彼方よりきたる

 どこからか煮炊きの香りが漂ってくる。トントントン、と包丁がまな板を叩く軽快な音が耳で弾んだ。

 目を覚ました桜は、いつのまにか頭の下にあった紺の括り枕を指でなぞり、――はっとした。障子の隙間から漏れ出る柔らかな日の光が眩しい。着物が乱れるのも構わずに、桜は一目散に部屋を飛び出し台所を目指す。

 彼は確かにそこにいた。少し寝癖のついた黒髪、細身ながらもすらりと筋肉の付いた背中。味噌汁の味見をしながら、彼が振り向く。窓から差し込む朝日が彼の姿形を彩った。彼の口の形が自分の名前に動く。桜は思わず彼に抱きつこうとーー



「菊!」



 ――自分の叫び声で目が覚めた。

 天井に虚しく伸ばした手を静かに降ろす。無人の我が家はやけにひっそりとしていた。
 寝間着に羽織を肩にかけ、桜は台所に向かう。――冷たい草履を踏みしめて、桜は夢の中で菊が立っていた場所にそっと寄りかかった。

 背後で物音が鳴る。まさか、――はっとして振り向く。

「ニャー」
「たまさん……」
「ミャー」
「おはようございます。ふふ……すみません、年甲斐もなく感傷に浸ってしまいました。今、ご飯用意しますね」

 ――江戸の菊を訪ねてから七度目の冬。
 永遠を生きる『国』たる自分にとって、過ぎゆく季節はただ流れる水のようだった。ずっと長い間桜は菊と二人きり、水の中をひたすらにたゆたい彷徨っていたものだから、月日を指折り数えるのはひどく久しぶりのことで、なんだかすこしさみしかった。ゆらゆらと竈で揺れる火で暖をとりながら、桜は魚にかぶりつくたまの姿をぼんやり眺める。ーー仕事が立て込んでいるらしい菊からの連絡は、一切途絶えてしまっていた。
 桜の手を離した菊は、今もどこかでたゆたっているのだろうか。

「ねえ、たまさん。菊は元気ですかね」
「ニャー」
「そんなに焦らなくとも、魚は逃げませんよ」

 菊は二人分の仕事を抱え込んでくれているのだ。時間が経ったのに気付かないのは仕方がない。山奥に引きこもり、のうのうと気楽な生活を送っている自分が我が儘を言うわけにはいかないのだ。桜はため息をついて、ようやく重い腰を上げた。一人とはいえ、ーーいや一人だからこそ、やるべきことは沢山ある。桜は朝食の準備に取り掛かろうと襷を手に取る。

「たまさん?」

 魚に舌鼓を打っていたはずのたまが外に向かって唸っていた。耳を澄ます。ーー遠くから馬の嘶き声と蹄の音が近付いてくるのが聞こえた。
 ここ数十年間、桜の家を訪ねる者は菊以外いない。人払いがなされているのは桜自身もなんとなく感じてはいた。まさか迷い込んだわけではないだろう。ならば賊か、それともーー。
 何にせよ、久しぶりの客人のようです。桜は毛を逆立たせたままのたまを抱き上げ、玄関へと向かった。



*


 桜が自分が『人ではない何か』なのではないかと疑念を抱き始めたのは、物心ついてすぐの頃であった。大きな怪我をしても大事には至らない、何より人よりも成長がかなり遅い。

「何かが決定的におかしい」

 そう気が付いたのは家族が全員亡くなってからのこと。棺に納められ、年相応に年齢を重ねた兄弟姉妹の手を握る桜の手には皺ひとつなかった。
 異端は排除される。自分が捨て子であることも両親からそれとなく聞いていた桜は、自分が何者なのかを知るため、村を離れ各地を流浪した。――しかしどこへ行ったとしても、やれ神の遣いだやれ化け物の類だと崇められ恐れられ敬遠され忌み嫌われ、ただただ疲れ果て消えてしまいたくなる生活しか得ることができなかった。
 そんな時に出会ったのが菊だった。
 菊に出会わなければ自分が何なのか、誰なのかを知ることもなく永遠に彷徨っていただろう。早いうちから自身が『国家そのもの』であることを自覚していた菊に助けられ、桜は『自分』を手に入れたのだ。

 あれからゆうに1000年は経った。戦乱も裏切りも憎しみもきっと誰よりも経験してきたが、菊がいなければ潰れてしまっていたに違いない、と桜は思う。菊とともにあった人生、菊を助け、菊に守られてきた人生。

 ――時代は移ろい、江戸の世。桜は『隠居』という体で自分の国の政治から身を引いていた。女子はそうあるべきではない、というのがこの国の上司の総意だったようで、江戸と京を忙しく行き来する生活を送る菊とは対照的に、現在桜は人里離れた山で数人の侍女とともにひっそりと静かに暮らしている。

 不満があるかと尋ねられたら「特に」と答えてしまうのが常だった。少なくとも、権力を巡って多くの人が血を流す時代は終わったのだ。ーー武力に守られ、武力に追われる血生臭い時代が終わった。

 ならばよいのだと、桜は思う。幼いころから今に至るまでともに過ごしてきた菊と離れるのはとても辛いことだったが、自分たちが我慢することで、自分たちを巡る争いが二度と起こらないならばと桜は上司の命令に従うことにした。桜の『隠居』に最後まで反対していた菊が何とか上司達に掛け合い、一年に一度の面会が許されたが、今まで二人で担ってきた政務を一挙に引き受けることになった菊はとにかく忙しく、菊と約束したよりも江戸との往来は数少ないものとなっていた。

 ーーしかし。


「祖国だ!祖国が到着なさった!道をあけろ!」

 どっと人垣が割れる。馬から飛び降りた桜は崩れるように地面に倒れ込んだ。あちこちが擦れて痛んだが、泥だらけの身体に鞭を打って這い上がる。息がうまくできない。呼吸器官が悲鳴を上げていた。構わず、奉行所の役人に案内を求める。

「桜」

 ぐいと腕が引かれ、身体がよろめく。すかさず大きな手が桜の肩を支えた。

「っ!オランダさん!」

 オランダの姿を視界に入れた途端、急に喉の奥が苦しくなった。

「本当に、申し訳ありません……!」

 ちろりと瞳が動く。ーー苛立った表情の奥に、心配と焦りの色が見えた。

「ーー来ね。イギリスの野郎がうちの2人人質にしとるさけ、日本が早よ何とかしねま。……なあに辛気臭い顔してもてえ」

 コツンと軽く頭を小突かれる。鼻の奥がツンとして、ぽろぽろと涙が溢れた。

「すみ……ません」
「……ん。大丈夫か」

 こちらを気遣うようなオランダの声色が、桜の緊張を解していく。こんな時だというのに、オランダの優しさはいつも通りだった。

 ーー文化5年8月15日。長崎港にイギリス船が侵入。
 入港してきた船は確かにオランダ国旗を掲げていたのだと真っ青な顔をした商館員は証言した。

「それでいつも通り商館員と通詞を派遣したら、武装ボートで拉致されいつの間にか国旗もイギリスのものに変えられていた、と……」

 桜は顔を顰めて畳の上の地図を指差す。

「長崎警衛当番はどうしたのです。到着した様子は見られませんが」
「そ、それが……」

 役人の歯切れが悪い。桜が眉をひそめると、怯えたようにぴくりと肩が震えた。

「その……勝手に、兵の数を減らしておりまして」
「減ら、した!?無断で?」
「はい……」

 一体どういうことだ。桜は目眩を感じた。どうも太平を享受しすぎるのも問題らしい。ーー今、警衛当番が動かせる人数はたったの100名。現在奉行が九州諸藩に出兵を求めているようだが、返事を悠長に待っている余裕はない。

「菊に……江戸に使いは出しましたか?」
「はい。ーーしかし、江戸からの救援を待っている時間はありません。たとえどれだけ急いでも、江戸に着くまで7日ほどかかります」
「だから長崎奉行は私を呼んだ。そうなのですね?」

 こくりと役人が頷く。長崎で起こった未曾有の事態を解決すべく、長崎奉行は独断で『国』の片割れたる桜を呼びに来たらしかった。急を要する事案であると言えど、江戸の判断を仰がず実質幕府の監視下で軟禁状態に置かれている桜を長崎へ連れ出した判断は賢明でーー、一奉行が持つにしては重すぎる責任だった。

「長崎奉行は私に、何と」

 隣に胡座をかくオランダが静かな目で事の成り行きを見守っている。役人の震える声が広間に響いた。

「桜様に、すべてを委ねるとーー」


*



「何か策はあるのけ?」

 役人たちが去った広間で、桜は大量の書類を広げて考え込んでいた。傍に座るオランダの手には風説書。桜は外に控えていた役人に文を差し出し、力なくオランダに微笑む。

「あると言えばありますが……うまくいくと良いですねえ」
「おめぇ……うまくいってもらあにゃ困るけ」
「もちろん、オランダさんのお家の方は絶対に救い出します。ーー約束します」

 オランダが深く息を吐く。キセルを持つ手がゆらゆらと所在なさげに揺れた。自分の国の人間が人質になっているというのに、じっとただ待っていることしかいれない彼の苦痛を思うと胸がちりちりと痛んだ。それに、オランダはあまり多くは語らないがーー風説書の写しを読むにーーどうも、欧州の争いでフランシスがオランダの実権を握っているらしい。
 そんな状況のもとにいるオランダに、さらなる追い打ちをかけるような事態が起こってしまったことに、桜は自責の念を感じていた。

「オランダさん、お疲れではないですか」
「……自分の子がひっておとろしい目に遭ってんに、……」

 休んでられるわけがない。そもそも、国の身体は頑丈なのだ。多少睡眠を取らなくても、食事を取らなくても一応何とかなる。桜は黙りこくったオランダの心情を察して、小さく謝った。

「はよ助けとっけのぉ」

 オランダはそうぽつりと呟くと、広間を去っていった。桜も深く息を吐いて、覚悟を決める。――腹を決める。
 たとえ人質を救えたとしてもーー自分の国の誰かが腹を切ることになるのは明白だった。幕府方の指示無しに動くのだ。何人の命を犠牲にしなければならぬのか。何人の命を背負って動かねばならぬのか。考えるだけで心が沈んだ。
 しかしそんなことは言ってられない。はやくオランダさんの国の人たちを救わねば。自分の判断で消えてしまうであろう命に哀れみを覚えながらも、桜は障子の外から差し出された文に目を通す。

「あとは、私が動くだけ」



*


 夜明け前。久しぶりに乗った小舟は思ったより不安定に感じた。身体を清め、髪を後ろで結わえた桜は心配そうな視線を向ける役人たちに微笑んだ。

「待っていてくださいね。私がきっと、長崎に泰平を取り戻しますから」

 冷たい風が桜の頬を打つ。見送りに来てくれていたオランダが何か言いたげに口を開いたが、桜は小さく会釈するだけにとどめた。
 小舟が押し出される。
 桜は重心を取って、積み込んだ薪や食料を濡らさないよう慎重に、器用に櫓を動かす。――腕が風を運ぶたび、懐かしい片割れの香りが鼻をくすぐった。淡い色の小袖に濃紺の袴。動くのに適した衣服が見当たらず、あわてて菊の着物を拝借していたのが思わぬところで功を奏していた。

 菊、すみません。私、いつもあなたに迷惑をかけてしまいますね。

 けれど私、この国のために精いっぱい頑張ります。いつもいつも、あなたに頼りきりでしたから……今日くらいは私の務めを果たせたらと思うのです。

 しばらく漕ぎ続けて、浜の人々の姿もすっかり遠くなり、腕が疲労で限界を迎え始めた頃。ようやく辿り着いたイギリス船は随分あっさりと桜を受け入れた。生まれて初めて見る異国のーー西洋の船の構造に桜は目を白黒させながら、積み荷を船へ引き入れる男たちに目を凝らす。しかしそれらしき人物の姿は見当たらない。どうしようーーと目を泳がせていると、頭上から声が降ってきた。

「お前、こんなんでうちの船が満足すると思ってんのか。薪も水も食料も、まるで足りねえな」

 芥子色の髪が桜を見下ろしていた。深緑色の鋭い瞳が桜を射抜いて、桜は思わず息をのんだ。
誰よりも若く、誰よりも豪華な着物を纏った青年だった。もしやーー桜は胸元から文を取り出し、青年に尋ねた。間違いのないように、ほころびが出ないように、慎重に言葉を選ぶ。

「あの、もし。この船の責任者の方は」
「俺だ」
「それは失礼いたしました。なにぶん逆光も眩しく、私自身老眼気味なもので」
「俺に何か用か?」
「――長崎奉行より書状を預かっております」
「そうか……まあ大したことは書いてねえだろ。寄越しな」

 賭けだった。桜は冷や汗をかきながらも、涼しい顔で乗組員に文を渡す。気怠そうに書状を受け取った青年はーーしばらく書状に目を通したのちーー顔を真っ青にした。

「お、まえは……!お前ら!早くそいつを船へ上げろ!」
「祖国?いかがされました?」
「馬鹿野郎!そこにいるやつはただの役人じゃない……『日本』なんだ!『日本』自ら交渉に出向くなんてっ……馬鹿なのかこの国は!」

 青年の言葉に慌てふためく乗組員たちが一斉に桜の小舟に下りようとする。混乱の中で、桜は乗組員が青年に『祖国』と呼びかけたのを見逃さなかった。
 この人が、『イギリス』。

「お前ら全員がおりたらあの船沈むだろうがっ!もういい、俺がやる!」

 瞬間、青年の影が落ちて小舟が衝撃で揺れる。生まれて初めて見る色の瞳が、朝日を受けてきらきらと輝いていた。

「悪い、数百年前会った時は一瞬顔を合わせただけだったからーー分からなかった。本当にすまない」

 ――この人は、『日本』が二人いることを知らない。知るわけがないのだ。今まで外交面は菊が請け負ってくれていたし、我が国が『イギリス』と公式に通商を行ったのは江戸の初め。桜が政治の世界から身を引いた直後のことだった。
 自分自身が国家機密となりつつある事実に、思わず気が引き締まる。

「お久しぶりですねーーイギリスさん」

 着物に焚かれた香が、海風にたなびく。

「私は『日本』。本田菊と申します」

 何千年もともに生きてきた彼の動きを完璧に再現するのは、桜にとって容易いことだった。



APH目次
back to top