愛という身勝手な呪い



 俺に様々な形の愛を教えながら俺のことを愛し、愛への渇望を思い出させたあいつは俺からの愛でドールになった。皮肉なものだ。やっと自分のことを再び愛し続けてくれるであろうと信じることの出来る人間に出会い、その人間と愛し愛される幸せな日々が続くのだと微かな夢物語を描いていたのにその幸せは俺自身のせいで壊れてしまった。愛なんて今まで永久に続くことのないものだと憎んでいたのに、それを信じた途端にやはり愛は俺を裏切る。それでもあいつに教えられたこの思いをもう憎み、疑うことは出来なかった。





 いつも通りの自分の部屋。奥底まで進み、入り口から隠されるように置かれたクローゼットの鍵を懐からそっと取り出し開錠すれば真っ暗な中、あいつは狭いあの中で力なく座り込んでいた。部屋を出る前と変わらぬ様子に安堵の息を吐き、あの柔らかかった頬をそっと撫でる。つめたい。かたい。触れる度にドールになる前のあいつと違うという現実に虚しさが積もるのに口では虚勢を張るかのように幸せな日々で謳われる言葉を吐き続ける。


「今日の公演も上手くいったんだ。お前が昔見てくれた公演だ、懐かしいな」


 どんなに語りかけてもこいつは動かない。俺の公演を見て、彼女はあんなに目を輝かせていたのにその瞳ももう俺の前に現れることはない。ただ静かに、もたれるように窮屈なクローゼットの中に一人身を埋めるこいつの現状は昔、俺があんなにも嫌がり、恋しがり、孤独しか感じることの出来なかったあの時と全く同じなのに、それでも俺はこいつのことをこの狭い暗がりに閉じ込めることしか出来ない。軽くなった手足を持ち上げ、目新しい傷が増えていないか、前に見た時と変わっている箇所がないか必要以上にそっと確認する。無機質な温度の四肢に触れる度に心配と不安が合わさり落ち着かなくなるが、変化のないこいつを見て少し心が落ち着いた。


「今日も問題ないな、良かった」


 閉じ込めないとお前は壊されてしまう。悪意のない己の手が、何も知らない他者の手がお前を壊してしまうかもしれない、その悪夢のような瞬間はいつ訪れるか分からない。以前焼かれたあの白い手と痣ができた足を思い出す。こいつが傷付き壊れ、自分の目の前からいなくなることを考えると今でも頭が真っ白になる。何度も最悪な状況を考えた。そして考える度に愛しさで満たされていても触れることを躊躇い、もっと奥底に閉じ込めなくてはいけないと不安になった。お前とずっと一緒にいたい気持ちが強くなるほど不安は比例するように増していく。


「お前はこれを愛とは思わないだろうな」


 自分が受け入れなれなかった愛をお前に示すだなんて馬鹿げてると冷静な自分は笑う。けれどこの部屋から、自分の目の前からこいつがいなくなってしまうことを思うといつだって心が休まらない。あの七日間のような生活を再び過ごしたくない訳でない。だがそれを望む以上にお前を失うことの恐怖が勝るのだ。加減が分からず異常なほどに力の入らない手で髪に触れる。愛おしい。その思いと同時に触れていることへの恐怖感も湧き立つ。自分の望まなかった窮屈な愛への嫌悪感と絶望感と手放したくない、守りたいという身勝手な愛が自分の中で混ぜこぜになり、この選択が正しいのかふとした時に何度も考えた。けれどお前の指先にある火傷の跡が目に入る度に昔感じたあの苦悩が記憶から消えてこの傲慢な思いで頭が占められる。


「けど、これも愛なんだろう?あの時お前が言っていたように」


 過去の持ち主の愛し方に失望していた俺に愛されていたと言ったお前ならこの愛し方でも許してくれるだろう?愛に様々な形があると教えてくれたのはお前なのだから。小さな頭をそっと掻き抱き、長い間日に当たることのなかった頬に自分のものを擦り寄せる。
 かちゃん、
 狭いクローゼットの中で小さく響いた虚しいその音に己の愛で誤魔化されていた冷たい感情がじわじわと膨れ上がった。誤魔化すように縋るような思いでこいつの唇を親指でなぞれば弾力のない表面の冷えた温度がこの思いを裏切るように伝わってくる。


「なぁ、俺の名前を呼んでくれよ」


 お前が教えてくれた愛は俺がお前の魂を奪い、こうして閉じ込めながら護る愛を『様々な愛の一つ』として正当化する道を作ってくれた。けれどどう正当化したってお前をドールにしてしまった事実と二人で約束した続くはずだった幸せな未来を潰してしまった現実は俺の心を蝕み、居座り続ける。


「またお前の笑顔を見せて、俺を愛して、」


 ドールになったお前は俺とは違ってもう動かない。澄んで輝いていた瞳を隠す瞼は開くことも、一度だけ触れた柔らかな唇が俺の名前を呼ぶこともない。どんなに縋るように俺が懇願したとしても、もうあの時のお前はいないのだから。
 心の隙間を埋めるようにされるがままの身体を抱く。もう柔らかい髪からは昔にあげた薔薇の香りがしない。あたかかく俺を包んでくれていた熱はどこにもない。
 俺を受け入れ、愛してくれたお前はもういない。
 触れた個所から移る冷たさに心が凍る。こうやって触れれば魂を奪った時の絶望が何度も甦るのにこいつを抱きしめずにはいられない。触れる度にこんな愛などお前は望まないだろうと傲慢な愛で虚勢を張り、隠した薄暗い現実が目の前に映り、自分だけが感じるこの幸せが紛いものだとつきつけられる。そしてドールにしてしまったことへ負い目を感じている自分は一人だけ幸せになる愛し方をする盲目的な俺を責めた。けれどこの薄暗く、自責の念に囚われる現実はドールになったお前という存在があってこそのもので、お前の全てを愛する俺にこの絶望を愛さない理由はないのだから。
 お前がこの愛を愛だと信じることが出来なくなっているかもしれないが、俺はもうこの愛し方しかすることが出来ない。この愛し方が一番幸せなんだ。どんなに見苦しくてもこの愛が俺にとって教えてくれた『様々な愛の一つ』であることをお前は分かってくれるだろう?脳裏に過ぎった過去のお前が肯定するように笑う。クローゼットの中という小さな世界に俺の愛でお前を閉じ込めて、二人静かに永久に誓った愛という身勝手で妄信的な呪いに浸る。

『誰にとっての幸せ?』と責める自分の声はもう聞こえない。





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