愛するということはどうしようもない

 真夜中、我が家のドアを叩いた殿方はたったひとこと「菜穂子が死んだ」と言ったのみでした。

「いつだ」
「三日前」

 寝間着姿の夫は静かに頷くと客人を書斎へと促しました。残された私は震える手で彼らのいる部屋へお茶を運びます。書斎はいつもとはかなり毛色のちがう静寂に支配されていました。コートも帽子も脱がずソファに沈みこんだ堀越さんの顔は陰になっていてよく見えません。なんだか今にも泣きそうな、いじけた子供のような表情を浮かべた夫が床をじっと睨みつけていたことだけは鮮明に覚えています。
 夫は堀越さんといっしょになって煙草をふかしています。ふかく息を吐くたびうまれる紫煙が部屋に充満してきたので、私はそっと窓をあけようとしました。

「なまえさん、もう風は吹かないよ」
「え?」
「今日はもう、吹かない」

 堀越さんの静かな言葉に困惑します。夫も小首を傾げていました。しかし試しにすこしばかり窓を開けてみるとーーなるほど。外はおそろしいくらいに無風でした。

「もう吹かないのか」
「うん。一昨日から、夜はずっとこうだ」
「昼はあるのか、風は」
「うん」

 堀越さんはそう言ったきり、また黙ってたばこをふかし始めました。

「なまえ」

 夫が私を隣に呼びます。どうかされましたかと横に立つと、夫の手が私の腰を強引にソファに引き込みました。奥方を亡くされたばかりのご親友の前でよくもまあ、という気持ちが一瞬首をもたげましたが、私の腕を掴む彼の手のふるえにそんな遠慮はどこかへ飛んで行ってしまいます。元来、彼はとても横暴で自分勝手で失礼な男なのです。その性質は仲の良い人間に対してことさら顕著でしたから、彼の幼馴染でもある私は彼の大親友を十年以上もやってのける堀越さんに尊敬の念と、すこしばかりの親近感を抱いておりました。
 彼のこの困った性格について堀越さんはすでに了承済みだろう、と私は夫の腕に逆らわず彼の隣におさまります。夫が不安そうな声で煙が気になるか、と聞きます。夫の冷え切った指が落ち着きなく私の手の甲をにぎりしめたり、ゆびとゆびの間をせわしなくなぞったりします。私の存在をてのひらに叩きこもうとするようなその所作は小さな頃から変わらない、彼が不安にさいなまれている時の癖です。私は大丈夫ですよ、と小さく囁き返します。夫はそうか、といかにも平静ぶった調子で言った後、床に落ちていた団扇で煙を扇ぎはじめました。平気ですのに、と団扇を止めようとしてもひらりと私の手は躱されてしまいます。

「本庄」

 ふいに堀越さんが夫の名を呟きます。夫はまた何でもないといった調子で煙草をくゆらせました。

「ん」
「菜穂子は幸せだったよ」

 夫はただ短く、そうか、と言っただけでした。



「もう帰るのか。泊っていくと良いのに」
「駅でお義父さまを待たせていてね」
「二郎、葬儀はいつだ」
「明後日」
「早いな」
「菜穂子の希望さ。来てくれるか」
「もちろん。家内も連れて行くから、何か俺たちに手伝えることがあったら言ってくれ。……せっかく来てくれたんだから土産のひとつでも出せたら良かったんだが」
「あなた、ちょうど庭の百合が見事ですよ。タクシーでお帰りになられるのならお持ち帰りも楽でしょう。菜穂子さんにいちばんきれいなものを見繕って来ますわね」
「なまえは天才だな。よし俺も行く」
「本庄の奥さんは天才だ。僕もその見事な百合の花を、見に行っても良いか」

 どうもこの二人はおかしなタイミングで元気を取り戻す癖まで似通ってしまっているらしいのでした。
月明かりに照らされた百合はそれはそれは見事にうつくしくて、夫と堀越さんはこれがいいそれがいいと百合の花を指で指し示してゆきます。夫が両手いっぱいになった百合の花を紐でまとめている間に、私は堀越さんと縁側に腰かけて他愛のない話を致しましたが、中でも夏目漱石先生の『夢十夜』の話は弾みに弾んで、堀越さんのため百合の花と四苦八苦していた夫が大人げもなくむくれてしまうほどの盛り上がりようでした。

「すみません。包装紙らしい包装紙がないもので、くるむものが菓子箱の包み紙になってしまいますが……」
「いいや、十分綺麗です。菜穂子も喜びます」

 堀越さんは随分穏やかな顔をしてお帰りになられたような気がいたします。風のない夜、駅まで付き添いに行った夫の帰りを床で待ちながら、私はぼんやりと庭の百合を眺めておりました。

「ただいま」
「おかえりなさい」

 庭から帰ってきた夫は少し乱雑に下駄を脱ぐと、気だるげな表情のまま私を抱きすくめます。夫の身体はすっかり冷えきってしまっておりました。私は夫の袖口をひいて、蒲団の中へ彼を引きこみます。

「季郎ちゃん」
「ん」
「泣いたらいい男が形無しよ」
「人妻が二郎と楽しく盛り上がりやがって」
「まあ……まだ怒っているの」
「怒ってない。別に」
「季郎ちゃん、気づいていて?」
「なにを」
「堀越さん、百年待つつもりよ」

 一瞬間が空きます。星屑を散らしたような季郎ちゃんの瞳が、すこしだけ揺れました。

「……真珠貝で穴を掘って、天から落ちた星のかけを墓標にしてか」
「……うん」
「……暁の星に出会うまで、ずっとか」
「……うん」

 季郎ちゃん、もしかして私の好きな話ぜんぶそらんじてくれてたりするの。そうからかったら容赦なく無言で頬をつねられました。いたい、と季郎ちゃんの胸を叩いて抗議すると、彼は面倒くさそうな声を出しながら暴れる私の手を拘束してそのままからだごと抱きすくめてしまいます。

「あいつらが羨ましいか」

 苦しくなるくらい私のことを抱きしめてから、季郎ちゃんは小さな声で呟きました。

「……あらどうして?」
「お前好みのラブロマンスを地で行ってるだろう」
「季郎ちゃん、綺麗なラブロマンスはね、哀しいものなのよ」
「……うん」
「他人だから美しく見えるの。季郎ちゃんは頭が良いからわかるわよね」
「……うん」
「絶対だめ」
「…………お前がどこにもいかないなら何でもいい」

 深く溜息をついた季郎ちゃんは戯れにとでも言うように私の首筋に噛みつきます。もう、と怒ったふりをしながら、私は夫の返答にすこし安堵しておりました。彼は生きている。私も生きている。先の確証の無い生を渇望する私たちのなんとあさましくうつくしいことか。



 ーー菜穂子さんが堀越さんに恋をしていたように、堀越さんが菜穂子さんに恋をしていたように、私たちも彼ら同様、呪いのような恋に身を焦がし続けているのです。


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