08
授業中、お腹が痛くなった私は女子トイレに駆け込み個室に籠城した。うんうんと唸り声をトイレに響かせる。不審者以外の何者でもない。ただお腹が痛いだけなんだ、許してくれ。
心なしか入ってくる前より匂う気がするトイレの個室から出ると、ポケットに放置していたはずの携帯が震えている。メールかなあなんてぼやけたことを思って見るとメッセージ203件。
これは一体どうしたことか。
またも震えてメッセージを受信した。【ねえ、おなか大丈夫?】という長太郎からの心配のお言葉だ。
204件になったメッセージの内訳は3件が化粧品会社からの広告で、他は全部長太郎。
トイレにいたのは30分くらいの時間だったはずで。その間もしかしてずっと彼は、メッセージを送り続けていたんじゃないだろうか。
ぞわぞわと震えが走り、泣きそうになりながらだいじょうぶ、と一言返事をした。すぐに良かったね、とレスポンスが来る。
返事が早すぎる上、クラスが違うはずの長太郎がなぜ、私が教室にいないことを知っているのだろう。
震えが止まらない手を洗いながら、予測を立てる。
予測その一、私のクラスにいるテニス部員が【やーい、お前の彼女腹くだしたぞ】と、授業中にも関わらず長太郎にメッセージを送った。すごく在り得る。テニス部は総出で私たちをからかってきては、長太郎の溺愛っぷりに甘いものを食べ過ぎたような顔をしてくるからだ。
その二は....監視カメラを仕掛けられているということ。
いやいや、まさかそんなばかな。あんなイケメンの彼氏がそんな非人道的なことするわけない、そう思いながらその二も十分に在り得ると思ってしまい、密かに洗面台に吐いてしまった。
最近うまくご飯が食べられない。
長太郎はやさしくてかっこよくて、私には出来すぎたほどの彼氏だと分かっている。
震え続ける携帯が怖い。長太郎が、怖い。なんでそんなこと思うんだろう。
お昼、いつものように長太郎は私の教室まで迎えに来てくれて、視聴覚室でお弁当を食べる。
学食で食べようかという話もありつつ、人が多くて騒がしいという理由でこの場所を選んでいた。そういえばここは初めて長太郎の名前を把握した場所でもある。あの集まりが最早懐かしい。
お腹の調子はどう?とまた優しい目で聞いてきてくれる長太郎。
でも、もう分かっている。
朝、ずっと。
通学途中絶えず私を監視するように見てきたのは他ならぬ長太郎なのだろう。あの朝の体調の悪さの原因は。
うん、だいじょうぶ。小さくそう返事をして、内心泣きそうになりながら乾いたパンを齧った。
アイツは壊れている、という日吉君の言葉が頭の中をぐるぐると回る。長太郎の痛いほどの視線を感じる。
どうしてそんなに見るんだろう。
「あ、そうだ。今日、プレゼントがあるんだ」
「プレゼント」
彼が鞄の中から取り出したのは、高級そうな黒の箱だった。そのお高そうな箱の中から長太郎はシルバーのネックレスを取り出す。
長太郎がしているものよりずっと華奢な、女性向けの十字のデザイン。中央には静かに石一粒が沈んでいた。きらきらと眩く光るそれ。
「首にかけてあげる」
「うん....」
べつに、ほしくないのに。言えない、そんなこと。
後ろに回りこんだ彼は私に首輪のようにネックレスをかけて。
冷たい温度がシャツの内側に灯る。鎖骨の下に落ちたモチーフ。肌に吸い付くような細い鎖。
真横で冷たいキスを私の頬に落としながら、長太郎は囁いた。もう彼の目は笑っていなかった。
「ずっと一緒にいよう」
これはきっと、私を縛る鎖だ。
日名子に顔色悪いんだから帰りなさい、と怖い顔で言われてもまっすぐ帰ることが出来ず、ふらりとテニスコートに立ち寄った。
長太郎が宍戸先輩と何かを話している。にこやかで、楽しそうだった。
いつもあんな風に笑っていてくれたらいいのに。思えば、あの顔で笑っていたのは最初だけだった。どうして気が付かなかったんだろう。
背後から近寄ってきたのは滝先輩だ。
「今日はいつもより一層顔色が悪いな」
ひっそり静かにそう声をかけられて、勝手に重石が落ちたような気分になった。
心なしか長めの髪が揺れるのを品よく押さえながら、滝先輩は苦笑する。
「きみのせいじゃないよ。もうわかっているんだろう」
「なに、が。そんなことない、です」
「あーあ、もう泣かないで。鳳に怒られるから」
綺麗にアイロンがけされたハンカチを持ち歩く男子高校生ってなんなの。しかもいい匂いする。お花みたいな。
イケメンってこわい。そう思いながら差し出されたハンカチを有り難く受け取って、自分の目の下に押し付けた。
心のどこかで、長太郎をおかしくしたのは自分なんじゃないかなんて思っていた。
自意識過剰かもしれない、でも長太郎は私が関わらなければあんな変な目をするひとじゃなかったんじゃないか、なんて。
せめて、私が調子に乗って、告白の返事を引き延ばしたりしなければ。お試し期間なんてやめておけば、こんな状況にはならなかったんじゃないか。
長太郎はきっと苦しい思いをしていたはずだ。一月以上も不安だっただろう。暗い顔を何度も見た。穏やかな顔の下に、隠していた。
ドキドキしながら、嫌われたくないフラれたくないと思っていたはずだ。
頭が痛いしお腹も痛い。何も考えたくない。くらくらと眩暈がする。視界が暗くなっていく。こわい。苦しい。
「もういいよ。よく頑張ったね」
「おい樺地。こいつ運んどけ」
「ウス」
「跡部はおせっかいだね」
「お前もな。まったく、面倒な後輩どもだ」
名前のことを初めて見たのは、まだ中学生だった頃のことだ。
冬の凍えるように寒い朝、電車に揺られていると、斜め前に座り居眠りしていたサラリーマンが跳ね起き慌てて途中の駅で降りた。
しかしその拍子に彼はパスケースを落としていったのだ。
そのことに気付いた同じ車両に乗っていた女子生徒が咄嗟にそのケースを掴むと、扉が閉まる寸前に電車から飛び降りた。
彼女の着ている制服は同じ氷帝のものだった。
学校までまだしばらく距離がある。
少し心配になって窓からホームを眺めると例のサラリーマンが女子生徒に頭を下げ、彼女が彼に笑顔で手を振っているのが見えた。
閉まる寸前だった扉から飛び出していく、揺れるプリーツスカートが、頭から離れない。
それからは何かと目がいった。
ずっと見ていた。二つ縛りにした髪が揺れるのを。単語帳を眺めるのを。
友達と仲良さそうに話すのを。
気付けば、好きだった。離したくなかった。
自分の目の届かないところに彼女がいると、不安だった。
「彼女をどこにやったんです」
「さあ、な。お前のせいだろ、鳳」
目の前で青い瞳が皮肉気に歪んだ。
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