01
図書室は、どこか孤独の気配がする。

人の会話が極力ない、本の頁を捲る音しかしないからだろうか。校舎の中でも一際特殊な教室だと思っている。
番号付きのラベルが貼られた本がずらりと整列している。
勿論俺は図書室が嫌いではなく、むしろ好きな空間であった。本は自分の知らない世界や知識を授けてくれるものであるのに、同級生たちに活字が嫌いな人間が多いのはまったく理解できない。
今の、そろそろ下校時間になろうとする時間でなくとも、放課後の図書室に好き好んで寄る人間は数少ない。

そんな空間の中で、視線の先にはひとりの女生徒が座っている。彼女も他の生徒たちと同様に、俯いて静かに、物思いに耽るように読書に励んでいるようだった。
教室の影に埋もれようとするほど希薄な存在感で。

「苗字」

同じ図書委員になった、取り立てて特徴のないその同級生が、山の峰に沈まんとする陽を背に振り返る。
窓から差し込む橙色の光の眩しさに、細目だと散々部員達にからかわれ倒す目をさらに細めた。

「これを借りて帰ろう」

最近よく読んでいる近代文学の研究者の著書を差し出すと、カウンターに座っていた苗字は素直にうん、と頷き俺の手から本を受け取った。影がより鬱蒼としたコントラストをつけ、苗字の顎あたりで切りそろえられたボブカットが揺れる。
人の中に、空間にすぐに埋もれてしまう。よくある茶色がかった瞳に大人しそうな顔立ち。彼女の外見は本当に取り立てて特徴がないことに特徴があると言えたが、ひとつだけ他の女生徒たちと違うところがあった。
ともに同じ空間にいて苦痛や面倒を感じないのである。
それは恐らく、彼女が人に深く干渉しようとしてこないからだろう。滅多に合わない視線を失礼とも思わない。

身長が伸びてきたことに一因があるのか、妙に容姿で騒がれつつある最近の自分の周りの状況は、少し考えただけで思わず溜息をつきたくなるものだった。気軽に話せる人間が限られている。自分の不用意な一言で騒がれたりするのはひどく不本意だった。テニス部連中であればまだいいのだが、それ以外の人間の前では話す言葉に非常に気を遣わなければならなくなった。

正直に言うと面倒だったのだ。もろもろの処理が。男女交際にかまけている時間などないのに、押し付けられる好意というものが。残念ながら、自分は思春期とやらの真っただ中にいるのである。

苗字と偶然同じ図書委員になり、同じ空間にいてよくわかる。寧ろ関心を向けないとわからない。
人一倍彼女の存在はそこに溶け込んでいた。空気のように。異様なほど苗字は希薄だ。
観察癖のある俺が見ていても、彼女の行動も容姿も全く目立たない。何度見ても同じだがこれといった特徴がないの一点に尽きる。
特別親しい間柄の友人もいなさそうだが、クラスの中でも大人しいグループに所属し、休み時間などは彼女達で固まって騒がず穏やかに話をしながら過ごしている。校内でもとりわけ目立つらしい俺たちテニス部にも関心を示さず、用がない限りは話しかけてくることもない。話しかけても当たり障りのない反応しかしない。

「苗字」
「ん?」

視線をあげたクラスメイトに、何の気はなしに聞いてみた。ただふと興味が湧いたのだ。
彼女がまわりと何がどこまで違うのか、答えをはっきりさせたかった。

「テニス部をどう思う?」
「どう、って」

カウンターの脇にある機械で貸し出し作業をしていた彼女の手が、ゆっくりと宙で揺らいだ。影がぶれる。

「柳君の質問の意図をはかりかねる、と言いますか」
「苗字が手元の本の表紙を確認する確率は89%だ」
「………見ちゃったじゃない…」

そこに答えがあるわけでもなく。
困ったように笑った彼女は持っていた本をカウンターテーブルに置くと、窓の外へと視線を逸らした。また少し、陽が山に隠れる。
人気のない図書室には時計の針の音だけが響いている。いつの間にか図書室にいるのは俺たちだけになっていたことに気が付いた。彼女の瞼が数回、逡巡するように瞬く。


「テニス部、は、……すこし、不憫に見える」
「不憫、とは?」
「んー………テニスを心から楽しんでる、というより、やっぱり強豪だからかな。貪欲に勝ちにいかないといけないって、時と場合では息苦しいと思うし。その上女の子達にもいつも騒がれて注目されて、大変そうだなって」
「同情か?」
「ん?ん…同情…同情ね…」


彼女はまた首をひねり、困ったように回答を放棄した。わからない、と口にする。
それよりも、俺は苗字が勝ちにいかなければならない、常勝の縛りがある立海テニス部の状況を知っていたことにやや驚いていた。全く関心がなさそうだったのにも関わらず。

彼女は興味が無さそうに見えて、予想以上に色んなことを見ているのかもしれない。それでも男子を見て、騒いだりはしない。
そして俺はひとつの解を見つけた。
彼女は中学二年という年齢にしては、周囲の同級生より大人びている。
観察されているのは、案外、俺の方なのかもしれない。

「わかった、ありがとう」
「いいえ、しゃしゃったこと言ってごめんね」
「いや、その通りではあるのだろう」
「…そうなんだ」

じゃあ、また。