00.序章


「レイコ、オーキド博士を覚えているかな。何度か会った事あるんだけど、まぁ小さい時だから覚えてないか。そのすごい博士がポケモン図鑑のデータを集めてくれる子供を探していてね、それでいい機会だし、レイコも外に出てポケモンと触れ合ってみたらどうかな。別に父さんの研究の手伝いをさせたいがためにそんな事を言ってるわけじゃなくて、ただ純粋に?可愛い子には旅をさせろ的な?そういう意味でな。レイコももう十歳だし、カビゴン以外の友達も作ってみない?運転免許も取った事だしさ、何なら父さん買ってあげるよ原付。で、どう?旅に出る?ポケットモンスターの世界にようこそ?」

断る
⇒だが断る

「あのね父さん、私…夢があるんだ。生まれた時からこう…何だろうな、使命を受けたっていうか…啓示にも似た何かに突き動かされて、どうしても叶えたい野望があるわけ。だから無理。だって私…ポケモンニートになる予定だから」

私は、父が舌打ちしたのを聞き逃さなかった。



冒頭でわかるように、吾輩はニートである。職業はまだない。
否、一生定職に就く気はない。

オッス!オラ、レイコ。みんなもご存知、清廉潔白かつ容姿端麗で有名なあのレイコだ。別に家では常にジャージで、コンビニくらいなら余裕ですっぴんで行くなんて事は全くないレイコだから。よろしくな。とにかく職業は格好よく言うと家事手伝いである。別に格好よく言う必要はないが、知り合いには見栄を張ってそう言っている。

私はカントー1の大都会であるヤマブキシティ在住の、義務教育を数年前に終え、普通自動車免許以外の資格を持たない、模範的なニートである。
職に就かない理由はもちろん働きたくないからである。それは研究者をやっているうちの父が、ポケモン研究で一山当てた金が私一人分くらい余裕で養える金額を越えているからである。働きたくない上に働く理由もないのである。
以上の理由を父に述べ、私は今ニート権を得るために、日夜毒親と戦っていた。学校を卒業して旅に出ないかと提案され、即断った十歳のあの日から、数年間家庭内裁判を続けている。

だってそうだろ、お金があるのに何故労働をしなくちゃいけないんだ?社会勉強?ニートになったら社会どころか家からも出ないのに?2ちゃんねるにしか足を運ばないこの私が何を勉強する事があるのか、まるで理解できない。などと屁理屈をこね、何年も引きこもって過ごしていた。

とはいえ私も真っ当な人間…さすがに同級生が就職していく中、いつまでも駄々をこねているのはおとなげないと思う事もある。普通は働いていろいろ学ぶべきだという事もよくわかる。
しかし、私の本能がいつも強く訴えかけるのだ。働いたら負け、と。ニートっていう設定だから、と。
父も残念ながらサイコな学者なので、お金あるでしょ?という現実を言うと、まぁあるからね…と事実を肯定せざるを得ない性質だ。人間性などを説く事ができない憐れな人種であるため、私の、貯金は充分にあるから働く必要がない、という言い分に、確かに…としか言えないのである。いい大学を出ても馬鹿は馬鹿、それを教えてくれる一コマであった。

そんな馬鹿みたいな攻防を続けながら数年。さすがに後ろめたい気持ちはあるので、たまに父のフィールドワークを手伝ったり、花壇に水をやったり、トイレに芳香剤を置いたりして両親のご機嫌を地味に取っているという、本当に地味な毎日を送っていた。
フィールドワーク、なんて今軽く言ったけど、事実それは命懸けの戦いだった。ある時は崖から落ち、ある時は落石に衝突、またある時は溺れ、そして山で遭難…これらのデンジャラスアウトドアも、私の中では旅立ちたくない原因の一つとなっている。
当たり前だろ、殺す気か。そんな危険なところに娘を向かわせて何とも思わないとかおかしくない?児童相談所に行ったっていいんだぞ。

このように、旅についていい印象がない私である。働け働けとうるさい父も、本当は定職に就くより、旅に出てポケモンの研究をしてほしいのだという事にも気付いていた。
父は、学はあっても体は脆弱なモヤシなので、自分の代わりに私を記録の旅に出したいという野望を抱えているわけだ。冗談じゃないって感じなので気付かない振りをしてきたけど、ついに温い日常は終わりを告げるらしい。

ある日の事。私の人生に大きな転機が訪れた。全ては父の一言から始まったのだった。

「本物のニートになりたくはないか」

夕食を終えて茶をすすっている私に、父は碇ゲンドウのポーズでそう尋ねてきた。至極平和な午後八時。私の中では時が止まった。

「…え?」

何の脈絡もなしにそう言われ、私は慌てて正座をする。突然の真剣勝負に、佐々木小次郎だったら間違いなく斬られていただろうが、私は平成の宮本武蔵、父からの一太刀を受け止めて動揺しながらも、ただならぬ空気に順応していった。

何、一体どうした。本物のニートになりたくはないかだって?いやなりたいに決まってんだろ。ていうか今まで偽物だった事すら知らなかったんだけど。意味不明すぎる台詞に戸惑う私とは裏腹に、父は依然として神妙な面持ちを貫いていたため、どうやらドッキリの類でない事だけは悟った。

まさか…ついに折れたのか…?私を働かせるのは無理だとようやく判断してくれたの?自分で言うのもなんだけど、私みたいなの社会に出したら危なすぎるだろ。神室町で落ちぶれて終わるわ。

父さんが間違っていた、もしくはあれに乗りなさいシンジ、とでも言われそうな雰囲気に私の胸はざわつき、手放しで喜んでいいものか量りかねて、父を見据える。後者だったら困るけど、いい加減諦めてくれてもいいんじゃないかって思ってたところなんだよね、私の社会人デビュー。
幼少時から共にいる、相棒のカビゴンの腹の上で毎日眠りこけているだらしない私が、いよいよ社会には不適合だから家から出すわけにいかないと、そう結論付けたという事でよろしいのかな?
こちとら小卒、このポケモン界での義務教育分だけを終えた、学歴も職歴もないクソニート。社会に出て何ができるかっていったら、原付の排気ガスをまき散らす事くらい…害悪ニートにアスファルトを踏む資格はない、私はそう思うよ。そしてできればこんな悲しいこと言わせないでほしかったよ。
自虐で悲しんでいる私へ、意図の見えない話を父は続ける。

「父さん気付いた。このままじゃいかんという事に」
「それで?」
「だからお前をニートにさせてやってもいいと思ってる」

夢でも見ているのでは?と疑うような父の言葉に、私は思わず口元を押さえた。レコード大賞にノミネートされたとき以上の感動が私を襲ったのである。そんな事実は一度もねぇよ。
いきなりの心変わりに、私は感動する傍らで、狼狽える気持ちも抑えられない。だって何年も攻防を続けてきたのだ、ニートを求める私と、就職を求める父の戦いは。
相手が通るのを見計らって足を引っかけたり、廊下で出会ってはヒプノシスマイクを手にディスり合ったり…おとなげない小競り合いに終止符が打たれるのが信じられず、しかし父の口から、ニートにさせてやってもいいなんて台詞が出たのも初めてだったので、何が正解なのかわからない。

それでも一つだけわかっているのは、父が無条件で私の願いを受け入れる事など、絶対にないという事実だけであった。

何か裏があるんだろ!と問い詰める視線を送っていれば、案の定、父はその非道な正体を現した。十四歳の少年を人造兵器に乗せるような惨たらしさがそこにはあった。

「ただし、条件がある」

ほらねー!?そう言うと思った!
だろうな、とせせら笑い、タダでは絶対転ばない相手を真っ向から見据えた。しかし私も貴様の娘…同じようにタダでは転ばない事を思い知らせてくれよう。
やはり裏のある父から、何を言い渡されるか私は待った。挑発的な笑みを浮かべられると、途方もなく憎しみが湧いてきたが、それを抑えて静観する。

生涯ニートの条件となると、恐らく容易いものではないだろう。東大の試験受けろとか、それくらいの超難問が待っているかもしれないし、あまりにも無茶な要求だったらさすがに父の通帳持って夜逃げするけど、でも私はその条件とやらを受け入れる覚悟を決め、真顔を作った。だってこれはチャンスでもあるのだから。

「父さんの研究の永遠のテーマはな、簡単に言うとポケモンの生息地について調べる事なんだ。そこにどんなポケモンが住んでいるのか、地域によって成長に違いがあるのか、群れによって独自のルールがあるのか…的な感じの研究をしてる。そして光栄な事に、そんな父さんの研究に、あのオーキド博士が興味を持ってくれたのだ」
「え!あのオーキド博士が…!?」

思わずオーバーなリアクションを取り、私はすぐ真顔に戻る。
いやオーキドのすごさ特に知らんかったわ。タマムシ大学携帯獣学部名誉教授で年齢は五十五歳、世界的権威だという事くらいしか存じ上げないけど。結構知ってんじゃねーか。

確か私が小学校を卒業した時に、よければ図鑑持って旅に出ないかと言ってくれたらしいが、普通に嫌なので断った事を覚えている。博士だってこんな無礼なガキに手伝ってほしくないだろ、だってあの有名なオーキド博士からの申し出を断ったんだぞ、私だったらそんなクソガキと二度と関わりたくないね。ニートだし。
懐が深いのか大雑把なのかわからず、それでその世界的権威が一体何なんだと私は父に訴えかける。どっちにしろ嫌な予感しかしないけどな。

「それで、ありがたい事に共同研究をする事になってね」
「ふーん」
「それには…ポケモン図鑑のデータが必要不可欠…」

徐々に本題に近付いてきた気配に、私も思わずゲンドウポーズだ。今すぐ父親をダミープラグと入れ替えたくなってきたぞ。
大体何を言われるか察した私は、法テラスに相談する準備を整えて身構える。頼むから予想が外れてくれ…と願う私であったが、江戸川コナンに匹敵する洞察力のせいで、その願いは叶わないのであった。

「そこでだレイコ。お前にカントー各地を旅して、全ポケモン150種のデータを集めてほしい」

父の言葉に、私は苦笑を浮かべると同時に、思い切りテーブルをひっくり返した。安物の軽い木の机は鈍い音を立てて転がり、四つの脚が私の方を向いてぴたりと動きを止める。卓上に何も乗っていない事はもちろん確認済みだ。いい子かよ。

全く何を言ってるんだと不気味に笑い、私は熱くなる額を押さえた。さすがに御冗談だろうと思いたかったのだ。
いきなり何を言い出すかと思えばあなた…痴呆なんですか?その話は数年前にお断りしたはずなんですけど?この話の冒頭でも断ってるから。よく見て。何故またそんな話を持ち出しているんだ、と呆れて物も言えず白目を剥く。ガラスの仮面以上の剣幕だった。

確かに、私は父のフィールドワークの手伝いで各地に駆り出し、何回か軽く死にかけたが、運と直感とフットワークと主人公属性でそれを回避し、何ならポケモンマスターの頭角すら現し始めていたところもあったかもしれない。百年に一度の逸材、怪物亜久津仁の如く才能にまみれていたかもしれないよ。
でも亜久津はテニス部辞めるだろ。私も同じ道を行く。レイコ、フィールドワーク辞めるってよ。
大体自分にサバイバルの才能がないからってそれを娘に押し付けるか?それでも親なの?年頃の娘を旅に出させるなんて…イッシュ地方のベルちゃんとかいう子の父親だったら許してないと思うな。知らんけど。全然フラグじゃない。

テーブルをひっくり返したまま、私は無言で父を威圧する。一方の父も、もう腕を支えるテーブルはないのにゲンドウポーズを保っていて、私が何を言わんとしているかわかっているにも関わらず、それをあえて無視した。何事もなかったかのように話を続ける父が、どこまでゲンドウを保っていられるかを見届ける事だけが、もはや私の至福である。早く膝ついて倒れろカス。

「この研究で重要なのは、ポケモンの姿形、生活環境の記録だ。捕獲しろとまでは言わない。ただあらゆるポケモンを図鑑に登録、そして映像に残してほしい。これを見ろ、父さんがデザインと設計をしたカメラ付きポケモン図鑑の見本です。科学技術も進歩してこんなに薄型になりました」

どこから取り出したのか知らないが、確かに薄型の図鑑サンプルを突きつけられ、私は頭を抱えた。

待てよ。何もう開発しちゃってんのポケモン図鑑。私…まだ引き受けるとか言ってないですよね?これは私に決定権のある事案なんですよね?それなのにどうしてもう作ってるんですか?何度断ってもハイと言わせるまで話が進まないドラゴンクエスト方式だったの?死んでもらっていいか?

何を勝手に決めてくれてんだ、と渡された図鑑を叩き割りたい気持ちに駆られ、私は下唇を噛んだ。
何がポケモン記録だ馬鹿野郎。そんな事してたらニートできないじゃん。こっちは暇じゃねーんだよ。いくら生涯ニートをチラつかせたからって、そんな博打を打つと思ってるのか?ニートになる代わりにニート生活を犠牲にするってどういう事なんだよ。有り得ないから、とせせら笑い、その過酷な条件に、私はもちろん断りを入れるつもりだった。

だって無理でしょ、シティガールの私が大冒険なんて。寝言は寝て言ってほしい。私ができる冒険なんてせいぜいゲームの中くらい…ビアンカかフローラを選ぶので手一杯なんだよ。それを…リアルダンジョン?無理だね。野宿とか気が狂いそうだし。
父をあしらって退室し、これまでと同様そこそこにニートやってやるわと吐き捨てようとしたその時、親父の目が光を放ったのを、私は見逃さなかった。

「言っておくがラストチャンスだぞ」
「え?」
「これ以外に、お前が永久ニートになれる方法は…無い」

断言され、私の脳天に雷が落ちた。いつになく真剣な面持ちから、偽りやハッタリでない事が感じ取られ、一瞬で身の毛がよだつほどの衝撃を受ける。

こいつ…本気だ。いつも徹夜続きで死んだような目をしている父の瞳に、今日だけはハイライトが入ってる。私は息を飲み、ポケモン研究に全てを捧げた人間の狂気を、これでもかというほど感じ取った。
間違いない、これを蹴った瞬間、私の就活を全力で援助してくるつもりだぞこの男。父から感じるオーラに、私は思わず後ずさる。なんて横暴なんだと正気を疑った。
つーかそんな事で娘の将来左右すんなよお前。どんだけ研究命なんだよ。もっと私を大切にしろ。

「そんなこと言われたって…」

無理なものは無理だ、と訴えかけようとした瞬間、突如として私の脳に閃きが走った。この期に及んで、まだ父と話し合いが通じると思っていた自分の甘さに辟易する。

父の意味深な目つきを見て、私はある事に気が付いた。待てよ、と振り返り、どこまでも小賢しいこの父に畏怖の念を抱いて息を飲む。

わかったぞ、そういう事か。父はついに、その無駄に大学を出た頭脳を、研究以外のものに使い始める事を決意したのだ。どっちに転んでも自分が得をするように考え抜いたんだ!

おそらく、こいつは私が図鑑を全て集めるなんて無理だと思っているのだろう。
第一に、これを断れば私は即就職。
第二に、これを受け入れれば図鑑集めの旅でデータは集まるが、きっと全てを集め切る事は不可能なので、その時点で挑戦失敗、就職。
私はニートになるため、限界までデータを集めるだろう。それこそほとんどを埋めるに違いない。執念で、血で血を洗いながらカメラを回し続けるロボットと化す…。しかし中には激レアなポケモンもいるし、一種一体の伝説と呼ばれる奴らだって存在するわけだ。そんなものを集められるわけがない、よって就職。つまり、どう転んでも就職なのだ。

私が途中で諦めようと、ある程度データは集まっているから、父的には喜ばしい限りである。研究は進み、もし断られても、一日中家にいる娘を就職させて厄介払いできるから万々歳。全て計画通り。僕は新世界の神になる。という完全就職シナリオを描いたわけだ。父の不敵な笑みで、私はすべてを察した。

なんて奴だ。結局どう足掻いても就職じゃねーか。家計を握られているという痛手をひしひしと感じ、無職でいる事の難しさに打ちひしがれる。
ニートでいるには、父の承諾が必要不可欠である。勝手にニートはできない、何故なら働いていないから。働いていないという事はお金がないという事で、お金がないなら親の脛をかじらなくてはならない、親の脛をかじるという事は、脛をかじる許可を親に得なくてはならない。つまり私はマリオネット。親父に操られるがまま、法テラスに相談するしかない悲しいニートなんだ。

さぁどうする、とドヤ顔で詰め寄ってくる父に、私は顔を歪める。勝ち誇った笑みが憎たらしく、それと同時に、決心もついた。そっちがその気なら、こっちだって本気出してやろうと決意したのだ。憎しみと堕落を原動力にな。

冗談じゃねぇ。敷かれたレールの上を歩く人生なんてまっぴらだ。ニートなめんなよ、お前のポケモン研究にかける情熱も本物なら、私のニートへかける情熱もまた本物。何のためにこれまで両親の厳しい目に耐えて家でだらだらしてきたと思う?全ては私が安心してニートできる生活を作るため…いつかそのチャンスを掴むため…そしてそのチャンスはきっと、今しかない。

「…いいよ、やってやろうじゃん。僕はニートゲリオン初号機パイロット、碇レイコです!」

こうして私のポケモンニートを目指す旅と、新劇場版エヴァの公開が2020年に決まった。

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