08
優しさの定義とは。優しさとは一体なんだろう。

考えても無駄なことを考える。そう、何にもならず生産性の欠片もないことを。昔から変わらない悪い癖だ。

わたしなりの定義でいうと、わたし自身はあまり優しい人間ではない。

わたしの考える優しさとは、無償のもののことだ。優しくしてあげたから優しくして欲しいと対価を押し付けるものではない。もちろん、優しくしてやったといい気になるものでもない。
息をするように人に優しくできる人間がまれにいる。
わたしはそういう人こそが、親切で優しい人なのだと思っている。

優しい人になりたかった。

たまにフラッシュバックするように彼の横顔がよぎる。その横顔がそんな顔だったのかも、もう定かではない。確かめるすべを持たない。あんなに沢山写真を撮ったのに。あれだけたくさん、ともに時間を過ごしたのに。
会っていない期間が長くなりすぎてしまった。そういえば、もう14年にもなるんだったなと、自嘲の笑みをこぼす。年々記憶は擦り切れて、褪せて、濾過した雫がこぼれるように美しくなる。

もう会えない、友人だった男の横顔だ。優しいね、というとそうでもないよ、そんなこという名前のほうが優しいんだよとあの人はヘラヘラと笑って言った。憧れていた。手を伸ばしても届かない。


あの人になりたかった。いっそ生まれ変わるのであれば。


休日の東海道本線はそれなりに混んでいた。ぽつぽつと立っている人がいるくらい。
茅ヶ崎に向かう途中、腰の曲がったおばあさんが乗り込んでくる。動きがブリキの人形のようにぎこちなかった。
丁度角の席を確保してしまっていたわたしはそれに気づき、躊躇いながらも立ち上がる。どうぞ、と小さく口にすると、ありがとうねえ、いいこだねえと皺のある年輪を重ねた笑顔がそう優しく言って、彼女はすとんと席に座った。

お辞儀をした後に耐えきれずそこから離れ、ドア付近の銀色のポールにつかまった。窓の外を眺めるふりをして、前に背負ったリュックをきつく抱きしめる。硬いカメラのボディの角が腿にぶつかった。リュックの底の、皮の折れ曲がったザラついた部分を撫でて、忍ぶように深呼吸する。
いいこ。優しい。そんなはずはない。

こんな風にあの人と同じことをしても、いいことをしてやった、と思う気持ちがないこともないのだ。
いいことをしたなんて微塵も思わないまま、人に親切をしていたあの人とは違う。
やはり性格の悪さは何年経とうと生まれる世界が変わろうとどうにもならない。彼の背中を今更追いかけてみたところで彼に追いつけることもない。遠ざかるばかりだ。わたしはどう足掻いてもわたしにしかなれない。
ただ彼は、思ったことをその場で行動する勇気をくれる。今でも。

いつの日だっただろう、光があたたかく差し込む電車の中。
旅行の帰り、隣に座っていたはずの彼はこうして妊婦さんに席を譲っていた。あの光景がちりちりと胸を焼く。焼き続ける。

目的地に到着しホームに降りる前、後ろをそっと振り向くとおばあさんが優しく手を振っていた。どうしようもない気持ちを振り切るように、前を向いた。