夜中に、ふと目が覚めた。
そこまでなら別に大したことはないんだけど、二度寝をしようと思ってもなかなか寝付くことができなくて、少し不思議に思う。不眠症になった覚えはないんだけどなぁ。
それでも何とか眠りにつこうと、しばらく布団の中で寝相を変えたり羊を数えたりしていたけれど、うつぶせのままで数えた羊が100匹を超えたところでとうとう息苦しくなって起き上がった。これは眠れなくなるパターンだ。
「一回気分転換にお散歩しよう」
一人きりの部屋の中で自分に言い聞かせるようにした声は思ったよりも反響するけど、別に怖くはない。それよりも明日の実習が任務だった時に寝不足のままで挑む方が怖い。
大人はいいよなぁ、こういう時お酒があって。硝子ちゃんなんかは「酒飲んでも眠くなんないぞ」って言うけど、それは硝子ちゃんがザルだからだし。
そんなことを考えながらぺたぺたとあてどなく廊下を歩いていたら、不意に曲がり角で何かとぶつかった。
「わぶっ」
「わっ、ごめんなさ……って、凍宮さん……?」
「あれ?乙骨くん?」
どうやらぶつかったのはものじゃなくて乙骨くんだったらしい。
「こんな真夜中に出歩いて、どうしたの?」
他の同期だったらブーメランだぞと言ってくるような問いかけに、彼は気まずそうに目をそらした。
「その、眠れなくて……」
「あれま」
どうやら似た者同士だったらしい。
……あ、いいこと考えた。
「なんか羽織るものとか持ってキッチンおいでよ。一緒にホットミルクのもう」
「これが一年の共用の冷蔵庫。他のやつは先輩たちのだからうっかり開けたりしないようにね。……って、ここら辺はさすがにもう聞いてるかな」
「歓迎会の次の日に、確かパンダくんが」
「そっかそっか」
ちなみに使ってる?と聞くと黙っておずおずと首を横にふる乙骨くん。共用キッチンの片隅で見る乙骨くんは照明のせいなのか、なんだか肌が青白く見えた。目の下で逆さまの三日月を作っている隈もいつもより濃く見えて、ちょっとだけ眉をひそめる。
けど、私の表情を敏感に察した乙骨くんが申し訳なさを顔いっぱいに浮かべて片足を後ろに引いたものだから、すぐににっこりと笑ってみせた。
「あの、僕──」
「牛乳とかはねぇ、みんな好きに飲むから共有なの。他にもプリンとかバラエティパックのアイスとかもみんなで買ってて、基本的に名前書いてなかったら好きに食べていいやつだよ」
やっぱり悪いから戻るよ、とでもいおうとしたのだろうか。
気付いていないふり、聞こえていないふりをして明るい声を意識して出してさえぎったから、答え合わせはきっとできない。するつもりもない。
「そういうやつは月のはじめにみんなでお金だしてるから、来月になったら乙骨くんからも回収するね。乙骨くんマグカップってこっちにおいてる?」
「自分の部屋にはあるけど……」
「じゃあ私は真希ちゃんの使うから、乙骨くんは私の使っていいよ。でも食器も自炊する時用に何個かおいておきなね。ここの棚は一年用のスペース」
「わ、パンダ柄の食器がいっぱい」
「パンダくんが自己愛つよつよだからねぇ。あっ、そこカウンター席になってるから座って座って」
牛乳を取り出したマグカップに注ぎながら言えば、乙骨くんはもう帰ろうとせずに黙ってカウンターキッチンの向こう側に回った。
レンジに二つのマグカップをいれてボタンを押して、ぼんやりとしたオレンジ色の光があたためはじめたのを確認してから、自分用の調味料とかをいれている棚をあける。そんなに時間をかけずに見つかったそれを、振り返りざまに乙骨くんに見せびらかした。
「じゃーん、はちみつ。しかもちょっとお高めのやつ。これをホットミルクにいれます」
「えっ、いいの?」
「いーのいーの。今日はそうだなぁ、乙骨くんと初めてのパジャマパーティーをした記念で」
「?」
「小さい頃にそうやってよくいれてもらってたんだ〜」
遅くまで起きていて偉い記念とか、同じ時間に目が覚めた記念とか。
そんな些細でしょうもない理由をつけて、毎回はちみつをいれてくれていた。
今となっては懐かしい、在りし日の記憶。
牛乳が温まるまでまだもう少しあるな、なんて思っていたところで、遠慮がちに名前をよばれた。
「あの、これ」
続けて差し出されたのはギフト用のリボンが右上のはられている小さな紙袋だ。
「私に?あけていい?」
頷いたのを見てから遠慮なく封を開けて中をのぞけば、シンプルな青色のハンカチが入っていた。思い出すのは、この前の運動場での出来事。
「さすがに他人の血がついたやつはあれかなって思って、新しいの買ってきたんだけど……」
「真面目だねぇ、ありがと」
きっとさっき上着を取りに部屋に戻ったときに取ってきてくれたのだろう。断る理由もないのでありがたくもらえば、タイミングよくレンジから明るい音がした。
取り出した牛乳にはちみつをいれて、こぼれないように注意しながらまぜて。そうして差し出したマグカップを、乙骨くんは丁寧に持った。
一口飲んでからこっちを見る表情は、少しだけ柔らかい。
「おいしい」
「ほんと?よかった〜」
私にとって飲み慣れた味が乙骨くんの口に合ったのならよかった。真希ちゃんのマグカップをもって彼の隣に移動して、しばらく二人で無言でホットミルクを飲んでいた。
特に不快に思わない深夜の沈黙をおずおずと裂いたのは、乙骨くんの方だった。控えめに名前を呼ばれて横を向く。
「変なこときいてもいい?」
「いいよ〜、聞かれてダメなことは答えないし」
だから好きに質問していいよと言えば眉を下げて感謝されるのが、なんだかむずがゆい。ごまかすようにまた一口ホットミルクを飲んだ私に、乙骨くんが聞いた。
「凍宮さんは、どうして呪術高専に入ったの?その……家系とか?」
……なるほど、そういう系か。
「家系もあるといえばあるんだけど、私はどちらかというとお兄ちゃんの遺志を継ごうと思ったのが大きいかなぁ」
「お兄ちゃん?」
「そう。お兄ちゃんがね、いたの。悟くんとか硝子ちゃんと同期で」
「いた、ってことは……」
言葉の端々をきちんと聞いていたらしい乙骨くんが拾ったその部分に、正解の意味をこめて一つだけうなずいた。
「死んだんだ、10年くらい前に。私をかばって」
よくある話だ。妹を守って兄が犠牲になる、どこにでもあるような美談。
それが、私とお兄ちゃんの身にも起きた。
たったそれだけのこと。
「とっても優秀だったの。まあそりゃあ、悟くんとか……悟くんほどのチートじゃなかったけど。でも、生きていたら特級にはなってたかな」
「…………」
「生きていたらたくさんの人を救っていたはずのお兄ちゃんは、私をかばって死んだ。だから、呪術師になってお兄ちゃんが守れたはずの人を代わりに助けたいなって。お兄ちゃんほど優秀じゃないんだけどね」
「そっか。僕はお兄さんのことを知らないけど、自慢の人だったんだね」
「うん。今でも私の自慢のお兄ちゃんよ」
「そっか。……すごいね、凍宮さんは」
変に慰めたりしないでくれているのが、かえってありがたかった。そういう気遣いができるは多分、乙骨くんも大事な人をなくしたことがあるからだ。
彼の場合は、その大事な人は怨霊になってしまったけれども。
「乙骨くん、私も聞いていい?」
「うん?」
「そういうのを人に聞くってことは、呪術師になんかもにゃってるの?他のことやりたくなった?」
やや直球が過ぎたかなとも思ったけれど、乙骨くんは首を横に振ってこたえてくれた。
「他のことも何も、もともと里香ちゃんの呪いを解いたら、僕はただの一般人になるし……」
「そっか、そういえばそうだね」
この同級生は呪術師になるためではなく、呪いを解くために呪術高専に通ってるんだった。じゃあどうしてあんなことを聞いたんだろう。
目線を空になったマグカップに落とした乙骨くんが、ぽつりと呟いた。
「凍宮さんみたいなちゃんとした理由がない僕がここにいていいのかな、とか。……里香ちゃんを解呪していいのかな、とか。ちょっと迷っちゃって」
「解呪したくないの?呪いになった彼女のことを離したくなくなっちゃった?」
もし本当に乙骨くんがそれを望むなら、悟くんがなんとかしてくれるだろう。彼女が特級過呪怨霊だということを差し引いても、悟くんにはなんとかするだけの力がある。
私の問いにさっきよりもゆっくりと首を振った乙骨くんは、何かぴったりな言葉を探しているようだった。
宙をみて、後ろをみて、今は顕現していない彼女を見て。
「もし、僕のせいで呪いになったんだとしたら。……自分のせいで里香ちゃんを呪いにした僕が、今度は僕の都合で二度目の死を味わわせてしまうことになる」
絞り出すような声で、彼は囁いた。
「それが、たまらなく怖いんだ」
だから、解呪していいのかを迷っていて、呪術高専にいていいのかすら迷って、それで眠れなくなってしまった。
なるほど、そういうことだったのか。
「乙骨くんはやっぱり真面目さんだねぇ」
私の言葉にこちらを向いた乙骨くんの瞳は揺れていたけれど、最初に台所で顔色を見た時に覚えた不安はどこかにいっていた。
だって、そうでしょう。
眠れなくなるほど迷って、それでも高専に残っていることが何よりの答えなのに。
「死んでしまった人は、生きた人の心の中でしか生きていけない」
それでも怖いなら、誰かが背中を押すことが必要なのであれば、私が言葉を送ろう。
お兄ちゃんなら、きっとそうしたはずだから。
「今からひどいことを言うけどね、呪いになった時点で負の感情にとらわれてしまっているの。呪いってそういうものだから」
そこから呪いを解放するには、綺麗な思い出にしてあげるには、解呪するしか方法はない。
「呪霊として負の感情になってしまった里香ちゃんを祓って、幸せな思い出の中で生かすことができるのは、乙骨くんだけだよ」
「僕だけ……」
「素敵な愛だね」
素直に漏れ出た『愛』という単語に、乙骨くんは何か思うところがあるようだった。少しだけ眉を寄せた彼に事情をきけば、ばつの悪そうな顔で理由を教えてくれる。
「五条先生が前に、『愛ほど歪んだ呪いはない』って」
「あ〜言いそう、悟くんそこらへん結構ナイーブだから」
あの人は多分、強すぎるが故にそういう感情の機微が多少不完全でも生きてしまえるのだ。少しだけ欠けて、少しだけ歪んだ、彼にとってきっと大切だった記憶。大事に彼の奥底にしまってあるそれは、きっと今の彼の原点であり、軸だ。その価値観を否定することは誰にもできない。
ただ、それを乙骨くんがそのまま丸ごと自分の軸にする必要だってないのだ。
「悟くんの言葉も間違ってはいないと思うよ。単に愛を悲観的に見すぎているだけ」
「悲観的に、見すぎているだけ」
「そう。だって私はお兄ちゃんの愛によって今も生きてるし、乙骨くんの愛はきっと解呪したあとの里香ちゃんを思い出の中で生かすよ。違う?」
「あ……」
ね、乙骨くん。
乙骨くんが里香ちゃんを愛していなければ、そもそも呪いにならなかったかもしれないけど。
そうやって呪いになった里香ちゃんを解放しようとも思わなかったと思うよ。
「素敵で、でもしんどくて、それでも捨てられないその感情のことを。きっと昔の人は『愛』って名付けたのよ」
「ありがとう、凍宮さん」
「いいえ、こちらこそ」
こちらこそ?と首を傾げた乙骨くんとは別れて、自分の部屋に戻った。
すっかり冷えた布団の中に潜り込んで、目をつむる。
羊を数える必要もなく訪れた睡魔に身を委ねる前、真っ暗な瞼の裏に浮かんだのは私の背がまだ今の半分もなかった時のことだった。
『眠れないの?おいで、ホットミルク作ってあげる』
『おにいちゃん、でもやっぱり……』
『お兄ちゃんに遠慮しないの、ほら』
『……うん』
ありがとう、乙骨くん。
あの頃のお兄ちゃんみたいなことをさせてくれて、ありがとう。