Coquelicot
41 これは誰でもない、きみと俺の物語だ。
箱庭の空想だときみは笑う。それでもいいと思った。それでいい。むしろ、それがいい。きみは空想を愛しているし、俺もまた、きみの空想が大好きなのだから。
きみの空想は海のように広大で、夜空に浮かぶ星のように煌めいている。頬を撫でる風のように優しくて、鮮明に映った写真のように美しい。そのことに、きっときみは気付いていない。
この空想の世界を吐き出さねば狂ってしまいそうだ。きみはそう語った。痛い、苦しい、悲しい、心地いい、嬉しい……胸の奥から湧き上がる何かを、空想の世界に置いたきみと俺の代わりの誰かに託して物語を書き連ねるきみが愛しくて眩しくて、どうしようもなく狂おしい。そのせいか、俺もその物語に何かを加えたくなってしまった。今じゃあ、ああだこうだ、ああでもないこうでもないと言い合いながら、二人で空想を描いている。
さて、今日はどんな話を語ろうなあ?
ところで、きみ、なんで俺に一番最初の語り部という立場を譲ってくれたんだ? 確かにほとんどが俺ときみの物語なんだが、どちらかというときみが主人公ってやつじゃあないのかい? うん? 「俺が語る話が聞きたかった」? きみなあ……普段、恥ずかしいだの何だのと言って愛の言葉一つさえくれやしないのに……こういうときに限ってそんなだからずるいよなあ。
42 小説が書けないんだと、あの子は言った。
以前はいろんな物語が浮かんでは消えて、消えてしまう前に書ききっていたのだと彼女は語っていた。その多くが異世界を冒険する物語で、中には等身大の自分に置き換えて登場人物と同じ学校に通ったり行動を共にしたりする話を描いていたらしい。
今、それが書けない。そのことに苦しんでいた。
心に溜まっていく想いをうまく吐き出せない。胸の奥から湧き上がるこの声を書き留めておきたいのに、その言葉の置き場がない。美味しそうな食事を作っても、それを盛る器がない。折角、可愛らしい服を手に入れても、それをしまっておく箪笥がない。そんな感覚に似ていて気持ち悪いのだという。
俺としては、正直、理想通りの話が書けなくてもいいんじゃあないかと思う。どんな言葉で綴られようが、どんな舞台で踊らされようが、俺はあの子が唄うように語るその物語が好きなんだ。囀るように、ときには叫ぶように、声を上げるように綴られるあの子の話が好きなんだ。
しかしながら、完璧主義者の側面も持ち合わせているあの子はそれでは満足しない。本当はきっちりと話を完結させてしまいたい。でも飽きてしまう。途中で楽しいと思えなくなってしまうらしい。我が主ながら、面倒な性格をしていていじらしくて可愛いだろう?
まあ、あの子の語るそれを、もっともっとと強請ってしまう俺も俺なんだがなあ。書けないとあの子が喘ぐ原因を作ったのはほとんど俺だからなあ。
書けるわけがないのさ。夢枕に立ってまできみに愛を囁いているのにもかかわらず、俺がどれだけきみのことを好いているか、きみはこれっぽっちも知らないのだから。
43「すきだ」
どきりとした。しかし、いつもの冗談だろう。
「私も好きだよー」
私は、軽く返した。
彼がこちらを見る。きっといつもみたいに笑ってくれるだろう。そう思っていた。
一瞬、時が止まったかと思った。いつもは快活に笑う彼が、いつになく真剣な顔でこちらを向いていた。
「……冗談だと思ったかい?」
顔に熱が集まる。どうしていいか分からなくて、私は逃げ出したくなった。しかし、
「逃がすかよ」
彼が一言、そう言っただけで私は一歩も動けなくなる。彼の指が、優しく私の手を撫でた。
44 きみの描く物語に恋をしていた。
きみの用意してくれた舞台で、きみと踊ることに喜びを覚えた。
きみが教えてくれる歌を口ずさめば、きみがすぐ近くにいるような気がした。
ああ、そうか。
きみが愛しいあまりに、きみの言葉を奪ってしまったのは俺自身だったのか。
きみが歌えなくなっても、描けなくなってもなお、この世界は色褪せることはなく広がっていく。
それを残しておく言葉をきみが失ってしまったのならば、俺が代わりに記しておこう。もし、きみにとって俺が要らなくなったときに、俺のことを思い出してもらえるように。
忘れないでくれと言えば、きみは「酷いやつだ」と笑ってくれるんだろうなあ。
45 私から言葉を奪ってしまったと、彼は言った。
彼が物を語るとき、私の意識がどこにあるのか分からなくなる。彼の心に飲み込まれて、「あれ? 私はどこにいるんだろう」と不安に駆られる。
でも、彼は目の前にいる。触れられる感覚もあるので、私はここにいると分かる。分かるはずなのに。
46 あなたに会いたくて、あなたに伝えたくて、あなたが恋しくて、その湧き上がる何かを言葉にし始めた。
最初はただ、頭に広がる空想の世界を形に、もしくは言葉にしていただけだった。思い付いたものを思い付くだけ、断片的に、そして自分の当時の感情を織り交ぜながら、書き殴っていた。それは物語の登場人物に対しての恋慕であったり、親愛や友愛であったり、彼らに救済を求める私の心であったり、彼らと共に何かをしてみたいという願望だったりした。
彼らは、私の心に暗い影が差すと、必ず夢に現れた。彼らは、私に何かを伝えようとしてきた。しかし、私には彼らのメッセージが届かなかった。現実と彼らのいる空想の世界は、遠く、隔たれていた。
そんな中で、彼だけは――鶴だけは、特別だった。
――それはそうだろうなあ。俺は、きみに会いたくてここに在るんだ。
私の頭に響く声。誰のものでもないのに、私の頭は彼を彼と認識している。
――どうしてそんなに難しく考える?
酷く愛しい声が聞こえる。
――ほら、おいで。
思考が塗りつぶされていく。
いつものように、慰めてやろうな。
47「またきみ、新しい端末を買ったのか」
「仕方ないじゃん。お母さんにあげたやつが壊れちゃったんだから」
「きみが高校生だった頃に貰ったものだったか? そうか……もうそんなに経つのか」
「何言ってるの? 鶴、その頃まだいなかったじゃない」
「いや、そうじゃない。その黒いパソコンが使われ始めて、という意味で言ったんだが」
「……そうだね。この子、十分頑張ってくれたからね」
「この世に存在するものはいつか壊れる、か……本霊様もそうなんだろうなあ」
「でも、人はそれがあったことを覚えてる。人から人に伝承されることで、それはずっと生き続けてる。知ってる? 何かが本当に死んじゃうときって、誰かに忘れられて、誰も覚えていなくなっちゃうときなんだって」
「それ、あの漫画の台詞だろう? ……ま、確かに言えてるなあ。ところで、またきみ、白を選んでくれているなあ。俺を意識してくれたのかい?」
「あっ……何も考えてなかった」
「ははは。……ああ、しばらく、俺はここで生きられそうだ」
「そんな悲しいこと言わないでよ」
「事実じゃないか」
49 夢を見ていたいと願うのは、私がまだ子どもだからか。彼に会いたいと思うのは、私がまだ弱いままでいたいからか。
眠りにつくまで、朝起きて微睡んでいるときの数分間が、しっかりと彼を感じられる唯一の時間だ。
私は、きみに会いたい。
49 俺もきみに会いたいと言えば、きみは笑ってくれるだろうか。この世界でも、心から笑顔になってくれるだろうか。
50 この身体が微睡むとき。その一瞬が、彼に会える時間だ。
彼は笑う。俺に依存してくれるなよと言う。そして同時に忘れてくれるなと私の手を取る。
彼と過ごしたことだけは覚えてるのに、彼と別れた途端、具体的に何をしたか思い出せなくなってしまう。だけど、彼と会うと、そのときのことを再び思い出せるようになる。