた。
私は特に、祖父の持つ「秘密基地」が好きで、長期休みに入るとそこに入り浸っていた。部活も陸上部であったせいもあり、夏も冬も屋外で走り回る私の肌は年中真っ黒だった。やりすぎなくらいのショートカットのせいもあり、その容姿は男子に間違えられるほどだった。

ハイキング先の山を登るのに、隣の友達がゼエゼエと呼吸を荒くしていても、私は木の根を触るのが気持ちいいとはしゃいだ。友達がげんなりと「小学生か」と口にする。
そんな中、私と同じく全く息を乱していない少年に目が止まる。
手塚は同級生の男子の中でもとりわけ落ち着いていて、女子の中で既に人気があった。落ち着いているのに地味というのとは全く違う。とにかく大人っぽかった。幼い顔についているシャープな眼鏡の相乗効果もあったのかもしれない。
そして私もそんな手塚が気になっている単純な女子の一人で、あの無表情や取り繕った険しい顔を乱してみたいと思っていたのだ。笑ってみたらいいのに。きっとかわいい。

お昼になり各々がお弁当箱を広げ出し、昼食を取っているときもチラチラとそんな彼を気にしてしまう。美味しそうなごはんに寄ってくる蟻にご飯粒をあげたりしていると、周りの女の子達には引かれてしまいふて腐れた。
そういえば、手塚は虫は好きだろうか。
お昼を早々に食べ終えた自由時間、周りから離れキョロキョロと目ぼしい虫を探してみる。アリは違う、バッタも違う。出来ればもっと分かりやすく大きいものがいい。
すると、葉の上に静かに乗っているナナフシを見つけた。細長い体で葉や植物に擬態する虫だ。他の虫とは違う、スマートなその独特のフォルム。気に入っている種類の虫の一つを見つけられて嬉しくなる。
捕まえるのもすごく簡単で、そっと体を掴むだけだ。肘から先を曲げて乗せると落ち着いたようにしがみついて来る。もちろん彼らにそんな意思はないのかもしれないが、そんなところが可愛いのだ。

ちょうど一人でぽつんと木のベンチに座っている手塚がいたので、思い切って彼に話しかけてみることにした。

「ね、手塚くん。みてみて」

にこにこと機嫌よくしながらナナフシを差し出すと、無表情を少しだけ驚かせながらも彼はナナフシを器用に手の中に移動させた。虫に抵抗はないらしい。

「かわいいよね。虫好き?」
「ああ、嫌いじゃない。お前は虫が好きなのか」
落ち着いた声音で手塚は私を見る。それに嬉しくなってしまった。手塚国光が私を見ているのが、とてつもなく嬉しかった。
「うん、だいすき」
気付けば弾けるようにそう答えていた。

「女子では珍しいな」
「へへ‥家でね、カブトムシ飼ってるよ。カマキリも飼ったことあるし、蜘蛛とかも嫌いじゃない」
「そうか‥」

「あのさ、ごめん気になってたんだけど‥手塚くん、笑ってるところ見たことないなって思ってたんだ」

失礼とは思いながらずっと思っていた疑問をそのまま率直にぶつけてみると、言葉少なに笑うのが苦手なこと、別に楽しんでいないという訳ではないことなどをポツリポツリと教えてくれた。




シャワーを浴びてリビングに向かうと、比呂士が座りながら本を読んでいる。

「あれ、おかえり。今日は帰らないんじゃなかったの?」
「ええ、その予定だったのですが、当番を変わってくれるというので甘えてしまいました」
「そう、お疲れ様。眠くないの?」
「当然眠いですよ」
「ふふ、早く寝なよ」

続きが余程気になるのか、本から視線を離さない比呂士に笑う。冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出して飲んでいると、比呂士が私をみた瞬間「泣きましたか?」と聞いた。

「まあちょっとね」
「今日は青学の人達と飲み会でしたね」
「うん、そう」

ただ肯定をしただけの私に彼は口を噤むと、本を閉じて私の方に近寄って来る。座るように促され、大人しく座った。おもむろに、比呂士は髪に触れてきた。

「えっ、どうしたの」
「やってあげましょうか」
「眠いんじゃなかったの?」
「たまにはこういうのも良いでしょう。婚約しているわけですしね」

ドライヤーの熱風に目を閉じる。いつも忙しく、それ以外の時間は専ら本を読んでいるはずの彼は気まぐれに髪を乾かしてくれるらしい。
比呂士の手は好きだ。何も感じない、ただ受け入れるだけでいい手のひらが。あたたかいはずなのに、その心の温度が見えないことに酷く安心する。大きな手が髪を優しく梳く。
安心しきって猫のようにうとうとと丸くなると、「まだですよ」と肩を叩いて戒められる。
いつもやっていることをよく知っているせいか、最後にヘアオイルを塗るところまで丁寧にやってくれた。その珍しい優しさに、比呂士の胸に背中を預ける。
一通りの作業が終わると、彼はそっと私を抱きしめた。

「どうしたの。慰めてくれてるの?」
「まあ、そんなところです」
「ふふ、‥珍しい」
「貴女のことは、それなりに気に入っていますよ。そうでなければ婚約などしません」
「知ってる」

くるりと振り返り、薄い唇とキスをする。紳士的に見えて実は冷たい彼と。
比呂士は何でも気に入って綺麗なものだと思ったものしか傍に置かない。彼に気に入ってもらえたことは光栄なことだ。そしてそれは分かりやすくていい。
私の物分かりがよく、見た目にそれなりに気を遣ってさえいれば私たちの関係が崩れることは無いからだ。
恋愛感情などという重くて辛い荷物を抱えたくない私たち。

「ベッドに行きましょうか。久しぶりに一緒に寝ましょう」
「ええ、眠いんでしょ?明日大丈夫?」
「疲れていると男というのは起つ生き物なんです。知っていましたか?」
「知らなかった....」

それぞれ自分の部屋で眠る関係であるにも関わらず、こうして同じベッドで眠るのを誘われたときはセックスの誘いだと知っている。
ひょいと持ち上げられ、白く浮かんだ首にしがみつく。そっとそこに耳をつけると動脈が血を流す、生きている音がした。
清潔なにおいのするシーツの海で身悶える。比呂士のセックスがすごく上手いとは思わない。それでも体に容赦なく触れる手には否応なく反応してしまう。

事後には、綺麗好きのはずの比呂士が一本だけ煙草を吸う。メンソールの、吸っても吸わなくてもあまり変わらないようなものだ。吸わなくてもいいんじゃないの、と聞いたとき彼は気分の問題だと言っていた。
また体質なのか、煙草をどれだけ吸ってもニコチン依存にはならないらしい。
真白いシーツにくるまり、比呂士の足元で小さく丸くなる。夜の外の明かりが部屋を照らした。
微睡んでいると、「手塚君ですか?」と彼は静かにその名前を口にする。

「うん...?」
「泣いていたことですよ」

つ、と白魚のような美しい指が私の目元をなぞった。もうそれに淫靡な香りはしない。

「そう、‥手塚に会った」
「手塚君、帰国していたんですか」
「そう、みたい....」

比呂士はそっと私の頭を撫で続けた。私が静かな眠りにおちるまで。