悪趣味な黙祷

 菊の歩調で、菊の呼吸のしかたで。桜は船長室に案内されていた。

「改めてーー俺はイギリス。アーサー・カークランドって言う。まあイギリスでもアーサーでもカークランドでも、好きなように呼べばいい」

 かちゃかちゃと陶磁器がぶつかり合う音が聞こえてくる。たしか、英国は紅茶の国と聞いたことがあった。

「本田、紅茶に砂糖は?悪いけど今ミルクを切らしちまっててな……」
「いえ、おかまいなく」
「俺流の客人のもてなし方なんだ。お前さえ良かったら、飲んでってくれ」

 なるほど、厚意は無碍にすることは出来ない。我が国で野蛮な行為をする者とはいえ、あちらも『国の化身』。交渉相手国に毒を盛るような愚かなことはしないだろう、と判断した桜はアーサーからティーカップを受け取った。以前、耀の家で飲んだ茶の色に似ているなと思った。

「――で、本田の用は何だ」

 アーサーの一言で場の空気が張り詰める。部屋には桜とアーサーの二人しかいないはずだったが、桜は結った髪を何かが触れた気がして、後ろを振り返った。刹那、扉の窓からこちらを覗き込む乗組員と目が合う。

「悪いな。あいつら、心配性なんだ」

 アーサーは涼しい顔でそう言ってのける。どうせあなたの指示なくせに……そう冷めた思いを抱きながら、ティーカップに口をつける。思っていたよりもおいしい。

「イギリスさん、ご存知ですか?我が国の文化にも『茶』で客人をもてなすものがあります」
「ほう?」
「茶室と呼ばれる小さく、質素な空間で、亭主が茶を点て客人に茶を振舞うのです。――人々は茶の儀式を通じて非日常を共有し、手元の茶碗や床の間の掛け軸、そして生け花の『寂れた美しさ』に心を馳せます」
「それは興味深い。いつか実演願いたいものだ」
「イギリスさん」

 ティーカップをくるくると回して模様をじっくり眺めながら、桜ははっきりした声で、しかし優しく諭すように言った。

「オランダさんのお家の方を、解放してくださいませんか」
「――無理だ」

 即答だった。桜は指先の動きをぴたりと止める。

「……なぜ?」
「なぜって……」
「我が国の港に侵入したならば、おかしな言い方になりますがーー私の家の人間を人質にとれば良い話でしょう?」
「別にお前の家に侵入したくてしたわけじゃない。たまたま捕まえようと追っていたオランダ船が、お前の家の港に入っていった。――本当にたまたま、偶然だ。他意はない」

 緑色の瞳が、じっとこちらを見ていた。桜は背筋を伸ばし、見つめ返す。

「――長崎にあなたが侵入することで、我が国は大変な迷惑を被っています」
「そりゃ悪かった。だが、十分な量の薪と水と食料……これをくれたら飛んで帰るつもりだったが、ちっぽけな量しか渡してこなかったのはお前だ」
「お言葉ですが」

 はっとした。思わず、思わずに、鋭い言葉が自身の口からこぼれ出てしまう。違うーー私は本田桜じゃない。私は本田菊、私の名前は本田菊――深呼吸をおいてから、桜はやわらかい笑顔を顔に浮かべた。

「……大英帝国殿が大飯食らいなのでは?我が国の人間はみな慎ましく計画的なものですから、この量で充分事足りてしまうのです」
「極東のジパングは実にミステリアスだ。実に。――同じ島国だと思えないくらい、文化も社会も違う」
「おやおや。許可なしに入港して、他国の人間を人質に取ってーーふふ。勇猛な獅子は恐れを知らぬと言いますが、度の過ぎた勇敢は野蛮と評されてしまうのが世の常ですよ」

 アーサーの機嫌が一気に急降下するのがわかる。ギシ、と床が軋む音が聞こえた。

「言うじゃねえか。自分の命は惜しくないのか?」
「あなたはーー聡明な方です。『国』に手を出すほど愚かではない……そうではありませんか?」

 慎重に慎重に、吟味した手札を出してゆく。
 アーサーが小さく舌打ちをして、苛立った様子で髪をかきむしる。鋭い眼光が桜を貫いた。ちがう、怖くない、大丈夫――頭の中で、菊の姿を思い描く。菊に思いを馳せる。菊の香りに身を任せる。桜は『彼』のように、落ち着いた、しかしよく通る声で続けた。

「お願いです。オランダ商館員のお二人を解放してください」
「無理だと何度言えばわかるんだ。今回のことはお前たちには関係ねえ、俺とオランダの問題でーー」

 ここだ、と思った。すかさず、アーサーの言葉を遮る。

「ええ、それは勿論承知しておりますよ。……ですが、我が国の領土内で起こされた事件ですからーー自分勝手なあなたの振る舞いのおかげで、私の子たちも何かしらの『責任』を取らされる羽目になるでしょうね」
「……は、なんだよ。結局はてめえの家の事情で動いてるってことか」
「何をいまさら。我が国でオランダさんのお家の方が傷ついたとなれば、賠償問題に発展したり……大きな争いに巻き込まれることになるのは必須。起きてしまったことはもう仕方がありません。私の国の子がこれ以上命を落とさぬよう、被害を最小限にとどめるためにーー私はここにいます」
「なるほど?……筋は通っているな」

 事実を淡々と述べる桜に、アーサーは肩を竦める。

「――けどお前の提案を飲むわけにいかない。オランダのやつらを解放したところで俺には何のメリットも無いしーー」
「もちろんタダでとは言いません」
「あ?」
「オランダさんのお家の方を解放する代わりに、私を人質にしてくださいませんか?」
「っぐ!?ゲホッ」

 優雅に紅茶を飲んでいたアーサーがむせながら、信じられないものを見る目で桜を見る。兵も武器も満足に持たぬこの国である。そうするしか手段がないのだ。内心苦い思いを抱えながら、桜は涼しい顔で手拭いを差し出した。

「え、おま、正気かっ!人質にって……『国』であるお前を!?」
「ええ。私はオランダさんにとって良き商売相手。自国の方と引き換えに私が人質になったとなれば、オランダさんも見て見ぬふりはできないでしょう?」
「そ、うではあるが……さっきからつくづく思っていたが、日本って馬鹿なのか……?」
「馬鹿でもなんでも構いません」

 アーサーと目が合う。

「私の子を救うためでしたらーー私は何だってしますよ」

 桜が椅子から立ち上がる。すたすたと船長室の入り口に向かう桜を見て、アーサーはぎょっとした。

「おい、どこに行く気だ!おまえ、やめとけって」

 船長室の扉を開けるなり、待ち構えていた強面の船員たちが武器を取り出す。慌てて桜の腕を引いたアーサーに構わず、桜は屈強な男たちを見上げるようにして微笑みかけた。

「みなさんーーお渡ししたマサバは足がはやいですから、今すぐお食べになることをおすすめしますよ」

 場が固まる。アーサーが深く溜息をついて、ひらひらと手を振る。降参の合図だった。

「お前ら、下がれ。話はついた。――人質を一人、解放する準備を済ませておけ」
「え?で、ですが」
「良いから下がれっ!俺は……大丈夫だ」
「あ、みなさん待ってください!」
「待つのはお ま え だ よ」

 渋々と持ち場へ戻っていく男たちの後を追おうとした桜の行く手を、すかさずアーサーが阻む。桜よりもずっと大きな彼の身体が、するりと船長室の入り口を塞いだ。

「どこに行くんだ?人質さん」

 透通るような緑色の瞳が、桜の姿を映し出している。今まで見たどんな色よりも深くて美しくて、彼の瞳の色を表す名前が見当たらなくて、桜は思わず言葉に詰まった。
 ――しまった、と思った時にはもう遅かった。アーサーがすり、と桜の顔を覗き込んでくる。成す術もなく、桜は遠慮がちにアーサーを見上げた。形勢逆転、主導権返上。アーサーが首を傾けて桜の言葉を促す。

「えっと……サバを室内で焼くと匂いがこもるので、炭と七輪をお持ちしたんです」
「よくわかんねえが、あのやたらとデカいお前の荷物を持ってくればいいんだな。それはうちの方でなんとかするから、お前は人質らしく俺のそばでおとなしくしとけ」

 顔が近い。『菊』に身を任せ、同化しきってしまっていた桜は、彼が気恥ずかしさでいっぱいな時そうするように、――ふいと目を逸らす。
 瞬間、菊よりも一回り大きな手が桜の頬を掴んだ。否が応でも、彼の国の深みを見せつけられる。魅せられるーーあまり馴染みのない西洋の顔立ちに、見入ってしまう。

「あ、の……イギリスさーー」

 さすがの桜もこわい、と思った。今軽率に抵抗してしまったら、『菊』の名で、服で、香りで、存在を偽った桜が暴かれてしまいそうで、言葉が出てこない。――それくらいの力が、彼にあるように感じた。

「『人質になる』って意味、わかってんだろ?」

 オランダの姿がちらと浮かんだ。『国』の人質にあるということは、つまり。

「お前はそうやっておとなしくしてりゃいい。――そうやって俺に、見惚れてろ」

 不敵に笑ったアーサーが、雑に桜の額を小突く。途端に身体の力がふ、と抜けて、桜は壁を背にずるずると崩れ落ちた。
 『異なるもの』――そんな言葉が脳裏に浮かんだ。思わず菊の香りのする小袖ごと、自分の身体を抱き締める。

 菊、菊。もしかしたら私たち、大変な方に侵入されているのかもしれません。



*



 船長室に隣接する小部屋にて、桜はひとり木製の椅子に座っていた。小窓から差し込む日光の位置から、大体の時間を割り出す。先ほど人質の一人が解放されたとの旨が桜の耳に伝わっていた。国である桜を手中に収めた以上人間の人質は不要なはずだが、残るもう一人はおそらく、桜が不審な動きをしないための保険なのだろう。
 何はともあれ、いずれもう一人のオランダ商館員は解放される。――そこから状況が、自分がどうなるかはわからないが、今の桜に出来ることと言えばこの部屋で静かにじっとしていることだけだった。

 ――しかし、桜の身には予想外の一大事が起きていた。



 扉を叩く音が聞こえて、急に現実に引き戻される。返事をするとアーサーが顔を出した。

「あー……本田。調子はどうだ」
「イギリスさん」

 図らずも、安堵の声が出てしまう。食事が載っているのであろうお盆を片手に、足で扉を開けるアーサーが眉を上げた。

「どうした。お前、顔色悪いぞ」
「あの、縄がーー」

 椅子に縛り付けられている桜は、力なく笑った。――きつく晒を巻いた上に後ろ手で縛られている胸が苦しくて、今にも意識が飛びそうだった。話すことですらかなりつらい。この状態のまま、食事ができる自信は無かった。

「大変申し上げにくいのですが、縄がきつすぎるみたいで」
「え?わかった。ちょっと身体、触るぞ」
「え?」

 アーサーの指が、無遠慮に縄と桜の身体の間を伝う。確認するように背中から腕、――晒をきつく巻いた胸をなぞった。一瞬のことなのに、なんだかひどく長いことのように感じられてーーびっくりして、頭が真っ白になる。

「悪いな。力加減のわかんねえやつばっかで……って、本田?どうした。大丈夫か?」

 よほど頑丈に縛ってあったのだろうか、短剣を使ったらしいアーサーが、縄を片手に桜の額に手を当てる。ひんやりとしたアーサーの手は、火照った顔にぴったりだった。

「そ、そんな急に触るなんて、ひどい……」

 はっとした。正体を偽っている今、アーサーと桜は同性なのだ。一瞬混乱しかけた頭を無理矢理抑える。仕方ない、いや仕方なくはないが、これは事故判定で良いだろう。幸運なことに桜の言葉が聞こえていなかったらしいアーサーが、心配そうに言った。

「どうした。まだ苦しいか?」
「……いえ……なんでもありません。ありがとうございます。お陰様で、息が楽になりました」
「そうか。大丈夫か?別に外にいる奴に声かけてゆるめてもらっても良かったのにーー」
「はは……」

 もし正体がばれてしまったらと思って誰にも声を掛けられなかったのだ。桜は笑って誤魔化した。

「にしても苦しかっただろう。しばらく縄は外したままにしておくから、楽にしていてくれ」
「そんな……すみません、ありがとうございます」
「良いんだ」

 心なしかほっとした表情で、アーサーが部屋の隅から古ぼけた椅子を引っ張り出してくる。
 ――不思議な人だな、と思った。実のところ、大英帝国という存在はもっと邪悪で、どうしようもないものだと思っていた節があった。いやもちろん、彼が我が国にしていることはひたすらに野蛮で、外交上かなりの問題を孕むものではあるのだがーー大英帝国は意外と人間らしい、ということに桜は驚いていた。

「飯だ。口に合えばいいんだが」
「ふふ。それではご厚意に甘えて」
「オーツ麦の粥だ。本当はもっと豪勢なものを振舞ってやりたい気もやまやまなんだが……すまない」
「いただきます」

 匙で粥をすくう。食べ慣れた自国のそれとは少し異なるもののようだったが、覚悟を決めて口に入れた。頭を鈍器で殴られたような衝撃が走る。

「どうだ、うまいか」
「う……えっと、不思議な味がします。オーツ麦というものを初めて食べるので、とても……新鮮です」
「はは、麦自体は全然新鮮じゃねえけどな。そう思ってくれるようなら良かった」

 目を瞑って、覚悟を決めて皿の中身をかきこむ。味を感じる前に、飲み込むように胃の中に流し入れた。なんて劣悪な食事環境。「そんな急に食べなくても、腹が空いてたのか?」と、なぜか嬉しそうにおかわりを勧めてくるアーサーを丁重に断る。

 食後の紅茶を手に、桜とアーサーはサイドテーブルを挟んで座った。日が傾いてきていた。小窓から見える朱が、きらきらと水面をはじいて眩しかった。

「きれい……」
「海はよく来るのか?」
「私は家に籠りきりなので、あまり。イギリスさんはよく海に出られるのですか?」
「ああ。うちは島国だからな。海に出ないと、何も広げられねえ」

 そうか、大英帝国も島国なのか。海を渡り世界を闊歩する西洋の島国と、固く門を閉ざし限られた国とのみ通商を行う東洋の島国。同じ島国なのに、何もかもが正反対だ。政治を退いて数百年経った今、どちらが正しくてどちらが間違いなのかはわからなかったが、この相違はただ単に、それぞれがそれぞれに合った生存戦略を行ったがために生まれたものに過ぎないのだろうと桜は思った。

「にしても正直な話、助かった。最近はずっとオートミールばっかだったから、あいつらが倒れちまいそうで心配だったんだ」
「まあ…みなさんの健康が心配ですね……」
「魚や肉をもっと長期保存できるようになれば助かるんだがな」
「――そんな時代が来たら良いですね」
「きっとすぐ来るさ。『国』である俺たちにとって、時間が経つのはあっという間だ」

 そっとアーサーの顔を覗き見る。こんな状況なのに、すこしだけ親近感を感じている自分が憎くて、――なんだかおかしかった。ぱちりとアーサーと目が合う。どうやら、アーサーも桜と同じことを考えていたらしかった。

「あの、変なことを言うようだが――俺たち、もっと他の出会い方をしていたら、良い友人になっていたような気はしないか?」
「ふふ、私も同じこと思ってました。同じ島国であること以外にも、共通点がありそうです」

 アーサーが柔らかく笑う。初めて見る種類の笑顔だった。桜が差し出したマサバから端を発して、それぞれの食文化の話、四季折々の草花、仲が良かった英雄の話、武将の話、こぼれ話や笑い話、それからつらいけど今思い返せば笑い飛ばせるような話。――二人は自分が置かれた状況のことなど忘れたように、語り合った。気付けばすっかり日は落ち、あたりは薄暗くなっていた。アーサーがオイルランプの明かりを灯す。

「そろそろ俺は戻る。もう一人の人質も解放しなきゃなんねえからな」
「ありがとうございます、イギリスさん。約束、守ってくださるんですね」
「当たり前だろ。――返還と同時に、オランダの野郎に最後通牒を送るつもりだ。残念ながら、お前の処遇はそれ次第で決まる」

 笑顔の消えたアーサーの瞳の奥に、複雑そうな感情が見て取れた。桜は椅子から立ち上がったアーサーを見上げて、微笑んだ。

「――私たちは『国』、ですから。仕方ありませんよ」

 彼に対する親近感も本心だったが、『国』としての許せない思いも本心だった。片割れに成り代わってまで奔走した『国』としての自分の思いに拮抗するほど、桜はアーサーに心は許せなかった。そもそも『国』にとって『個人の感情』というものはあるはずのないーーあってはいけないものであるし、飲み込んで隠すべきものだから当たり前のことではあったが。
 アーサーが慣れた手つきで桜の身体を椅子に縛り付ける。荒い縄が腕を擦って痛みを覚えたが、桜は何も言わず黙っていた。

「なあ」

 顔を上げる。古い油を使っていたのか、もともと弱かったオイルランプの光がぷつりと消えた。暗くて何も見えない。すぐ目の前にいるはずのアーサーの表情さえ、わからない。

「はい」
「――俺の国の花、一輪だけでも十分魅力的なんだが……大輪の花束にしてやるとすっげえ綺麗になるんだ。いつかお前に持って来てやるよ」

 ゆっくりでいて、なんだか少し強張ったようなーー冷たい声だった。大英帝国らしい言い回しの、遠回しの通商要求だろう。波の音が聞こえた。桜は少し考えてから、今は気が付かないふりをしておこうと思った。

「友人として、お気持ちだけはありがたくいただいておきますね」




*




 数刻後。オイルランプの小さな光が揺れて、扉が開く。無表情の『大英帝国』が書状を桜に叩きつけた。

「――お前の家はそんなに薪や食糧が無いのか?」
「私が持ってきたものだけで、もう精一杯ですよ」

 イギリス船が何を言って来ようと、これ以上の物資は補給しない。そう返事をするように指示を出したのは他ならぬ桜だった。サイドテーブルに寄りかかり、考えあぐねるようにこちらを睨みつけるアーサーを、飄々とした態度で見返してやる。

「何度も言っているが、これは俺とフランスーーオランダの問題だ。関係ないお前がしゃしゃり出てくると迷惑なんだ」
「その関係ない私の港に勝手に侵入した上、好き勝手暴れ散らしていらっしゃるのはどこのお方でしょうね?」

 桜は書状をちらと見やった。商館員は無事、長崎に返還されたようだった。ほっとする。目的は果たせた。

「あなたが長崎側にどのような文を送られたのかは存じ上げませんがーー港内の船を焼き討ちにする、とでも脅されたのでしょうか。ならばこんな悠長に返事を待たずに、今すぐ実行されればよろしいものを。もっとも、そこまでの戦力がこの船にあるようには見受けられませんけどーー」

 ぐらりと身体が揺れて、突如身体に衝撃が走った。拘束されたままの桜は成す術もなく、がつんと椅子の角に頭をぶつける。がんがんと響く痛みを堪えながら目を開けると、目の前に埃の積もった床が見えた。からだのあちこちが痛い。椅子の下敷きになった右腕が悲鳴を上げる。アーサーがぐいと桜の頬を掴んだ。

「自分の立場わかってんのか。――お前は人質だ。命が惜しけりゃ、減らず口を叩くな」
「私の命など惜しむものではない。わかっているでしょう、私たちは『国』です」

 しゃがみこんで桜の顔を覗き込むアーサーを、負けじと睨みつける。

「私たちは死なない。いえ……死ねない。民がいる限り、何度だって甦ります」

 ぎり、と肌に爪が食い込む。どこか切ってしまったのだろうか、口の中で鉄の味が広がった。

「だから何だ。――お前に人質の価値は無い、とでも言いたいか?」
「残念ながらその通りです。――よく考えれば、オランダさんならまだしも、西洋の革命に関係ない『私』を人質に取っても何も利点は無いことは明白。ーーそれに、たとえこのまま私をさらったとて、あなたのもとへ亡命してきたオランダさんの上司は快くは思わないでしょう」

 アーサーの喉が動いた。床に倒れこんだ状態のまま、桜は静かな声色で続けた。

「私という手札はあなたの最後の切り札にはなり得ません――イギリスさん。私の価値を大きく見誤った時点で、あなたの負けは確定していたんです」

 こちらを見下ろす影はどこまでも無表情だった。――無事のまま帰れるとは、微塵も思っていなかった。
 菊に怒られない程度に済ませてもらえーーそうにはないだろう。諦めたように、覚悟を決めるように、大きく息を吐き出す。

 その時だった。

 小部屋の扉が勢いよく開いたと思った瞬間、アーサーが桜から引き剥がされた。理解が追い付かないうちに、手早く身体の戒めが解かれ、何者かに抱き起こされる。

「日本、大丈夫か」
「――お、らんださん?助けに来てくれたんですか?」
「ったく」

 呆れた顔をしたオランダが、桜の口元の血を拭う。その手のあたたかさにびっくりして安心して、気が付くと目尻を熱いものが伝っていた。

「っ……オランダ、何しに来たんだよ」

 ゆらりと立ち上がるアーサーを、オランダが静かな目で見つめ返す。尋常でない空気に思わず桜が身じろぎすると、オランダはさりげなく桜の身体を引き寄せた。

「イギリス、おめに勝ち目はね。はよ帰れ」
「てめえ……痛えんだよ、この馬鹿力が」
「そら坊ちゃんが調子乗るからや。――日本、脚は平気か。後ろに立っとき」
「は、はい」

 桜をかばうように前に立つオランダの背中に、なんだか心臓をぎゅっと掴まれたような気分になってしまう。アーサーが桜を睨みつけた。

「オランダ、そいつは俺の人質だ。実力行使で奪い返す気か?」
「戦上手の日本に見事負けたようやの。おめえにはちょっこし腹が立ってたさけ、すっきりしたわ」
「髭に好き勝手やられてる奴がっ……!」
「ふん。確かに、うちの上司がイギリスん家に亡命させてもらっとるっちゅー話は聞いたけども」

 階下が騒がしい。船内の兵士が全て集められているのだろう。一瞬のアーサーの隙をついて、オランダが桜の身体を抱き上げた。扉続きになっていた船長室に滑り込むと、床で伸びている見張りを乗り越え、一目散に部屋を縦断する。
 ――オランダが窓に突っ込んだのと、船員が船長室に飛び込んできたのはほぼ同時だった。ガラスの破片とともに、桜を抱きかかえたオランダが宙に舞う。ずんと身体に衝撃が走った。目を開ける。甲板の上で、オランダと桜は囲まれていた。

「桜、俺がこっちを引き付ける。――北に小舟が着いているさけ、飛び降りろ。俺は後から行く」
「ありがとうございます、オランダさん」
「ん。――行け!」

 オランダの合図を受けて、桜は自身を取り囲む輪に飛び掛かった。樽や木材を薙ぎ倒しながら、オランダの示した場所へと一目散に駆け出す。

「はあっ……はあっ……」

 追手との距離を確認して、桜は甲板から海を見下ろした。――あった!夜目をこらすと、確かに見慣れた小舟が裏に着けられていた。
 ――ドン、と後ろで何かが着地する音がした。しまったーー振り向きざまに、髪を引っ張られる。アーサーが短剣を桜の首に突き付けた。

「お前――とことんつめが甘いな。この船から絶対に出さねえ……俺と、一緒に、来い!」
「っう、ぐ!」

 力任せに甲板から引き剥がされる。壁に身体を打ち付けられた桜は言葉にならない呻き声を上げた。ずる、と崩れ落ちそうになる身体。すかさずアーサーが桜の両腕を頭上で拘束した。桜は荒い息のまま、アーサーを睨みつけた。

「――なんだその目は」

 顔のすぐ横に短剣が突き立てられる。巻き添えをくらった髪がはらりと舞った。

「私は『日本』です。あなたの行動に、あなたの対応にーー心からの反対の意をーー」
「生意気なんだよ、薄っぺらい言葉ばっか並べやがってっ」
「そんな、だって……!私たちは『国』、ですからっ……!」
「うるっせえ……!」

 ぎり、と手首を拘束する力が強くなって、桜は暴れて抵抗した。苛立った様子のアーサーが、ぐい、と桜の脚の間に右膝を割り込ませる。
 ――アーサーの動きが止まった。

「っ?お前……何だ?」
「え……?」

 アーサーが桜の身体を凝視する。目が合った。信じられないものを見るような、そんな瞳。――しまった。

「――まさか、」
「やっ……!」

 アーサーが、桜の着物の衿を乱暴に広げた。晒で巻かれているとはいえ、ふくらみを隠しきれていない胸元が露わになる。暴れても暴れても、身体の拘束はびくともしない。ごくり、とアーサーの喉が鳴った。

「や、だっ……!」
「桜っ!イギリス、おめえ……!」

 ――アーサーの冷たい指が、桜の肌をなぞった瞬間だった。怒り猛ったオランダがアーサーの横っ面を張り飛ばす。不意をつかれたアーサーが体勢を立て直すか立て直さないかのうちに、オランダの蹴りが飛んだ。負けじとアーサーの反撃が始まる。
 二人の肉弾戦を眼前にして、桜は壁を背にずるずるとへたりこんだ。

「桜、来い!」

 アーサーを甲板の端まで吹き飛ばしたオランダが、鋭く声を上げる。桜は一目散に駆け出した。そのまま抱きすくめられる。

「っ、待て!」

 よろよろと、アーサーが立ち上がるのが見えた。構わずオランダは船の縁に脚をかける。

「お前は一体何者なんだ!?以前会った時日本は男だった!俺を騙したのか!?」
「ちがっ……!」

 何も違くない。私は日本だけど、本田菊の片割れの『桜』。何も実権も、価値も無い身――。

「桜って誰なんだ。ずっと俺のことを騙して笑ってたのか?答えろよ、なあ」
「桜、この距離から舟に飛ぶのは不可能や。一度海を目標にする。絶対に俺の身体離すな」
「っ、わかりました……」

 アーサーの瞳が傷ついたように揺れる。桜は虚を衝かれて、思わずオランダの背から身を乗り出した。

「オランダさん、待って!――あ!」

 身体が浮いた。ぎゅっとオランダにしがみつく。アーサーの虚ろな顔が、ゆっくり離れてゆく。ごめんなさいーーその言葉が聞こえたかはわからない。ぐ、とオランダが桜の身体をかばうように強く抱き締める。大きく息を吸った。強烈な衝撃とともに、どぷんと身体が闇に包まれる。

 桜は意識を失った。





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