「千冬さ、反転術式の方に専念しようと思わないの?」
帰る準備をしていた手を思わず止めて硝子ちゃんの方を向けば、頬杖をついてる彼女と視線が合った。ぱちぱちと何度か瞬きをした私とは対照的に硝子ちゃんはじっとこちらを見てくる。
「もしかして私何かやらかした?」
今日は硝子ちゃんの元に運び込まれた人の治療を一緒にやっていたけど、特にミスとかした記憶はない。知らないうちに失敗してフォローをさせていたのかなと思ったけど、それを打ち消すように反転術式の師匠は首を横に振った。
「いや?悪くなかったよ。もう少し練習したら他人の大きい傷も治せるようになるんじゃないかな」
「ほんと?やった〜」
過小評価も過大評価もしない硝子ちゃんからのこの言葉は、素直にうれしい。両手をあげて喜んだ私に少しだけ目を細めた硝子ちゃんはコーヒーを一口飲んで、そのまま手元のタブレットに視線を落とした。
……ってちょっとちょっと。
「硝子ちゃん硝子ちゃん」
「うん?」
「失敗したわけじゃないならなんでさっきみたいなことを言ったの?」
「あぁ、その話続ける?急いでいるかと思って」
「さすがに気になるもん」
硝子ちゃんのこの言い方からするとそこまで深刻な話じゃなさそうだけど、単純に気になる。
「今日は棘くんご指名の任務しかないって悟くんが言ってたから、別に私が時間に間に合わなくても大丈夫だし」
「それ」
「え、なに?どれ?遅刻してもいいやって態度?」
「や、任務の方。戦闘の方に割いてる時間をこっちに当てたらもっと早く上達するのにって話」
「あ〜なるほど」
そういう話か。硝子ちゃんが学生の頃は戦闘系の任務は行かずに(近場へ行く同期の同伴とかはしていたけど)、ひたすら反転術式の精度を高めていたらしいと聞いている。私は小さい頃よく兄に高専に預けられていたけど、確かに硝子ちゃんのことはほぼ毎回校内で見かけていた。
「やっぱ師匠的には反転術式に専念した方がいいと思う?」
「というか千冬が早く一人でも治療できるように成長すれば、私も早く楽になれる」
「それはそうかも……?」
他人に反転術式を施せるのは、この時代において硝子ちゃんと私しかいないらしい。私は他人に対しては簡単な治療しかできないから、同期以外への治療の時は一人でやるのを禁止されている。(ちなみに蛇足だが、同期への単独治療の許可が硝子ちゃんと治療対象の真希ちゃん達自身から下りたのは、丁度乙骨くんが入ってきた前日だった)
そんなわけで今呪術師の治療を一手に引き受けている硝子ちゃんからすれば、私が一人でも治療できるようになることは結構な負担の軽減につながるのだ。
「そもそも君は戦闘よりもこっちの方が向いているし」
「……そう、かな」
「少なくとも私はそう思うけどね」
硝子ちゃんがそういうならきっとそうなのだろう。硝子ちゃんは私に対して、いつだって過小評価も過大評価もしないから。その上で、私の言うことを尊重してくれる。
多分それは先生と生徒という関係だからではなくて、小さい頃からよく面倒を見てくれていたからだと思う。
高専に私を預ける際に、お兄ちゃんが私にはじめて引き合わせた同期は硝子ちゃんだった。
『この子が?』
『そう。千冬、このお姉さんは家入硝子って言って、お兄ちゃんの同期だよ。お兄ちゃんがいない間の千冬のことを頼んでいるから、言うことをよく聞くように』
『どうも、雪那からよく聞いてるよ。よろしく、千冬』
彼女はずっと昔から、私の前では決して煙草を吸わない。
お兄ちゃんが硝子ちゃんにそう頼んでいたのを、私は知っている。
悟くんよりも傑くんよりも先に、お兄ちゃんに私のことを頼まれていた硝子ちゃんは、今もなおお兄ちゃんとの約束を守ってくれている。
「確かにお兄ちゃんに比べればしょぼしょぼだけど、一応戦闘もできなくはないから。もうちょっと戦闘訓練も任務も続けるよ」
「そう。まあ千冬がそうしたいならいいんじゃない」
目元にくっきりと激務によるクマをつけている硝子ちゃんは、それでも私のワガママをあっさりと肯定した。
「お〜やってるやってる」
グラウンドに向かえば、丁度真希ちゃんと乙骨くんがドンパチやりあっているところだった。ふた月前にパンダくん受け身塾を卒業し、ひと月前に私からクリップを取れるようになった乙骨くんは、そこからひたすら真希ちゃんとの手合わせをしている。受け身の取り方すら知らなかった三か月前と比べれば、成長が本当に目ざましい。今組手をしたら正直勝てる自信がないなぁ。
「憂太ァ!!!ちょっと来い!!」
真希ちゃんと乙骨君の立ち合いを棘くんと悟くんと一緒に見守っていたはずのパンダくんが、なぜか突然乙骨くんを呼び寄せて何かを聞いていた。なんだろうと思いつつ近寄って聞こえてきた話題に、思わず半目になる。パンタくん、そういう話好きだよなぁ……。あ、パンダくんの話が真希ちゃんに飛び火した。
「すじこ」
「おつ〜」
「千冬、今日は別にあっちで一日やっててもいいよって言わなかったっけ?」
「うん、でも丁度久々に射撃訓練したかったから。なんか面白いことやってるかなぁってグラウンドに寄ってみた」
面白いことは現在進行形で起きているわけだけども。小学生、それも高学年のクラスでよくありそうなドタバタを真希ちゃんと繰り広げているパンタくんが、こっちを見てピタリと止まった。その隙に乙骨くんが棘くんの方に避難してくる。
「あ、パンダくん後ろ」
真希ちゃんの武具が迫っているよ、と私が言い切る前にギリギリで真希ちゃんの攻撃をかわしたパンダくん。私の全身にさっと目を走らせてから、不意にその視線がやけに優しいものになった。
「大丈夫だ、千冬。いつだって未来は無限大の可能性に満ち溢れているからな」
「先生!狙撃練習中にうっかりパンダくんが的の横にいて、うっかり弾丸がパンダくんにあたって氷漬けになっちゃったとしても、それは単なる事故だよね?」
「うーん、千冬の腕を考えると難しい所だねぇ」
「ちゃんとその後炎であっためてあげても?」
「うちの女子二人は照れ方がちょっとバイオレンスだねぇ」
将来が心配だわ、なんてふざけた口調でいいながら悟くんは私の背負っていた銃を取り上げた。あっ、真希ちゃんの援護をしようと思ったのに。どうやら時間切れらしい。
「はーい集合」
「でもちょっと男の子っぽくなったよね」
「はぁ?誰が?」
「乙骨くんが」
任務を割り振られた棘くんと一緒にグラウンドを後にする乙骨くんの背中を見てそんなことを言えば、真希ちゃんは眉をひそめた。
「まだまだヒョロヒョロのもやしだろ」
「そりゃ腹筋バッキバキの真希ちゃんに比べたらね……」
ていうか真希ちゃん基準にしたら大体の人類はもやしになってしまう。わたしなんか下手したらもやしの半分以下だ。
まあ、それはおいておくにしても。
「ランニングでバテ始めるのも少しずつ遅くなってきたし、なんか筋肉も少しずつついてる気がするし」
「性格も前向きになってるしな」
真希ちゃんの制裁でややボロボロになっているパンダくんも口をはさんできた。悟くんが言っていたらしいその言葉に、うなずく。真希ちゃんは眉をひそめたままだったけれど、特に何も言わないということは乙骨君の身体的な成長は感じているのだろう。彼の訓練に一番付き合っているのは真希ちゃんだから、当然といえば当然なんだろうけど。
「なんか、きちんと進んでるなぁ……」
「まるで自分が進んでないみたいな言い方するじゃん」
「あの成長速度を間近で見てればそういう気持ちにもなるでしょ」
フィジカル面でもそうだけど、悟くんが言っていたように彼はメンタル面も急激に成長しているような気がする。成長というか、回復というか。
不安定な形で固まっていた心が急激に動き始めて、今まで吸収できていなかった世界をすごい勢いで学んで安定したものに変わろうとしているような、そんな感覚。
二か月とちょっと前に一緒にホットミルクを飲んだあの夜以降、私は乙骨くんが夜に出歩いているのを見かけていない。
彼は今ものすごい速度で成長していっている。
じゃあ、私は?
「……おい、千冬」
「うん?」
「ぼーっとしてたぞ、大丈夫か」
目の前で猫だましをされて、ぱちくりと瞬きをした。どうやら色々と考え込んでしまっていたらしい。
顔をのぞき込んでくる二人に大丈夫だと伝えれば、真希ちゃんとパンダくんは顔を見合わせた。一瞬のアイコンタクトの後に私をまた見てきた真希ちゃんが顎でグラウンドを指し示す。
「久々にやるか」
「えぇ……お手柔らかにね」
「無理。成長を実感できるくらいには鍛えてやるよ」
ほら、構えな。
不適に笑う真希ちゃんに、筋肉痛になることを観念して立ち上がった。