しあわせを握りしめて


「はあッ、はッ……」

 肩が、焼けるように熱い。息が上がる。真っ暗な森の中、本田菊は敵兵から逃げ惑っていた。

――いや、今となっては『彼ら』が敵兵なのかどうなのかもわからない。菊は震える身体を木立に身を潜めながら、そっと遠くの篝火の様子を伺う。武器がぶつかり合う音。怒り狂ったような叫び声。誰もかれもが血眼になって菊を探していた。

「っ、ぐ」

思わず痛みに顔を歪める。肩に受けた矢傷のせいで、菊の着物はびっしょりと血が滲んでいる。
政権奪取の混乱の中、従者とはぐれたのは何時のことだったか。もしや彼は捕まってしまったのだろうか。生きているだろうか。はたまたーー。ぐ、と喉奥が苦しくなるような感情に涙が出そうになる。
 その時だった。

 ガサリ、と背後の茂みが音を立てた。悲鳴を上げそうになった菊の口を何者かの手が塞ぐ。菊はまともな抵抗もできぬままぐい、と身体を引かれた。肩に激痛が走る。

「っ、」
「しー」

 耳元を小声がくすぐる。ふわりと花の香りが菊を包んだ途端、先ほどまで菊が座り込んでいた道を幾頭もの軍馬が通って行った。

 土埃で息が詰まる。――誰かに抱き締められながら、菊は恐怖で震えていた。どくどくと心臓が早鐘を打っているのを感じる。頭がくらくらして、身体から力が抜けていく。視界がかすむ。菊はふ、っと意識を手放した。


*


「……く」
「ん……」
「ね、菊。菊、起きて」

 ぱちり、と目を開ける。心配そうな顔をした桜が菊を覗き込んでいた。

「ごめんなさい、起こしてしまって。でも魘されていたようですから……」
「あ、ああ……すみません、桜」

 桜に支えられるようにして身体を起こす。甘い香りが菊の鼻孔をついて、菊は思わずほっとため息を吐き出した。ぽんぽんと背中をやさしくさすってくれる彼女の手に、だんだん落ち着きを取り戻していくのを菊は感じた。

「すっかり汗をかいてしまっていますね。このままでは風邪を引いてしまいます。今着替えを持ってきますからーー」

 思わず、半ば無意識的に、身体を離した桜の腕をつかむ。桜は驚いたような顔をした後、再び菊の背中に手を回した。あたたかい。菊は桜にすり、と頭を擦りよせた。

「何か……嫌なことでもありましたか?」
「いえ。すみません……少し、懐かしい夢を見て」

 目を瞑ると土煙と血の匂いがするような気がして、菊はぶるりと身体を震わせる。桜が差し出してくれた湯呑茶碗の冷水で喉を潤しながら、自分の情けなさにほとほと呆れ果てた。こんなにも長く生きているのに、私はまだ怖いのだーー人の争いが、死が。

「まだ私は弱いみたいです。……人のように死ぬわけじゃ、ありませんのに」

 菊が力なく笑う。箪笥から寝間着の替えを出す桜の動きが一瞬止まった。

「弱いだなんて、そんなこと言わないで。確かに私たちは『人間の方法』では死ぬことはありません。……ですが、感じる痛みは人と変わらないのですから」

 怖いのは当たり前です。こつん、と桜が菊に額をくっつける。長い睫毛が彼女の顔に深い陰影をつくっていた。細い指が菊の指を絡めとって、冷たくなった菊の手先をあたためる。

「あなたには私がいます。……ずっとずっと一緒にいます。だから、どうかご自分を呪わないで」
「――桜」

 深呼吸をして目を瞑る。ぎゅっと彼女の手を握る。花の香りが菊を包んでいる。

「あの、桜。……今夜は、一緒に寝ても」

 言ってから、さすがにまずかったかと焦ってしまう。姉のような、妹のような存在とはいえーー

「私でよかったら!そうですね、では客間から布団を」
「……」
「菊?何かーー」
「必要ありませんよ」

 少し顔を輝かせて部屋を出て行こうとした桜の腕を引く。ドサリと布団に沈み込みかけた彼女の身体を支えてから、菊は小さな声で言った。

「ほら、私の布団で眠れば良い話でしょう」
「……確かに、それもそうですね」

 夜も遅いですから、別室から布団を移動させるにしても足元が不安ですし。そう言った桜に菊は一瞬拍子抜けする。
 年齢などお互い数えるのもやめてしまったが、どれほど見た目が成長しようと取り巻く環境が変われどーーこの関係は、いつまでも終わることがない。永遠に、ずっと。
これが幼馴染というものなのでしょうか。そうなると、随分と年季の入った幼馴染ですがーー菊は苦笑しながら、桜のすぐ隣に潜り込んだ。

「桜、枕使って良いですよ」
「いやいや菊が使ってください」
「いえ桜が」
「私は大丈夫ですから菊が」

 しばらくの押し問答ののち、菊が枕を使うことに落ち着いた。何て強情な女子でしょうと呆れ半分に菊は彼女の手のぬくもりを布団の中で捉える。優しく握り返されたそれに思わず頬を緩めながら、菊は桜と目を合わせた。

「おやすみなさい、桜」
「ええ、おやすみなさい」

 小声でそう言い合うと、すぐに聞こえてきた小さな寝息。
 ーーふと、こうやって同じ布団で眠るのは幼い頃以来だと感慨深くなる。あの頃に比べればお互い背丈も伸びて布団も窮屈になってしまったが、やはりこのぬくもりだけは変わらない。


 願うなら、いつまでもこの時が続きますように。そう思いながら、菊もやさしい眠りに意識を手放した。




*



 桜と菊はふたりで『日本』である。言い換えれば共同統治者、いや共同概念といったところだろうか。桜一人では『日本』は成り立たず、菊一人でも『日本』に成ることは叶わない。二人が初めて出会ったのはこの江戸の世からかなり遡った時代、中央集権体制も確立されていない、文字記録もまだ普及していない時代のこと。しかし菊はあの時のことをしっかりと覚えている。否、忘れることができるわけがないのだ。
ーーあの日、自分を救ってくれた美しい少女は今隣で眠っている。菊は桜の髪をそっと撫でた。夜と朝の混じった鋭い空気が菊の肺を満たす。菊は桜を起こさぬように、静かに部屋を抜け出した。

この屋敷に自分以外の存在を感じるのは五年ぶりのことだった。まだ暗い台所で煮炊きの準備をしながら、彼女の好きな食材ばかり買い込んだ自分に思わず苦笑する。年甲斐もなくはしゃいでしまうのは仕方がないことだろう。誰よりも、何よりも長い時間をともに過ごしたはずの彼女はわけあって自分と離れて暮らしていた。『隠居』という体での政界引退である。菊一人では『日本』になれない。上司の言い分には納得がいってなかったし、本心を言えばこれからもずっと桜と一緒に暮らしたい気持ちが大きかったため、最後まで菊はこの決定に反対していた。しかし

「上司がそうおっしゃるのでしたら」

 ――桜がやけにあっさり引き下がったため、菊も自分の都合より国の事情を優先する方に傾かざるを得なかった。菊や桜のような存在にとって自分の都合はないがしろにされるのが当たり前のことなのである。わかっている。わかっているがーー自分ばかりが彼女に執着しているようで、菊は寂しく思っていた。
一年に一度、桜を江戸に呼んで良いことになってはいたが毎年仕事やら何やらを言い訳に、彼女から一言「会いたい」と手紙が来るまで先延ばしにしてしまっていた。我ながら何と子供っぽい。自己嫌悪に苛まれながらも、流麗な筆致が江戸に住まう自身のもとへ届くたび、菊は安心してしまう気持ちを止められなかった。彼女も自分に会いたいと思ってくれている。自分だけではない。自分は一人ではないーー

 足元に朝日の光が差し込む。自分はやはり、どうしようもなく桜が好きなのだと菊は思った。


APH目次
back to top