教皇ヴィンセントが倒れ、教会は少なからず混乱していた。
実質的にこのジャンナを、アレウーラ大陸全体を取り仕切っていたと言っても過言ではない人だった。そんな人の急逝の報は衝撃的だったのだろう。最近はジャンナの住民も不安げな顔をしている。
——教皇様が人ならざるモノに支配されて亡くなる直前まで自我さえも希薄な状態であったことはほんの一部のヒトしか知らないことだ。事実を伝えたところで余計に不安を煽るだけだからこれでいいとわたしは思っている。
「ルキウス、この本はあっちの机の上でいい?」
「ああ、ありがとうアルエット。この教会で事情を知っているのはボクとキミだけだから、どうしても他の人には頼めなくて」
「構わないよ。カイウスたちも忙しそうだから教会の仕事を手伝ってもらうわけにもいかないしね」
幼い頃、教会に預けられたアルエットにとって教皇は父のような存在でもあった。彼も息子とあまり変わらない年齢のアルエットのことを気にかけてくれていた……と少なくともアルエット自身は思っている。
ヴィンセント亡き後、彼の仕事を引き継ごうと思うと言い出したのはルキウスだった。教皇の仕事もその大変さも近くで見ていた自分が一番よく知っているし、今まで犯してきた罪を償いたいという気持ちも大きいからと。
だったら自分はルキウスのことを一番近くで支えられる人になろうとアルエットは決めた。心優しい男の子が、これ以上傷つかないように。
「……まずは異端者狩りをどうにかするところからだけど、長年の差別意識は簡単には消えないだろうしここが一番難しいところでもある」
「この辺はフォレストさんが中心になって頑張ってるみたいだけど、生きている限り向き合い続けないといけない問題かもしれないね」
フォレストがレイモーンの民だと知っていてその上で彼を従者としてずっと頼りにしているティルキスのように、共存も不可能ではない筈なのだ。
「アルエットは、」
ルキウスは一瞬躊躇うような素振りを見せ、けれども迷いながらも言葉を紡ぐ。
「ボクの母さんがレイモーンの民だと知っても、その……平気なんだな」
アレウーラ大陸ではレイモーンの民はリカンツと呼ばれ迫害されるのが当たり前だった。ルキウスやアルエットが生まれるよりも前からそうだったし、酷い迫害で命を落とした者も多い。
……まだ幼い子供ならともかくある程度の年齢になってレイモーンの民に対する差別意識や偏見がないのは本当に珍しいことなのだ。
「ルキウスやレイモーンの民に嫌なことをされたわけじゃないから、かな。それに他人と違うところなんて誰にでもあるし」
アルエットは昔から同年代の子供と比べてプリセプツの扱いに長けていたし、それが他者から不気味がられる理由になったこともある。
人から距離を置かれることもあったアルエットのことを他の人と同じように扱ってくれたのはヒトである教皇ヴィンセントであり、レイモーンの民の血を引くルキウスでもある。
種族で一括りにするなんて馬鹿馬鹿しいとさえ思う。もしもレイモーンの民に家族や友人を惨殺されるようなことがあれば認識は変わっていたかもしれないけれど、流石にそのような経験はないしレイモーンの民だって理由もなくそんなことはしないだろう。
「……アルエットのそういうところ、ボクは好きだよ」
「わたしもルキウスの優しいところ、好きだな」
ルキウスが何者であったとしても、きっと自分の気持ちは変わらないだろう。
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