9.罪の曖昧性

 暴れ柳に人払いの魔法を念入りにかけたロージーは、木のうろの中に身を滑り込ませた。――束の間の浮遊感ののち、古い床に投げ出される。受け身をとって、周囲を見渡したその途端、

「っ、!」

 身体をしたたかに打ったロージーは、少し顔を顰めた。――視界一杯に犬の顔が広がる。あ、と思った瞬間、黒い犬はロージーの顔をぺろぺろと舐めはじめた。

「きゃあ!?――こら、シリウス!やめなさいって!やめなさっ……」

 カラリと杖が転がる。ロージーはあまりのくすぐったさに身をよじって、悲鳴を上げた。

「ね、ねえ!ちょっと!――いるんでしょうキングズリー!」
「呼んだか?」

 見慣れた顔がロージーを覗き込む。ふ、っと犬の体が浮いて、圧迫されていた身体が楽になる。ロージーは唾液でべたべたになった頬をローブの裾で拭いて、身体を起こした。キングズリーは妙に楽しそうに言った。

「一昨日ぶりだな、デュベリー女史?お元気そうでなにより、……何だその顔は?」
「あのねえ……」
「不満でもあるのか?こんなにも作戦はうまくいったのに?」

 抱き上げた犬の前脚をちょいちょいと動かしながら、キングズリーが笑う。ロージーはむっとした顔のままキングズリーの脛を蹴り上げた。――その隙をついて、犬がするりとキングズリーの腕から抜け出す。
 ロージーはしゃがんで、彼と視線を合わせた。

「シリウス、どうして人間の姿に戻らないの?――あら?動物もどきの時間が長かったのかしら」

 ロージーが急かすようにつつくと、犬は怯えたように後ずさりする。キングズリーは眉を顰めた。何か物を言いたげに擦り寄ってくる彼に違和感を抱いて、キングズリーはロージーに問う。

「――おい、怖がられているぞ。数年前の『あれ』が効きすぎているんじゃないか?」

 ファッジを言いくるめて、アズカバンの視察に出向いた時の彼女の言動のことだった。脱獄を後押しするのは希望よりも絶望である、と考えての行動であったことはキングズリーも察してはいたが、牢獄にいた本人がそう受け取ったとは限らない。
 ロージーがキングズリーを見上げる。呆れかえった表情だった。

「あのね、キングズリー。あなた、彼を弱虫だとでも思っているの?」
「さあ、知らん。私は彼との面識がほぼゼロに近いからな」
「確かにね。――だから確認しなきゃ、彼が本当にシリウス・ブラックなのかどうか」

 ぷつり、と彼女の瞳が重く沈む。――ぞわり、と嫌な予感が身体を伝う。
 ロージーの判断は正しい。誤った対象を保護してしまえば、今までの努力が全て水の泡になってしまう。それなのに、『彼女の止めるべきだ』と身体の危険信号が鳴り響いていた。こうした直感が杞憂に終わったことはほとんどない。嫌なものだ。キングズリーはちらりと黒い影を見下ろす。きゅうんと犬が鳴いた。キングズリーはため息をついて、ロージーに右手を差し出す。

「杖を出せ、ロージー」
「杖?何する気?」
「これから君が一体何をしでかすのか心配でならない。――もしも叫びの屋敷が吹っ飛んでしまっては、君のたくらみはすぐに魔法省の知るところになってしまう。違うか?」
「ちょっと。私、無策に叫びの屋敷を吹っ飛ばすような魔女に見えて?」
「万が一の話だよ。君は実に激情家だ。一時の感情に振り回されて、杖が暴発したらどうする?私まで連座でアズカバン送りになるじゃないか」

 黒い犬が同意するようにうんうんと頷いていたような気がしたが気のせいであると思いたい。キングズリーが早く、と急かすと、ロージーは仕方ないといった調子でしぶしぶ杖を出す。

「じゃああなた、そこでしっかり私のボディーガードを務めなさいよ」
「――感動の再会に、私は邪魔ではないのか?」
「私の杖を没収しようとしている人が一体何を言ってるのよ。丸腰の私を置いていく気?」

 それもそうか、とロージーの頼みを承諾すると、彼女はすんなり杖を渡してきた。若干の心地悪さを感じつつも、キングズリーは一歩後ろに下がる。
 これで、出来る限りの危険は排除できたはずだ。――だが何故だろう。何だかもっと、考慮すべきことがあったような気がしてくる。
 何より、足元の犬が必死に何かを訴えようとキングズリーに擦り寄ってくるのが気になる。
 いやしかし、杖を失った魔女は非力。大丈夫だ、と彼の背を押してやると、犬の顔が絶望の一色で染まった。
 ――もしかして、私は何かを見落としているのだろうか?

「シリウス、さあ。こっちに来なさい」

 ロージーがにっこりと満面の笑みを浮かべて、ぽんと手をたたく。
 諦めたように、天命を悟ったように、犬がキングズリーの足元から抜け出てきた。――途端に、空気が動く。黒い塊だった彼が形を変えて、見覚えのある人間の姿に変化する。
 数年ぶりに目の前に現れたシリウス・ブラックは、あの時よりも亡霊然とした姿かたちになっていた。落ちくぼんだ眼が、ぎょろりと動く。

「久しぶりね、シリウス・ブラック」

 落ち着いた静かな声。あくまでロージーは冷静に、シリウス・ブラックと対峙していた。
 ――キングズリーは意外に思う。

 外面が良い、と言うとロージーは怒るが、とにかく本当に彼女は外面が良い。通常、ロージー・デュベリーという魔女は、魔法省の莫大な仕事もそつなくこなし、難解な人間関係でもうまく立ち回り、隣人の手助けも厭わないため、『善人』『淑女』『人徳者』といった印象を世間に与えている。
 本当に外面が良すぎて、鼻で笑うしかない。世間に対して、彼女は決して隙を見せない。彼女の内面を、心の内を、本心を、決してつまびらかにしたりしない。

 彼女が素の表情を見せるのは、心を許した人間に対してのみだ。
 そんな歪んだ生き方を危うく思うこともあったが、それも彼女がこの世界を生き抜くために編み出した方便なのだろう。ホグワーツ時代の恋人の死、騎士団時代の壮絶な日々。魔法省に来る前の彼女の人生は、ぽつりぽつりとではあったが本人から何となく聞きかじっていた。
 ――だからこそ、意外に思った。シリウス・ブラックに向けるロージーの視線は冷たく、声色も妙に他人行儀だった。
 騎士団で、ロージーとシリウスは良好な仲であったと聞いていた。ロージーは、アズカバンからシリウスを救出するために魔法省に入り、12年間彼の脱獄のために秘密裏に動いてきた。ロージーにとって『シリウス・ブラック』は、世渡りのうまい彼女が危険を冒して必死になるほどの男なのだ。――正直なところ、キングズリーはひっそりと危惧していた。ずっと願い続けたシリウスとの再会に、彼女は取り乱してしまうのではないかと。感情を揺さぶらせて、涙を落として、声を震わせて、困惑して、怯えて、恐れて。いつも冷静沈着であろうと自身に呪縛をかけている彼女も、この瞬間だけは素の感情を露わにするのではないか、と。
 それなのに、目の前の彼女は。

「ロージー」

 掠れた低い声だった。焦りと恐れが滲んでいる。
 ロージーは微動だにしない。それどころか笑みを浮かべていて、キングズリーは困惑する。

「――あなた、本当にシリウス・ブラックなのかしら?」

 ロージーがシリウスの髪を耳にかける。鈴が跳ねるような声だった。
 キングズリーはロージーの言葉が理解出来ず、硬直する。……まさか。最悪なケースが頭を過ぎった。ローブの中で杖を握りしめる。
 その途端、ぎゅるんとシリウスがキングズリーの方を振り返った。

「キングズリー・シャックボルトと言ったな?」
「……そうだが、何か?」
「今すぐこいつを俺から遠ざけてくれ。縛り付けてでもいい!とにかく、妙な手段に出る前に頭を冷やせと――自分の目前の現実が悪夢ではないことを、こいつに理解させてやってくれないか!?」
「は……?」
「……まさかお前、知らないのか……!?」

 シリウスの瞳が絶望に沈む。知らない。一体何を?彼の言葉の意味がわからず、キングズリーはロージーに視線を走らせる。シリウスが掠れた声で叫んだ。

「ロージー!俺は現実だ。本当に、本物のシリウス・ブラックだ!」
「偽物は必ず言うわ、自分が本物だって。――だから私は自分の手で確かめたいのよ」
「だけど、おまえ……!ひっ!ま、まじかよ!」
「――ロージー、一旦止まれ。ストップ」

 シリウスの怯え方が尋常ではないので、キングズリーはロージーの肩を掴んで制止した。

「ちょっと聞いて良いか。君、一体何をするつもりだ?」
「――キングズリー。あなた、悪夢を見たことはおあり?」
「悪夢……?」

 質問の意図が掴めず、キングズリーは眉を顰める。ロージーが大真面目な顔でキングズリーを見上げた。呼吸は落ち着いている。身体を妙に力ませている様子もない。冷静沈着、パーフェクトなほど落ち着き払っている外面の良い『ロージー・デュベリー』がそこにいた。ロージーは続けた。

「私は何度も見るの。シリウス・ブラックが私の目の前に現れて、脱獄の成功を告げる悪夢を」

 長い睫毛が不安げに揺れる。気の強そうな瞳がキングズリーを見上げた。

「何度も何度も期待して、何度も何度も目に見えたはずのものに裏切られたわ。――だから、私は確かめたい。この判断は、とても合理的で正しいものよ。そうでしょう?」

 ――その通りだ。魔法省のマニュアルでも、保護対象の確認が義務付けられている。いや、自分たちが現在行っていることは魔法省への完全な背信行為であるので、魔法省のマニュアルをその根拠に選ぶのは何ともふさわしくないような気もするのだが。まあそれはともかく、ロージーの判断は正しい。正しいが……
 キングズリーはふと考える。杖を没収された彼女は、一体どうやって『シリウス・ブラック』を確かめようというのか?

「――俺が怖いのか」

 静かな声だった。先ほどまでの恐怖と怯えは完全には抜けきっていない。――しかし、諦めたように、何かを理解したように、シリウスはロージーを真っすぐ見つめていた。
 ぴり、と空気が緊張する。しばらくの沈黙の後、シリウスは続けた。

「……俺はお前に、俺の騎士になれと言った覚えはないぞ、ロージー」

 怒りが滲んだ声だった。ぴくり、とロージーの肩が動いた。

「うぬぼれないで。私はしたいことをしているだけよ」
「じゃあ何で魔法省なんかに就職したんだよ。らしくねえよ、お前!」
「別にシリウスは関係ないでしょう!」
「でも言ってたろ、魔法省なんて嫌だって。騎士団を辞めたら、好きなことをして暮らすって。……そう言ってたじゃねえか。どうしてだ、答えろよ」

 キングズリーは目の前の光景に目を疑う。
 キングズリーはてっきり、脱獄犯シリウス・ブラックはロージー・デュベリーを共謀者として認識しているものだと思っていた。しかしどうやら、――実際の事情は異なっていたらしい。

 今、シリウスはロージーの『仮面』をはぎ取ろうとしている。彼女に対してそんな芸当ができる人間に出会うのは初めてだった。キングズリーは素直に、シリウスへの興味が湧くのを感じた。
 ――その瞬間、キングズリーの手を、ロージーが掴む。

「!」

 小さな動きだった。シリウスが気が付かないほど自然に、ロージーは後ろ手でキングズリーの左手を捉えた。
 手の甲に爪が食い込む。彼女の手は微かに震えていた。

「――いい加減になさい、シリウス。それ以上の発言は、敵対行為と見なすわよ」

 ロージーがシリウスを睨みつけた。素顔を暴かれないように、本心を悟られないように、ロージーは必死になっていて、――キングズリーはふとある考えに至る。
 おそらく、彼女が仮面をかぶって『役人』に徹しようとしているのは、失敗を恐れているからだろう。この作戦において、彼女の失敗はシリウス・ブラックの死そのものに直結する。だからこそロージーはいつものように『役人』の皮をかぶり、確実に仕事を遂行しようとしているのだ。きっと過去にシリウスを止められず、彼の冤罪を防げなかった深い後悔が、彼女をそうさせているのだろう。

『――俺は、お前に俺の騎士になれと言った覚えはないぞ、ロージー』

 キングズリーは先ほどのシリウスの言葉を思い出して、舌を巻く。どうやら彼は、既にロージーの行動の理由に気が付いているらしい。
 仕方がないので、キングズリーはロージーに助け舟を出すことにした。

「ロージー、時間がない。そろそろ持ち場に戻らなければ色々と面倒になるぞ。――気を強く持て。一時の感情に飲まれるな」

 ぽん、と背中を押して、彼女の耳元に囁く。琥珀色の瞳が揺れた。

「キングズリー」

 弱弱しい声だった。いつもであればらしくない、風邪でも引いているのかと笑い飛ばしてやるところだが、今回ばかりはそうもいかない。とはいえ、何と言ってやればいいのかわからなくて、キングズリーは口ごもる。

「わかっているだろうが、全ては君次第で……いや、君のような優秀な魔女には野暮な言葉だな」

 ごほんと咳払いをして、ちらりとシリウスを見やる。彼女の行動の意図を理解しているなら、どうか今は見逃してやってほしいと願って。
 シリウスは一瞬驚いたような表情を浮かべたのち、――深くため息を吐く。呆れたように、苦笑しながら、彼はやれやれと腕を広げる。

「随分と良い仲間ができたんだな、ロージー」
「――……」

 ロージーがきゅ、とローブの裾を掴むのが見えた。まるで幼子のような反応に、キングズリーは目を疑う。

「俺は、お前の恐怖が痛いくらいにわかる。お前の怯えが、困惑が、迷いが、全部理解できる」
「……あなたは、私がロージー・デュベリーだと確信があって?」
「あるさ。あんな闇の中から俺を見つけ出せるのは、後にも先にもロージー、お前だけだ」

 途端に、へなへな、とロージーが床に座り込んだ。肩が小刻みに揺れている。キングズリーは動けない。ロージーの元へ駆け寄ろうとしても、まるで魔法で制限されているように身体が動かせない。

 ロージーが笑う。さながら物語に出てくる悪役の魔女のように、彼女は高らかに笑った。

「――ねえシリウス。あなた、怖い?」

 目の端に浮かんだ涙を指で拭いながら、ロージーが囁いた。シリウスは肩をすくめて、緊張した面持ちのまま笑う。

「……怖い。すっげー怖い。何年ぶりだよ、マジで」
「ふふ。お覚悟なさい、そこな悪夢」
「悪夢じゃねえよ。シリウス・ブラックだよ、俺は」
「……」
「わかったよ。……構わない。一思いにやれよ、ロージー。これが悪夢ではないことを、お前自身の手で証明しろ」
「……言われなくても、そうするつもりよ」

 ここではて、とキングズリーは思う。どうやら先ほどシリウスが「知らないのか」と言った『何か』が目前で了承されたらしい。

 淑女は優雅な所作で立ち上がる。埃まみれで、煤だらけの古ぼけた部屋の中で。
 ――彼女の細腕が風を切るのを見ながら、キングズリーは思い出した。どこかで聞いた、魔法学校時代の彼女の『嘘のような野蛮な話』を。

 ロージーの手のひらがシリウスの頬を強かに打つ。シリウスの身体が吹き飛ばされる。
 ――目前の展開は、キングズリーの処理能力をはるかに超えていた。ロージーが本当に心から驚いたような表情で、キングズリーの方を振り向く。

「あれ、シリウスだわ。夢じゃなかった」

 なるほど。
 そこでようやくキングズリーは合点がいった。
 この現実が夢ではないことを確かめるために。この再会が夢であるならば、しかるべき現実に帰るために。彼女は魔法の痕跡を残さない、合理的で効率的な方法を取った。――そう、いわゆる『物理攻撃』である。
 通常、魔法使いは魔法を介さない攻撃を嫌う。相手との物理的距離を縮めるということは、魔法の射程距離内に入ることと同義であるからだ(ロージーの手札に物理攻撃があったのは、彼女の出自がマグルであることも大きいのだろう)。

 彼女から杖を取り上げても何故だか拭いきることが出来なかった不安の正体がようやく理解できて、キングズリーは肝を冷やす。

「それで……今ので、彼がシリウス・ブラックであるという確信は持てたのか?」

 キングズリーは壁際まで吹き飛ばされたシリウスをちらり見て、ロージーに尋ねる。

「ええ」

 ロージーは大真面目な顔で言った。

「私もびっくりしたのだけれど、12年間牢獄にいても、受け身の取り方って変わらないものなのね」
「……なるほどな」

 ――キングズリーは心の底からシリウスに同情した。

あったかもしれないいくつかのこと
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