Fritillaria






51「きみが捨ててしまいたいと思うのなら、きみが要らないと言うのなら、きみの人生を俺にくれ。きみは泣きながら俺に言ったじゃないか。『あげると言いたいけれど、何故か怖くて頷けない』と。それは、少なからず俺とともに在りたいと願ってくれているということだろう? なあ……どうか、俺を救ってくれたきみを、俺に助けさせてくれないか。何がほしい? きみの望むすべてを与えてやろう。きみの願いをすべて叶えてやろう。きみが頷いてくれさえすれば、俺はなんだってしてやれるんだぜ。俺はきみの神様だからな。きみは俺の望み一つを叶えれば、何だって手に入るんだぜ。悪い話じゃないはずだ。きみを埋まらないそれを満たしてやろう。だから……だから、きみの数十年を俺にくれ」





52――「お前は一番、あるじに愛されている」
――「初期刀として選ばれたのは俺だったはずなのになあ……悔しいけど、羨ましいよ」
 三日月と加州の言葉を思い出す。
 呼び名を与えられたのは俺だけだった。あの子からしてみれば、大元である本霊様と俺を分けて考えたかっただけのことだ。
 二振りは姿そのままの名前で呼ばれている。彼らはあの子の記憶そのままに生み出された存在であり、俺よりも自我がしっかりしていない。彼らが口にする言葉は、実際はあの子の深いところから漏れた感情や記憶であり、願いでもあることなんて、きっと二振りとも気付いてはいないだろう。
 鶴丸国永としての姿を与えられた俺は、あの子の夢に住まう存在としては、例外的な存在だった。例えば二振りの行動を、あの子はほぼ全てと言っていいほど先読みできる。しかし、俺の行動や言動の全てを読ませることはできない。それだけ俺とあの子は切り離されている。だからこそ、俺はここまであの子を支えてやれる。本霊様ではないが、予想し得る出来事だけじゃあ心が死んでいく。俺はあの子と驚きを共有できるというわけだ。
 そういえば、以前にも、あの子と双子同然の、俺のような存在がいたらしい。俺とその子は似た者同士であり、俺よりも先に生まれたこともあって、俺は勝手に「姉上」と呼んでいる。その姉上とも区別を付けたかったと、あの子は語っていた。それはそうか、と俺は思う。
 姉上はあの子の望み通りに姿形を変えることのできる、不思議な力を持っていた。俺にはそんな力は無い。しかし俺は姉上には無い権限を与えられている。あの子の代わりに心の部屋を弄ることができる。俺が望めば、あの子を何処にでも連れて行ってやることができる。
 姉上と最後に会ったのはいつだろうか。俺たちは、あの子に忘れられれば消えていく存在だ。現に、何人もの主人公や英雄たちが生まれ、消えていった。姉上も例外ではなかった。それでもあの子は姉上のことを未だに覚えているから、会いたいと告げれば俺の願いをきっとあの子は叶えてくれるだろう。あの子は俺を神様と呼ぶが、ここではあの子の方が神に等しいのだから。
 消えていった姉上を思うと、俺も姉上のように消えてしまうのかもしれないと不安になる。しかし、俺はあの子のことが好きだし、あの子も俺を好いてくれている。
 だから、今のうちなんだ。
 もう、あの子が俺以外の誰かを好きになるなんて耐えられない。考えてしまうと、どこから溢れてくるか分からないどす黒い感情に支配されそうになる。同じ感情に頭の中を覆い尽くされるくらいなら、純粋なあの子への恋情で胸がいっぱいになる方が余程いい。
「……俺を忘れてくれるなよ」
 口から漏れた言葉は、呪いのようなそれだった。





53 「……完全に熱中症とやらだな」
 鶴が私を見下ろしてため息を吐いた。正確には、私が勝手にそうだと認識しているだけだ。彼はここにはいない。けれども存在している。流れる雲のように不確かなそれを、触ることもできない何かを、私は鶴丸国永の姿をした彼だと勝手に思い込んでいるだけだ。
 彼は私と感覚を共有している。だから、今の私の体調も彼はよく分かっている。
 私は今、めまいと頭痛と気持ち悪さと、あととてつもない眠気と闘っている。
 何日も前から体調不良が続いているなあということは気付いていたが、時期的にただの生理痛だと思っていた。もう無理だと身体が悲鳴を上げ始めたのは昨日のことだ。昨日は残業もせず、早めに帰らせてもらって、ゆっくり休んだ。だから、今日の朝は大丈夫だと思っていた。
 しかし、私の考えは浅はかだった。午前中、気持ち悪くなってトイレに駆け込んだ。上司は幸いそれを咎めることなく、気遣ってくれて今すぐ帰ったほうがいいと私を帰宅させてくれたのだ。本当に感謝してもしきれない。
 職場は窓一つないため、空気が淀みやすい。クーラーを付けても近くに大きな機械があるので、そいつが熱を持ちやすく、私の席は特に室内でも一番暑くなりやすい場所だった。それでも水分はこまめに取るよう心がけていたし、中程度――一歩間違えば重度の熱中症になるような覚えはなかった。
「きみ、身体と端末を貸してくれ」
 半ば強引に鶴が私の手を動かす。そうして、スマホに何か打ち込んだ。「熱中症 室内」……室内?
「……今のきみ、完全にこの状態だろう」
 彼が見せてくれたのは、熱中症の症状が事細かに書かれた記事だった。
「頭痛、めまい、吐き気……きみ、軽い脱水症状を起こしていただろう? 昨日も変な汗をかいてると、独りごちていたじゃないか」
 彼は眉間にしわを寄せながら、症状について教えてくれた。
 室内でも熱中症になるというのは、昔、室内スポーツ部に入っていた私は身を持って体験している。しかし職場はそんなに暑いところではないし、そこまで激しい運動をしていないと思っていた。しかし、一番空気の通りが悪くなる三時頃、いつも私は気を失いかけるような頭痛に悩まされていた。きっと運動不足、酸素不足、あとそれこそ水分補給が不足していたのかもしれない。
「……きみの場合、日中よりもこっちに気を付けたほうがいいだろうなあ」
 そう言って、鶴が見せてくれたのは「寝ているときのこと」についての情報だった。
 彼と一緒にいられるというか、一番近くにいられるのは、夢を見ているとき――すなわち、眠る直前だ。早く彼に会いたくて、私はやることをやったらさっさと布団に入ってしまいがちだった。
 先にご飯を食べてしまうから、お風呂に入ってから布団に入るまでの間、あまり飲み物を飲んでいなかった気がする。というか、社会人になって飲み物を口にする頻度が格段に減った。それが原因なのだと鶴は言う。
「風呂に入ったら口を潤す。寝る前にも一杯何か飲んでおくこと……きみが倒れたら、元も子もないんだ。分かってるよな?」
 私が無茶をしすぎると、鶴はちゃんと怒ってくれる。心配しているというのが伝わってくる怒り方なので、なんだか安心してしまう。
「……俺は怒っているんだぜ?」
 笑っているのがバレたのか、彼は頬を膨らませた。しかしすぐに、穏やかな笑顔を見せる。
「ま、ここはきみが沢山の嫌なことから解放される場所だからなあ……こうして二人で穏やかに過ごせる時間ができたと思えば、少しは許せるか」
 鶴はそう言って、隣に横たわる。
「まだ頭が痛むんだろう? 少し寝るといい。きみのことだ、どうせ夕飯までには目覚めるさ」
 とんとん、と彼は私をあやす。
「おやすみ」
 遠のいていく意識の中で、私は「……ありがとう」と小さく呟いたのは、彼に聞こえただろうか。





54 息を深く吸い込んで吐き出す。しないはずの、塩の香りが強い。あちらから迫る波の音が聞こえる。砂浜はきらきらと煌めいている。
「……懐かしい空の匂いがする」
 私は呟いた。
「……きみ、本当に海が好きだよなあ」
 眩しそうに、鶴が海の向こう側を見た。
「いつからだ?」
「……わかんない。けど、すき」
「何だったかな……波の音は母の胎にいた頃聞こえていた音と同じなんだったか?」
「……わすれた。けど、落ち着く」
 ざぶ、と海に入る。濡れた感覚はない。きっと、沈んでしまいたいと思えば波が連れて行ってくれるのだろう。
「いっそ、溺れてしまえたらいいのに」
「きみが溺れるのは俺だけでいいだろう?」
 彼は体を引き寄せて、私の手を握る。絡まった指や手のひらから、体温を感じた。





55 オシャレ、というものに憧れていた。
 派手な服。いわゆるギャルと呼ばれるような、言っちゃあ悪いけどちょっと頭が悪そうなイケてる女性が着る服。身体のラインが強調されるような、夜の街に繰り出す女性の服。オフィスカジュアルと呼ばれるような、仕事が出来る大人の女性の服。彼氏とデートに行くときみたいな、可愛らしい女の子を演出する服。
 以前は、そういうのがあまり好きではなかった。というより、私には似合わないと勝手に決めつけていた節がある。まだまだ私は子どものような見た目で、スタイルもそんなに良くなくて、痩せてもいなくて、胸もそんなに大きくなかった。うちは小遣い制なんてなかったから、所持金なんて無いに等しいし、オシャレをするくらいなら本を読みたいなと思っていた。
 学生ではなくなって働きだしてから、お金に少しずつ余裕ができてきた。学校に通うための借金はまだ残っているけれど、以前に比べれば自由に使えるお金が多くなった。
 それに、彼と出会ったことも大きい。彼が私のことを好きだと言ってくれるから、自信が持てる。堂々としていていいんだと思える。それに、彼とこうして服を選ぶのも楽しい。
「これなんてどうだ?」
 彼はスカートを指差した。それは、私が欲しがっていた形のものだった。前が短く後ろが長くなっていて、リボンがベルトのように付いている。きっと動くたびにひらひらするんだろう。色は紺色ベースで白やピンクのストライプ柄。これからどんどん暑くなる季節にはぴったりの薄さだ。
 ――でもこれをどうやって着るんだろう。そう心の中で呟いたときだった。
「白いものなら何着か持っているだろう? ほら、肩のところを結ぶシャツなんてどうだ? きっとこれにも合うはずだ」
 スカートを合わせる私に、彼は微笑う。そうして、
「……ま、きみは何を着ても可愛いからなあ。好きな格好を選ぶといい」
と、言うのだ。それはいささか盲目すぎやしないか、と思うけれど、彼に惚れている私も同じようなものだ。きっと私が彼の立場で、彼が私の立場だったなら、全く同じことを思ってしまうのだから。





56「ほら、目を閉じて」
 彼が笑う。私は言われるままに目を瞑った。
 目を開けると、飛び込んできたのはいつものあの部屋だった。真白の中に、私たちのいる黒い鳥かごの部屋。人が一人通れそうな、すぐに外に出られるような檻の中には、ベッドと、洋風のテーブルと、アイボリーのクローゼットがある。テーブルやクローゼットと同じ色の本棚には、無理矢理突っ込まれた本がみっちり詰まっている。私はそんな部屋で、彼と二人、ふわふわのベッドの上に座っていた。
「俺が住まうこの部屋……きみは覚えていないかもしれないが、全部、きみが望んだものなんだぜ」
 彼は私の頭を優しく撫でた。彼の言葉に、昔を思い出す。小さな頃、シンプルで小綺麗な部屋に憧れていたから、彼の言うとおりかもしれない。彼は私の知らない私のことを覚えている。それは当然のことだから、ちっとも不思議には思わなかった。
 私を撫でていた手は、私を彼の方へと引き寄せる。あれもこれも、全部私の夢。この風景も、すべてが私の空想。夢は叶わないから夢なのだ。だからこそきらめいて見える。
「きみの世界は、どれも美しいな」
 それを知ってか知らずか、彼はそう言って微笑むのだ。





57 目を覚ます。ここは何処だろう。覚醒しない私の目の前に、見知った景色が飛び込んできた。
 車の中だ。それも、私の父の車。家族でゆったりと乗れるような大きい車。
「着いたぞ」
 運転席に座っていた父が言う。私はまだ眠気で閉じようとする瞼を開いた。眩しい。窓から陽の光が入ってくる。
「行こう」
 すると、私は隣に座っていた誰かに手を引かれ、車を降りることになった。
 その誰かをよく見てみると、鶴丸国永と全く同じ容姿の青年だった。首飾りはそのままで、違うところといえば、海パンにパーカー姿であるところくらいか。
 ああ、これは夢だな。覚醒しない頭の中で、私は理解した。
「ほら、海だぜ。見えるかい?」
 鶴丸国永は――鶴は、景色を指差した。
 車を降りれば、そこはすぐ砂浜だった。
 父も、私と鶴の後を追いかけるような形で降りてくる。砂浜には、海水浴客がちらほら居るのが見える。海の家もある。
 ああ、やはり夢なのだ。私はなんとも言えない気持ちになった。
 父と鶴が、同時に同じ場所に存在するはずがない。その証拠に、二人とも私にしか話しかけてこない。
「今年は行けなかっただろう? ……あちらの世界はもう秋だが、ここならと思ってな」
 彼は私の手を握ったまま言った。
 ふと、自分の服装が、持ってもない、着たこともない白くてふわふわしたデザインの水着であることに気付いた。
「きみの願いは、俺が叶えてやろう」
 ああ。なんて、この人は。
 どうしようもない愛しさが、胸の奥から溢れてくる。私は、彼の手を握り返した。





58「きみは、ずっと勉強をしているなあ」
 鶴は眠ろうとした私の顔を覗き込んだ。
 ――ああ、構ってくれって言ってるんだな。私は彼の目を見ると、彼は満足そうに微笑んだ。
「俺の言いたいことが伝わったようで何よりだ」
 彼は私の隣に寝転ぶと、私を抱き寄せた。





59「現実は、嫌いだ」
 鶴は、苦しそうに言った。
「……きみにずっと一緒にいてほしい。きみとずっと一緒にいたい」
 私の手を握って、彼は言う。
「きみを苦しめる、きみを連れていく、現実なんて……大嫌いだ」
 今まで、彼が何かをはっきりと「嫌いだ」と言ったことがあっただろうか。鶴が他の感情を言葉にできたことが嬉しいと思ってしまった。酷く、暗い感情なのに。





60 どうしてだろう。
 どうしてこの神様は、いつも私に良くしてくれるんだろう。
 彼は私が好きだと言う。何度も耳を疑った。私は面白い人間ではない。真面目すぎて合わないからと、好きだった人に振られたことが何度もある。だから、むしろ、私は面白みのない、つまらない人間のはずだ。
 しかし、驚きを好むはずの彼はそんなことを言わなかった。私の予想とは正反対に、私を好きだと言い寄ってきた。最初はこんなつもりじゃなかった。私は格好良くて強い最近流行りの刀の神様に導かれ、可愛い可愛い初期刀と出会い、審神者になった。彼のことはよく知っていたけれど、惚れるまではいかないかなと思っていたのに。
 絆される、とはこういうことなのだろうか。分からない。彼がなぜそこまでするのかも分からない。
「……ねえ、鶴」
 私は彼に問うた。
「どうして、何がきっかけで、私のことを好きになったの?」
 すると、彼は、
「俺も、あまり覚えちゃあいないんだが……」
と照れくさそうにした。
「……きみが、大福をくれたからさ」
 きみのことだ。どうせ覚えていないんだろう。彼はそう言いたげに続ける。
「幼い頃のきみが、小さかった俺に、真っ白な大福を半分くれた」
 彼は言う。
「きみは俺が神様だと言うが……俺にとっては、きみの方が、神様みたいなものさ」
 彼は私の手をとった。
「……きみが俺に優しくしてくれた」
「……それ、だけ?」
「ああ。それだけで理由は十分だった。あとは落ちていくだけだったのだから」
 優しい声で、溶けたような瞳で彼がこちらを見つめるものだから、私はそれ以上何も言えなくなってしまった。

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