時系列→柳が家を出る前
うちの弟はとても優秀だ。
彼は常に品行方正で、反抗期もなかった。
スポーツをしていても、年頃になってもクサいなんてこともなく清潔感があったし、性格も悪くない。よって弟と特別喧嘩をしたことはない。イチャモンのつけようもなかったし、口喧嘩でもしようものなら言い負かされて終わりなのでやる意味がない。
幼稚園の頃に弟とお菓子の取り合いをしたって、弟は妥協点を探ってくれた。あのときは理解していなかったけれど、幼い頃から弟は天才的に賢かった。
成長した彼は、クレバーという痒い言葉が似合う感じの男になった。我が弟ながら、同じ血を引いているとは思えないほど出来がいい。
時折蘊蓄が煩いしオタクっぽいけど物知りで、一緒にテレビ番組を見ていても雑学クイズはすごく強い。
姉としてはとにかく自慢の弟なのだ。
今も真面目に大学に通っていて、順当に、いわゆるいい会社に就職するんだろうなと思っていた。
そんな彼のテンションが最近やけに低いことには気づいていた。普段は雑学の知識披露を嬉々としてするくせに、クイズ系の番組の時もテレビの前でぼーっとしている。おかしい。
新聞をめくるときも物憂げな顔をして、無意識だろうがため息をついている。
ただ彼も大学生だし、姉がわざわざ茶々を入れるのも鬱陶しがられそうで、放っておいた。
悩みの一つや二つ、今までだってなかったわけじゃないだろうし。
弟は今玄関で、リュックを小脇に置いてスニーカーを履いている。
見送るためわたしは彼の背中から二歩ほど下がった後ろで立ち、ひとりソワソワしていた。
今日、弟は家を出て行く。曰く、彼は友人としばらくルームシェアをするらしい。
その報告はあまりにも一方的で、我が家にとって青天の霹靂だった。
別にそれ自体に反対なわけじゃない。
彼ももう大人なのだから、好きにすればいいけれど、これはあまりにも弟らしくなかった。
あの弟が!真面目と実直を絵に描いたような弟が、わたし達家族にほとんど情報も与えずこの家からいなくなる。詳しく聞こうすれば口を重くする。あの饒舌な弟が。
一人暮らしをするなら自分が先だろうと思っていたわたしは白目を剥いたし、母は今でも時折不安そうな顔色をしているし、父は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
友達とルームシェアとはいっても、肝心な友人の苗字をわたしたちは聞いたことがなかった。少なくともテニス部関連の友達じゃない。
親しくもない友人とルームシェアするなんて、慎重な弟らしくない。
母がその方にご挨拶を、と言ったとき目に見えて弟の顔は強張った。結局弟の友人には会えず今日日を迎えている。
しかも、せめて引っ越し先の住所を教えろと言って聞き出した場所の物件情報を調べたら単身用だった。本当にルームシェアをするつもりなのか、ルームシェアといってもしばらくの仮住まいらしいけどそれにしたってどうかしている。何でルームシェアしたいのかもわからないし、蓮二は頑なに理由を語らなかった。
そう、最近の弟は本当におかしいのだ。家族にわかるよう嘘をつくとか、隠し事をするとか、本当に弟かと目を疑う。何か乗り移っていると言われても信じてしまうほどおかしい。
嘘をつくにしたって、本来のうちの弟はそういうのをもっと上手くやれるはずだから。
ただ、今回は彼の言い分を信用してみることにした。今までずっと「おりこう」だった彼は、犯罪に巻き込まれてしまうような変なことはさすがにしないだろう、という今までのわたしたちの信用があったから。
だから、姉たるわたしは頑張って蓮二を見送ろうと思う。ひっそり応援だけして。
「いってらっしゃい」
「ああ、いってくる」
でもやっぱり不安。基本しっかりしてる弟だけど、最近様子が変だから。
月一で自宅に戻る約束を忠実に守っている弟が、今日も帰ってきた。
友人とルームシェアをはじめてから、少しだけ弟は明るくなった、と思う。何はともあれ特に悪い方向に変化することもなく、わたしたちはほっとしている。
そして弟は料理が上手くなった。元から器用でなんでも出来たけど、こんなに上手くなかったはず。部活で忙しくて家事の手伝いもそんなにしていなかったし。
「お出汁が美味しい〜蓮二は凝り性だよねえ」
両親より一足早く夕飯を食べる。今日は珍しく蓮二が夕食を作ってくれたのだ。
お吸い物とごはんと、出し巻き卵、鯖と大根の煮物。めちゃくちゃおいしい。うちの弟はやっぱりすごい。
水と昆布と鰹節でとった出汁は素材の味がいきていてこのお吸い物いくらでも飲めると褒めに褒めると、弟は恥ずかしそうな嬉しそうな顔をした。
「先日友人もそういっていた」
なんだ、ちゃんと友達と仲良く暮らしてるんじゃん。よかった。
妙に自信家なところもあった弟はこの柳蓮二に出来ないことはないと言わんばかりなときもあった。最近は少し謙虚さも覚えたような気もする。
弟がますます大人になっていくなあ、と、わたしはさらに安心したのだった。
前 | 次
top