指定された倉庫へ向かった私は、まず土井先生に出迎えられた事に驚いていた。聞いていた話と違うような気がし、しかしそれを判断するには材料が足りなさすぎたため、何も言わずに戸を閉める。
「来たか、レイコ」
真顔の土井先生を前に、私は頷く。これからデスゲームでも始まりそうな雰囲気である。
午後の授業が突如変更になり、昼休み返上で準備していた時の忙殺と激怒の表情が嘘みたいに静かな先生には、随分と忍術学園の体制に染まってきたな…という感想を抱いた。それは私も同じ事だったけれど、正直慣れたくはなかった。これから始まることが心底怠いな、という気持ちを隠しもせずに腰に手を当て、土井先生の指示を受ける。
「主旨は聞いているな?」
「はい。学園長の突然の思いつきで、知恵を使わないと出られない部屋に閉じ込められるという…」
午前の終わりに、それはいきなりやってきた。学園長が全校生徒を集めたかと思うと、これよりホニャララしないと出られない部屋に生徒全員を閉じ込めると言い出したのだ。
学園長、変な同人誌でも読んだのかなぁ…と思いながら聞いていた私は、どんな部屋に閉じ込められるのかは生徒によってバラバラで、二人一組でミッションをクリアし、早く抜け出した者から順位に応じて褒美がもらえるという内容に、ガチで怠いと思わざるを得なかった。学園長はあれでいて案外生徒の本質を見ている時があるため、きっと達成しにくいお題と相手を選んでくると思ったからだ。
コンビの組み合わせも学園長が決めたと言っていたが、私の相手は誰なのだろう。考えている間に何故か土井先生は鍵を閉めてしまい、机に置いてある紙を顎で指した。
「そこにお題がある」
裏返してあった紙を捲り、私はすぐに中を見た。知恵を使うとは一体どういう事なのだろう…と考えて不安になったりしたものだが、そこに書かれていた文字を見て、私は今まで考え込んでいた時間の全てが無駄だったと思わされるのだった。
口吸いしないと出られない部屋。
何度読んでも、そう書いてある。
口吸いしないと出られない部屋。
何度読んでも、セックスじゃないんだ、という感想しか出てこない。
口吸いしないと出られない部屋。
いや、知恵は?
「…これって二人一組で知恵を絞って脱出を目指すんですよね?」
ようやく現実に戻ってこられた私は、土井先生の目をじっと見つめ、真剣な表情で尋ねた。これがガチだとしたら、学園長は本当に変な同人誌を読んだとしか思えなかった。読んだとてするな。そしてそれを承知した先生も先生だと、激しく問いただしたいところである。
「私、土井先生とペアなんですか?」
「ああ…お前が一人余ったから。審査も私がするけど」
余るんだ私。くの一教室奇数だからな。
土井先生があまりにあっさりとそう言ったため、先生的には別に問題ないお題なのか…と衝撃を受けつつも、これが忍者の学校だというのなら受け入れるしかあるまい。無駄に覚悟がガンギマリの私は、全く気乗りしないけど、まぁやるか…と重い腰を上げた。ある意味簡単なので最速で出られる気配もしていた。
「じゃあ…しましょうか?」
何度読んでもイカレた事しか書いていない紙を、土井先生に見せた。
先生は一瞬キョトンと首を傾げたあと、すぐに目を見開き、超高速三度見を決めた。私から奪った紙を握りしめる勢いで持ち、怒りと比例して震え出す。
「だ、誰だこんなものを入れたのは!」
「先生じゃないの?」
「入れるか!」
その反応を見て、一瞬でも土井先生がこのイカレたお題に同意したのだと思った自分を恥じた。どう考えてもそんなわけはないからだ。
先生、お題が何なのか知らなかったのか。そりゃそうだろな。だって明らかにおかしいもんな。同人誌すぎるもんな。
先生のまともな感性に安堵した私は、早速のトラブル発生に、忍術学園らしさを感じて呆れ果てている。
何やねん口吸いしないと出られない部屋って。どこに知恵を使うんだよ。ただの忍耐だろ。よしなが大奥みたいに、抱き合え、と言われる状況に備えての試練か?とか一瞬でも考えた自分がアホらしいわ。
唸る先生は紙をとうとう握りしめると、それを床に叩きつけて、自身の持っている小冊子を開き始めた。何だか一人でテンパっていた。そろそろ胃薬を飲み始めた方がいいんじゃないか?
「きっと誰かの悪戯だろう…いま資料を見るから少し待て」
はあ、と適当に返事をし、一緒に資料を覗き込むと、先生は心底うんざりした顔で該当部分を指差した。
「あった…」
あるんかい。公式なのかよ。学園長どんな同人誌読んだんだ?犬猿カップルを強制的にくっつける系か?私はイチャラブ甘々系の方が好きだけどな。
性癖の話はどうでもいい。先生が見せてくれた資料を読み込み、確かにはっきりと記載してある走り書きに目を細めた。
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口吸いしないと出られない部屋。
くの一教室上級生用。
判断速度。
実力行使良し。
スピード感命。
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「じゃあ早くしましょうよ」
「それじゃ知恵を使った事にならんだろうが!」
判断速度だけ重視した私の発言に、土井先生は容赦なく鉄槌を下した。そりゃそうだ、と殴られた頭をさすって苦笑する。
本当にこんな事をやらせるつもりなのか学園長は。泥酔中に考えたとしか思えないな。それとも何か抜け道があるのか?トンチをきかせればいいのかも。まぁ私は一休さんでも何でもないので一切思いつかないんだけども。
土井先生はどうするつもりなんだろう。まさか生徒とキスするわけにもいかないでしょうから、きっとどうにかしてくれるに違いない。
先生の判断を待っていれば、しばらく考え込んだのち、一つの決断を下した。突然の思いつきを放棄するという選択はないようだった。
「よし、こうしよう。私を説得できたら合格とする」
「説得?」
その言葉の意味を考えて、熟慮し切る前に口を開いた。
「先生を淫らな気分にさせるって事ですか?」
殴られた。資料の角で殴られた。
「真面目に考えなさい」
「真面目に考えたのに…」
理不尽な暴力に泣き真似をして蹲った。実際本当に理不尽である。だってそうじゃん。そうじゃないなら何なのか聞きたいくらいだよ。
立ち上がった私は顎に手を当て、先生を説得して脱出するという難易度高めな課題に、これならまだ口吸いした方がマシだと思わざるを得ない。
実際しない代わりに、私とキスしてでもここから出たいと先生に思わせるような事態にしなくちゃならないって事だろ?難しすぎだろ。その辺の忍たま共ならまだしも、土井先生にそう思わせるなんて余程の事でもない限り不可能である。しかも淫らな気分にさせるわけでもなく。実力行使も効かず。スピード感もすでに遅し。はっきり言って詰みって感じだが、それでも一応トライした。
「ていうか先生、こんなところで油売ってていいんですか?」
「何が?」
「これ全員参加ですよね?一年は組を見張ってなくていいの?」
素直な気持ちで尋ねると、胃の痛そうな顔を向けられた。この倉庫は静かだけど、他では地獄絵図が始まっているに違いない。きり丸は金を払わないと出られない部屋にぶち込まれ、しんべヱは目の前の饅頭を食べずに我慢しないと出られない部屋に閉じ込められている可能性などがあるわけだ。ペアになった忍たまが心の底から可哀想である。こっちがそれよりマシかと言われると微妙なところではあるが。
何をするかわからない一年は組を放置していていいのか、と念を送れば、先生は心を鬼にし、もはや何も考えたくないと言わんばかりの表情で首を横に振った。
「だからってお前とそんな事をする理由にはならないだろう」
なるだろ。こうしてる間にも何が起きてるかわからないぞ。
この程度じゃ駄目か、と舌打ちし、段々と面倒になってきたので、やっぱり淫ら方向に持っていこうと作戦を変更する。とにかく言いくるめてしまえばいいのだ。土井先生は優しいから、しおらしくしていれば折れてくれる可能性もある。
私は子犬のように目を潤ませて、ちょっと悲しげに視線を注いだ。
「…先生は私とするの嫌なんですか?」
「嫌というか…それ以前の問題だろ」
はっきり嫌だとは言えない先生の立場を利用しようとしたが、逆に問われてしまう。
「大体、お前は嫌じゃないのか?」
「そりゃ嫌ですよ」
殴られた。何でだよ。嫌に決まってるだろ。
なんでこの私がお前みたいな暴力教師とキスするのもやぶさかではないと思えるんだ?なんて言えるはずもなく、黙って殴られた頭をさする。
普通に嫌だろ。顔だけ見ればアリかもしれないが、土井先生なんて本当の意味で不潔だし、何より先生とこんな事をして部屋から出たなんて思われた日には、私の順風満帆な学園生活は終了である。
そこまで考えた時、ハッとした。
「そもそもの話…この部屋に閉じ込められた時点で、私と先生の社会的地位は終わりなんじゃないですか?」
「え?」
神妙な顔で切り出した私に、先生は殴る準備をしていた手を下ろして首を傾げた。
ここは口吸いしないと出られない部屋…つまり出たという事は口吸いしたという事になってしまう。目撃者は誰もいない、私と土井先生の二人きり…弁解しても何の説得力もない状態は、はっきり言って詰みと申し上げて差し支えなかった。
「どうやって出たとしても、先生と私が口吸いをしたって噂が立つ事は避けられませんよ」
「本当の事を言えばいいだけじゃないか」
「そんなの誰も信じませんって」
思春期のハイエナ共を舐めてんのか?全部いかがわしい事に変換するに決まってるだろ。もちろん私もな。こんなに面白いこと、他人事だったら言いふらすに決まってる。
脳内お花畑の先生を鼻で笑い、私と先生が噂になるという点にのみフォーカスを当てた発言をして、無理のある説得を試みた。
「だから、しようがしまいが一緒なんですよ」
「一緒なわけあるか!」
駄目か。ほなキスするか…とはならんか。
「噂になりたくないなら…出なきゃいいんじゃないの?」
「それじゃ合格できないでしょうが!」
教師の風上にも置けない発言に今度は私が声を荒げ、いかに学園長の突然の思いつきが迷惑と言えど、課題を放棄させるとは何事かと詰め寄った。それもこれも含めて試練なんじゃないのかよと無駄に真面目になる私は、このミッションのクリアタイムで夏休みの宿題の量が決まると聞いているため、何が何でもクリアして極力早く出たいのだった。
そんな学生のささやかな望みなど関係なしな先生に、私は次の手を考え、実力行使良しだった事を思い出す。
仕方ない。こうなったら宝禄火矢を使うか。
私は袖から火器を取り出し、松明のそばへ近付ける。途端に緊迫感に包まれた倉庫内で、私はうっかり手を滑らせないよう細心の注意を払った。
「これに火がついたらさすがに今すぐ出たいですよね?」
「出たいというか…出ないと死ぬぞ」
マジレスした先生は、私の捨て身の策に少し考え込む仕草をした。鍵を開けなければ火をつけると脅す事で、何とかここから出る事ができるだろうと踏んだのだ。説得するとはそういう事のはずだ。これで駄目ならキスさせてくれ。夏休みの宿題増量の方が嫌なんだ私は。
先生の反応を固唾を飲んで見守っていたら、非情にも土井先生はこの茶番を終えるより教育を優先し、厳しい採点で私を一蹴した。
「合格をあげたいところだが…」
そう言いながら、チョークを飛ばして宝禄を弾いた。
「そんな危ない事させるわけないだろう」
遠くに転がった玉を見送り、私は思わず舌打ちする。
思いつくだけじゃ駄目か。実践できるだけの実力がないと脅迫にならないもんな。なら実力行使系はまず無理だろう、土井先生に身体能力で敵うわけもないし。本当に知恵を使って先生相手に交渉するしかない。マジで面倒な思いつきをしてくれたよな、ていうか面倒な事態にしてきたのは土井先生なんだよな。口吸いするって。もうするから出してほしいんだって。
やはり淫らな気分にさせるしかないのか?と考える私の傍らで、先生は転がって戻ってきた宝禄を拾い上げると、そのサイズ感に不可解な顔をしていた。
「どこから出したんだこんなもの…」
「どこからでも出ますよ」
私は袖から国旗を出して見せると、先生は感心の声と共に拍手をしていた。手品やってる場合じゃないんだ。早くここから出なくては。
しかし、先生の拾った宝禄を見て、ヒントを得た。
そうだ、脅しだ。自分より格上の相手をやり込めるには、やはり脅迫するしかない。身体を脅かす系が困難なら、精神を追い詰めるのが最善なんじゃないか?
それにはまず先生の弱味を考えないと。頭を悩ませながら、とりあえず方針だけ伝えておいた。
「先生を脅迫する方向で説得を試みたいのですが…構いませんよね?」
「お前…それ得意そうだな…」
どういう意味だよ。失礼だろ。
人を何だと思ってるんだかわからない先生にもはや容赦は無用なので、土井先生最大の弱味、一年は組を人質に取らせてもらう事にした。すぐにその判断ができるあたり確かに得意かもしれないと思った事は忘れた。
「口を吸って下さらないなら…きり丸に危ないバイトを紹介するというのは?」
「現実味がないから駄目。お前がそんな事しないのはわかり切った事だし」
何この厚い信頼は。本当にキスしちゃおうかな。私の方が淫らな気分になってどうする。
確かに先生の言う通りそんな事はしないので、性格の良さが仇となり、この作戦は失敗である。ならば別の手を使うのみと意気込み、くの一らしい卑劣な手段を提案した。
「じゃあ…大声で助けを呼ぶしかないですね」
「どういう事?」
「先生に襲われてるって泣き叫ぶんですよ」
殴られた。痛すぎる。本当に泣き叫ぶぞ。
「洒落にならん事はやめろ!」
「洒落にならないから脅迫なんじゃないですか…」
殴られた頭を押さえながら言うと、土井先生はとうとう焦った顔をしたので、これは効いたんじゃないかと嬉しくなった。勝ち誇った表情で腕を組み、私は先生に詰め寄った。
土井先生の弱味…それは一年は組の良い子たちと、己の立場である。教師たるもの、いや教師でなくとも安易に信用の置けぬ女子と二人きりになるべきではない。まして私はくの一教室で六年も学んだ小賢しい忍者である。卑劣極まりない冤罪をでっち上げる事に、何ら胸は痛まないのだった。
「どうしますか?正直五分五分だと思いますよ。先生を信じるか、私を信じるかは」
ゾーンに入った気分だ。形勢優位で心地いい。
みんなの兄貴分土井先生と、特に取り柄はないがみんなと忍術学園で手を取り合って生きてきたこの私、信用度に関してはほぼ均等と言って差し支えないだろう。我が国は土井派、レイコ派の二つに分かれ、混乱を極めていた。
先生が自分に勝機がないと判断すれば脱出できる。祈るような気持ちでいると、先生は悩んだあとに諦めた顔を向け、溜息混じりの声を出した。
「そうだな…小賢しいとはいえお前は嘘をつくような人間じゃないし、きっとみんな信用するだろうな」
なによ突然。ときめかせないでよ。小賢しいは余計だけども。
潔く信用度で負けを認めた土井先生に、私は思いがけず心動かされ、ついフォローの言葉をかけてしまった。
「いや…そんな事はないと思いますけど…」
実際そう思っているため、素直な気持ちを告げてしまう。正直私も土井先生が女子生徒を襲ったなんて聞いたら、嵌められたんじゃね?と真っ先に思う事だろう。付け入る隙がありそうだし、甘さを見せがちな土井先生なら利用されてもおかしくはない。とはいえ私も先生の言う通り、無意味な嘘をつくタイプじゃない。信じるか信じないかはあなた次第という感じだが、お互いに誠実さを感じている分、脅迫の効果も五分五分であった。
しかし絶対的味方がいるという点では、私は土井先生には敵わない。
「一年は組の良い子たちはきっと先生の事を信じますよ、何があっても…」
そう言いながら、クソガキ一人一人の顔を思い浮かべた。土井先生に暴漢の嫌疑がかけられた時にみんながどれだけ悲しむかを想像したら、急に己の卑劣さを痛感し、膝から崩れ落ちるしかなかった。土井先生一人ならいくらでも罠に嵌めたって構わないけど、子供を泣かせる大人にだけはなるべきではない。それならキスした方がマシだと心底思った。
「…すみません、一年は組の良い子たちの事を考えたらこんな悪質な脅迫はできませんでした…別の手を考えます…」
「お前は何を勝手に自滅してるんだ…」
一喜一憂するアホな私に、土井先生は呆れて溜息をついている。ここまで来るともう脱出などどうでもよくなってきたというか、出ない方がいい気がしてきた。だって出ちゃったら土井先生、淫行教師のレッテル貼られちゃうもんな。
さっきも言ったが、ここから出る、イコール口を吸った疑いをかけられるわけだ。一年は組の事を思うと、彼らの担任をそんな変態教師にするなんてできないと思った私は、夏休みを捨てる覚悟をとうとう決めた。私だって土井先生と変な噂が立つのは本意ではないし。何故この私がこんな不潔教師とキスした事にされなければならないのだって感じだった。
「先生、私…不合格でいいですから…もう行ってください」
諦めの表情でそう告げ、驚いた顔の先生に言葉を続ける。
「さっきも言いましたけど…この口吸いしないと出られない部屋から出たら、してようがしていまいがした事になっちゃうんですよ」
いくら弁解しても真実を誰も見ていない以上、疑惑の目は向けられ続けるだろう。私も嫌だが、こっちはあと一年で卒業なので気楽なもんである。しかし土井先生はどうだ?ここで教師を続ける限り、生涯淫交教師のレッテルを貼られてしまうのだ。気の毒すぎるし、担任が淫交教師なんて一年は組も一生笑い者だ。そうでなくてもアホすぎて笑い者なのに。
「土井先生がそんな…カスでクズの教師に思われるの嫌だし…」
健気な思いを伝え、思わず涙ぐむ。
「カスでクズでゴミで外道の下衆教師と後ろ指差されるなんて…」
「何回も言うな!」
外道の暴力教師は鉄拳を喰らわせると、座り込んで悟りを開いている私の顔を覗き込んだ。観察されているような瞳に捉えられ、思わず真顔になる。
「…それも作戦か?」
「え?」
何だか疑わしげな表情だったが、先生の意図がよくわからず、そのままただ見つめ合った。教師と生徒にしては距離が近い気がした。
しかしこのカオス部屋で試行錯誤を重ねた仲だと思うと、多少顔が近くても気にならないというか、本当に出られないんだとしたら別にしてもいいかな…と不思議な気持ちになってくる。
私が淫らな気分になってどうすんだよと再度思った時、知らず知らずのうちに向こうも同じ気分になっていたようで、私は大層驚いた。
「…今ならしてもいいぞ」
びっくりした。開いた口が塞がらない私は、しばらくその場でフリーズした。やっぱ淫らな気分にさせる作戦で合ってたじゃないか、と抗議したくてたまらなかったが、揺れ動く心が言葉を詰まらせ、本当にどうしようか悩んでしまった。
どうする。するか、しないか、合格か、不合格か、夏休みか、世間体か。ぐるぐると頭を巡り、最終的に自分の感情と向き合ったら、答えが出た。
「いえ…私が嫌なので…」
殴られた。なんでだよ。当たり前だろ。
先生のために不合格でもいいっつってんのにするわけがないだろうが。理不尽な暴力に先生を睨み上げたら、向こうは不服そうにまた資料を読み直していて、何かに気付いたように声を上げた。
「というか、このお題…間違えて配布したんじゃないか?くの一教室用と書いてあるし」
「でしょうね。女同士で想定してたはずが…私が余ったせいで先生とすることになっちゃったんだと思います」
「わかってたなら最初から言え!」
「今気付いたんだって…」
また殴られる気配を感じて頭を押さえたら、先生は殴る代わりに資料を勢いよく閉じて拳を握った。
考えてみたらそうだよな、不純異性交遊を斡旋するわけないから、男女で行なうお題ではないわな。くの一教室上級生用って普通に書いてあったし。先生の参加がイレギュラーだったわけだし。今回のこれは想定外の事態だったという事だろう。
「こんなものは無効だ。学園長に言ってくるからお前ももう出なさい」
「あ、はい」
「全く…なんでこう迷惑な思いつきばっかり…」
ぶつぶつと文句を言いながら鍵を開け、結局何もせずに出ることになってしまった。それで私の合否は?と聞くのも野暮だったので、とりあえず黙って外に出る。
倉庫の薄暗さが嘘のように清々しい天気だ。気分も晴れ晴れというわけにはいかないけど、運営側のミスなんだから夏休みの宿題はせめて普通の量にしてほしいよな。本当にキスしてたら学園長だって困っただろうし。
土井先生も変な同人誌読んだ学園長に振り回されて大変だな…。後ろ姿を見ながら他人事のように思い、最後の最後で少し心動かされてしまった自分を思い出して、恥ずかしさが時間差で押し寄せてくる。
先生にはつい嫌だって言っちゃったけど…やむを得ないならやむを得なかったというか…それよりも今ならしてもいいって何だったんだ?合格をくれたって事だったのか?本当にしてもいいってわけじゃないよな?
気になりつつも聞けるわけがないので、代わりに本心を最後に告白しておこうと思った。合格をくれたお返しというわけでもないけれど。
「土井先生」
学園長へ抗議しに向かう先生を引き止める。ストレスで荒んだ瞳には同情的な気持ちになり、照れの中に半笑いが混ざった声が出てしまった。
「あの…本当はそんなに嫌じゃないですよ」
私の言葉に、先生は特に顔色を変えなかったが、そのまま真っ直ぐ引き返してきた。勢いに気圧されながら立ち尽くし、顔が近付いてきた時も、動かずにじっと先生を見つめるしかなく、謎の緊迫感に鼓動が速くなる。
怒ってるのか感動してるのかよくわからない表情だ。もしかして本当にするつもりなのか?嫌じゃないとは言ったけどいいとも言ってないんだが…本気か?
わからないけどとりあえず目を閉じておこう。マジでされたらどうしよう、とビビっているはずなのに、不思議な高揚感があって、土井先生からのリアクションをドキドキしながら待った。ファイナルアンサー後くらい時間が長く感じた。
そして溜息が聞こえたと同時に、その瞬間は訪れた。普通に脳天を殴られたのだ。大袈裟な悲鳴を上げて目を開けた私は、どっちにしろ殴られるのかよと理不尽な暴力に頭を抱え、その場で蹲る。薄情な先生はさっさと行ってしまい、痛みだけ残して姿を消した。何もかもが横暴であった。
嫌って言っても殴るしいいって言っても殴るし…正解のないクイズかよ。どう転んでも殴られるんなら言わなきゃよかった。
先生の顔が赤かったのも、見なきゃよかったな。そういう自分がどんな顔をしてるかもわかっていたので、土井先生がさっさと消えてくれた事に、心から安堵している私であった。