雨の日のこと

「……なまえさん、こちらのものを食べたくはありませんか?」
「えっ」

 いつもに増して白熱した世界会議が終わり、いち早く帰ろうと会議室を出た私を菊さんが引き止めた。ーーーいや、正しくは菊さんが持っていた和菓子が引き止めたのだ。
 甘くて柔らかそうでほっぺがとろけてしまいそうな見た目をしたそれに見事釣られて莫大な量の会議資料まとめを手伝うことになったのはつい5時間ほど前のお話。定時出勤定時退勤を人生目標に掲げている私だけど、今回ばかりは仕方がない。だって菊さんが持ってくるお菓子おいしいんだもん。仕方ない仕方ない。おいしい。もぐもぐ。

 そんなこんなで色んな言語の本とにらめっこしてあーだこーだあれだこれだそれだと二人で知恵を絞って、やっとこさ形になってきた資料を見る菊さんの表情はとても満足そうだ。頑張り屋さんで一途な菊さん。彼が嬉しそうな顔をしていると私まで嬉しくなってしまう。


「……あ。雨」
「えっ」



 菊さんの声につられて外を見るとなるほど少しずつ地面が雨に濡れていっている。天気予報は晴れと言っておりましたのに、と残念そうな顔の菊さんが会議室の窓を開けた。雨の香りがふわりと鼻をくすぐる。

「わあ……どうしましょう。私傘持ってきてないです」
「私も……日も落ちてきましたし帰りましょう。幸い宿泊先はすぐそこですし、急げばきっと……」

 菊さんの言葉が段々小さくなってゆく。ーー急に視界の端で存在を主張し始める資料やら本やらでごちゃごちゃになった机。私たちは黙って顔を見合わせた。

「……なまえさん、急ぎましょう」
「はい菊さん。頑張ります」



 結果から言うと惨敗だった。菊さんと私が本を戻して机を整えて……と焦る姿を嘲笑うかのように空模様は一瞬にして一変してしまった。容赦なくザーザーと降りしきる雨を玄関のドアから覗き込む。

「……走って帰るのは無理そうですね」
「何が無理なんだ?」
「えっ。……ひ、ひゃぁあ!?」

 気が動転した私は間抜けにつるりと足を滑らせる。あ、だめだめ、菊さんたすけて、やだこわい、あっむり、とかなんとか思いながら覚悟を決めて地球の重力のなすがままにーーーは、ならなかった。ガクンと身体に衝撃が走る。

「ーーーっあ、っぶねえ」
「……!あーさー、さん?」

 固く瞑った目をおそるおそる開くと憎らしいほどにツルツルの大理石の床が見えた。つるつるな上に雨に濡れているせいで『どうぞ滑ってください』とでも言わんばかりの様相だ。この固い床に頭を打っていたら。考えるだけでも恐ろしい。

「あ、ありがとうございました。アーサーさんがいなかったら私、」
「いや。突然声掛けた俺が悪い。ごめんな」

 アーサーさんの小脇に抱えられた不思議な体勢からぐい、と優しく引き寄せられた。いちいち無駄のない紳士的な所作に思わず惚れ惚れしてしまう。

「……で?こんな時間まで何やってたんだよ」
「菊さんのお手伝いをちょっと」
「……どうせまた菓子か何かで釣られたんだろ……」
「アーサーさんは何でもお見通しですね」

 ……おや?

 他愛ない会話を交わしながらふと首をもたげた違和感。何だか近い。……アーサーさんにそのまま引き寄せられたわけだからそりゃ近いのは当たり前といえば当たり前なのかもしれないけれど、いやでも、近い。身体も顔も何もかもが近いような気がする。というかほぼ密着状態だ。

 ……………………。

 何だか腰に回された手を変に意識してしまう。おかしい。急に緊張してきた。身体の体温が急激に上昇していくのがわかる。身じろぎも出来ずに硬直していると、アーサーさんが訝しむような表情で私の顔を覗き込んできた。エメラルドのきれいな瞳に真っ赤な顔が映っている。
 ーー高鳴ってしまう胸を必死に、必死に抑え込んだ。彼はあくまで紳士的なだけ。きっと他意は、無い。

「おいーー」
「……な、何でもありませんよ!」
「いや何も聞いてねーし」
「アーサーさん今日もいい天気ですねっ!」
「お前にとってこれはいい天気なのか……」

 アーサーさんの不審そうな目に見つめられて私はわたわたしてしまう。アーサーさんの腕の中で。腕の中で。……もうこれ、ハグだと思うんだけど。

 アーサーさんはちょっぴりぶっきらぼうで、だけどものすごく優しい声で何だと急かしてくる。私は困ってしまった。脳裏に菊さんに常日頃から言われている言葉が思い浮かぶ。

『他国の文化をなるべく拒絶せず、害が無い限りは出来るだけ好意的に受け入れ自らへと取り込むのです』

 もしこれがアーサーさんの国での"普通の距離感"だったら……。

 ……うーん、確かにアーサーさんってフランソワさんやアルフレッドさんともこれくらいの距離感な気がする。……そんな気がする。見てるだけだから分からないけど……でもみんな何百年もの付き合いだし単に親しいだけって可能性も…………あ、でも仲が良いと思ってくださっているなら好意を無下にすることになるし…………


「あの、アーサーさんって……」
「ん、何だ」

 いつもこれくらいの距離感なんですか?

 ……だなんて聞けない。聞けるわけがない。そんなこと聞いたら菊さんにめちゃくちゃ怒られる。

「えっと……その」
「うん?」

 もごもごと口ごもる私をアーサーさんは辛抱強く待っていてくれている。私は何だか居たたまれなくなって咄嗟に誤魔化してしまった。

「あ、えっと……えっと…………!す、すごく、きれいな目をされているなって思って……」
「……………………。お前なあっ……」

 アーサーさんの手が私の腰からするりと離れる。アーサーさんはそのまま深いため息をついてそっぽを向いてしまった。どうもとんでもない悪手を打ってしまったらしい。だけどアーサーさんの瞳がきらきら輝いてきれいなのは事実だ。嘘は言っていない。


「……ん。これ」


 真っ赤な顔をしたアーサーさんが私の手に何かを押し付けた。ああそうかアーサーさんは照れていらっしゃるのか、と合点が行きつつ手元を見る。男性物の黒くて大きな傘だ。さっきまでアーサーさんが使っていたのだろうか、ちょっと濡れている。

「これ……は?」
「お前使えよ。濡れるだろ」
「え、でもアーサーさんは」
「……え、英国紳士はだなっ!傘を……差さないんだよ」
「でも!」
「いいから持ってけって!」
「そんなっ!悪いですよ!」


 ーーーー最終的に、この壮絶な傘の押し付け合い合戦に根負けしたのは私だった。渋々傘を受け取る。ずっしりと重い。

「アーサーさんは傘、どうするんですか?」
「だ……だから俺は傘いらねえって」
「……外、大雨になってきましたね」

 微妙な沈黙が走る。

「……でも傘一本しか無いだろ?」
「……うーん、やっぱりこれアーサーさんの傘ですし、アーサーさんが……」
「だーから何でそうなるんだよ、俺はお前に使ってほしくて…………っ!い、いや何でもない。忘れてくれ」
「……アーサーさん、この際二人で傘を使うというのはどうでしょうか。幸いアーサーさんの傘は大きそうですし、二人で入っても十分な広さがあるでしょう?」

 至って真面目な提案だった。アーサーさんは私に傘を使ってほしい。私はご厚意をありがたく感受したいけれどそのせいでアーサーさんが雨に濡れるのは耐えられない。ならば二人で傘を使ってしまえば良い。

「……あ」

 『二人で傘を使う』行為の正体に気付くも時既に遅し。私は顔を赤くしたアーサーさんの前で顔を青くしたり赤くしたりする。

「ごごごごめんなさい私なんかと相合傘って本当にそんな失礼なことを、あわわわ」
「お、落ち着けって……!またこけたらどうすんだ!」
「…………あ、え、わ、わすれてくださいっ!」
「何でっ、そんな忘れなきゃいけないようなことじゃ、」
「だってはずかし……!」
「だ、だけど別に……っ、だから、その…………っ、は、入ってやらんでもないぞ!傘!」
「えっ」
「お前のためじゃないからな!俺のためだ、そう俺のため……俺のためだ!……えって何だえって。嫌なのか。そうか。嫌なのか」
「い、嫌じゃないですっ」
「じゃあ良いじゃねえか。ーーなまえ!帰るぞ」
「え、あっちょっ」



「あっなまえさーん!遅くなってすみません、失くした書類なんですけど本に挟まっ、てーーーーあ!?」




 笑顔で駆け寄ってきた菊さんの表情が固まる。菊さんスリーブモードだ。処理能力が追いついていない時、菊さんはこうなる。

「…………ほ、本田?」
「ヒッ!?あ、アーサーさんまさか……ゆ、誘拐ですか!?」
「何でそうなるんだよっ!?」
「………………あっ!傘!えっあっ、…………あーーーー!!?すみませんっ!すみません本当に!爺が邪魔してすみませんっ!どうぞごゆっくり!」
「ちょっと菊さん!走ると危ないですよ、私もさっき足を滑らせて……!」

 すっころりーーーーん

「「「あ〜〜〜〜!?」」」



*



「……お二人ともご迷惑をおかけして申し訳ありません……」
「いえいえ菊さんご無事で何よりでした……」
「まさかあんな丁度良いところにクッションが落ちてるなんて……どんな偶然だよ」
「アーサーさんの傘は大きいですねえ……あの、本当にすみません。お二人の折角の相合…」
「「言わなくていいからっっ!」」




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