裏葉柳
雨の音でふと目が覚めてしまって、蒲団を抜け出し縁側に座った。今度の展覧会に出展予定の絵を描き上げようかと思ったけれど、何だかそんな気分でもないのでただぼんやりと、小雨で濡れる庭を眺めていた。
空には赤い月。
見上げることを後悔してしまうような、深く、濃く、どこまでも妖しい光を湛えたそれが、俺は嫌いだった。
今はこうして一画家として生活出来ているが、何年前のことだろう。俺が東京美術学校で画家見習いをしていて、まだ鴎外さんの元で暮らしていた頃、俺は、一人の女の子に出会った。鴎外さんが連れてきた彼女は、自分の記憶を全て失ってしまっていて……それもあってか、いつも何かを探しているような心細そうな目をしていた。一人じゃ何も出来ないし、何より目を離しておくとどこかに消えてしまいそうで(彼女に何かあったら鴎外さんに怒られてしまうのは俺だから)、すごく面倒臭い人間が転がり込んできたなあなんて思っていた。
そんな彼女が特に、こんな月の晩は心ここにあらずといった感じで、俺ではない誰かを、何かを、ぼんやり見つめているが非常に腹立たしかったのを覚えている。
だから俺は今でもこの月が好きになれない。どこか幻想的で、すいこまれてしまいそうな錯覚を覚えさせるこの月は、あの少女が消えてしまうから、あの少女がどこかに行ってしまうから、あの少女に二度と会えなくなるから、そしてそれを思い出してしまうから、俺はこの赤い月が、嫌いだ。
「……春草さん?」
…………妻が身体を起こす音が聞こえて、ふっと現実に引き戻された。
月は気づかぬうちに人の心を捉えて、どこか知らぬ場所に連れてゆこうとする。
月は、危険だ。
「……ごめん、起こしちゃった?」
「いえ……こんな夜更けに、どうしたんですか?風邪ひきますよ」
彼女は眠そうな目をこすりながら縁側に出て、俺の横に立つと、
「あ、赤い月」
その瞬間、俺は、俺は、全身がぞわりと、波打つのを感じた。ほとんど反射的に彼女の手を取り、部屋の中に引き入れる。
どくん、どくんと心臓が早鐘を打っていた。先ほどまで心地よく感じていたはずの雨の湿気がじわじわと皮膚に侵食してくるように思えて、むわりとした不快な空気が身体に纏わり付いてくるような感じがして、思わず、思わずに、俺は障子をしめる後ろ手に力を込める。
「……春草さん?」
彼女が不思議そうに、俺の顔を見上げていた。そんな昔と変わらないあどけない表情に我慢が出来なくて、俺は不安な気持ちを紛らわすように、彼女を強く抱き締めた。
「春…草……さん?」
「…………いけないよ、外に出ちゃ。身体が冷えるだろ」
「何か……あったんですか?」
彼女が俺に手を伸ばして額の汗を拭いてから初めて俺は、前髪がぺっとりと顔についてしまうほどに冷や汗をかいていることに気付いた。
「……何でもないよ」
俺は平静を装って、小さくそう言った。顔の筋肉が硬直してしまっているのか、うまく笑えない。
「ただ、今はどうか、このままで」
聡い彼女は俺の様子に納得していなかったようだったが、素直に身体を預けてくれた。俺は月から彼女を隠すように、更に強く強く、抱き締める。
月を彼女に見せないように、月に彼女を見つけられないように。
……また、どこかに行ってしまうから。
雨音が静かに響き渡る中、彼女がポツリと呟いた。
「…………雨、いつ止むかな」
……さあ、今迄一度も降り止むことのなかったこの雨は、いつになったら雨脚を弱めるのだろうか、弱めてくれるのだろうか。
6月の雨の匂いがする。