主がいない日

主が本丸を留守にする。前代未聞の大事件だ。

遡行軍から身を守るため、主は常に本丸の敷地内での生活を強いられていた。主ほどの審神者ならば、居所を知られると真っ先に狙われる可能性が高い。厳重な警戒体制の下、広い敷地を与えるなどして軟禁の緊張を緩和するなどしていたが、知らぬ間に主は政府へ要望を出し続けていたらしい。せめて両親に会うくらいは許してほしい、と。

主の心の内に気付かなかった事には、不甲斐なさしかなかった。両親との電話連絡は高頻度で行われていたため、それで事足りていると感じてしまっていたのだ。
タピオカが飲みたいと呟いた次の日にはキャッサバの栽培を始め、プールに行きたいと呟いた当日には、政府へ水道工事の依頼をしていた主である。無いものはどうにかして作ってきた方だが、これまでの生活とは一変しているのだ、現世が恋しくてもおかしくはない。その事に気付かなかった自分が情けない。いつも傍にいたというのに。

それでも、主が喜んでいる姿を見るのは、ただただ幸福だった。結局本丸の敷地内での再会にはなるようだが、俺達とは切り離された空間で一泊二日、家族水入らずの時間だ。軽やかな足取りで玄関を飛び出し、揉め事を起こすなよとだけ告げて主は去っていく。本丸の事はこのへし切長谷部にお任せくださいと言ったが、それは明日までの話だ。明後日や明明後日やその先の事は、主が取り仕切るべきだろう。
つまり帰ってきてほしいという話だ。口にはしないが、皆思っている。本当に帰ってくるのだろうかと。決して責務を投げ出したりはしないと信じているが、真に不安を取り除けるのは、主がこの玄関の扉を開けた時だけだ。


早朝に主を送り出したあと、洗面所で小狐丸に会った。
俺の顔を見て挨拶をするものの、明らかに覇気がない。

「ぬしさまがおらぬと毛並みを整える気も起きぬな…」

挙句そんな事を言って去っていくものだから、改めて主の存在の大きさを思い知る。あまり気を抜くなよ、と言いたいところだったが、叶わなかった。俺も似たような心境だからだ。
早々に気の緩みが起きている。主不在のうちは余程でなければ出陣もない、この分だと他の連中も呆けているに違いないだろう。怠慢は許されん、まずは俺がしっかりしなければ。

主がいない本丸は、とにかく静かだった。騒がしいのは変わらないが、全体の気配がまるで違う。どうも落ち着かない。
夕方になって、主宛の荷物が届いた。主の部屋へ出入りする事は皆許されているため、普段通りに荷物を置きに行く。鍵がついているとはいえ、後ろめたい事など何もないと言いたげな様子が最近は顕著だった。後ろめたい事だらけの俺達への当てつけなのかもしれなかった。

ふと、裏庭に洗濯物が干してあるのが目に入った。主の部屋は小さな庭と繋がっていて、そこにいつも洗濯を干しているのだが、いつから置いてあるのだろう。今朝か?明日もいつ帰るかわからないのに放置しておいて良いものだろうか。もしかすると早めに帰るのかも、と少し期待する。
いや、何にせよ主が自らそうしているのだ。構う必要はない。万一雨でも降ってきたら考えよう。
しかし部屋に入ったら丸見えではないか。襖くらいは閉めておくか。主はどうもそういう部分に頓着がなくて困る。これも当てつけなのかもしれないが、当てつけられる連中以外には逆効果だろう。
もしかするともう全員への当てつけとなっているんだろうか。主を慕う刀が多いのはわかる。多いだけでなく、揃いも揃ってそうだとしたら、主が出ていく理由に充分成り得るのではないだろうか。ますます不安になり、一刻が過ぎるのさえ、果てしなく長く感じた。


夜になり、主のいない夕食時がやってきた。
皆口を揃えて主の話ばかりだ。当然だろう。今日ほど主の事を考えている日もないだろうからな。
各々が好き勝手に話している中、誰一人として、帰ってこないのではないか、と不安を口に出す者はいなかった。誰もが危惧しているだろうが、口にしてしまうと現実になりそうで恐ろしいのだ。俺もそうだった。
隣の主の席が、こんなにも空虚に思えるとは。テレビに熱中するあまり箸を止める瞬間だけは、主をじっと見つめていても許された。真剣な横顔をすぐに思い出せるのに、今日はどこにもいない。両親との時間を楽しめているだろうか。遡行軍の動きも心配だ。傍にいられない事がとにかく様々な理由で不安なのだった。

余計な事を話す者がいないか耳をそば立てている時、向かいから三日月宗近と小狐丸の声が聞こえてくる。毛並みを整えるのも億劫だと言っていたわりに、特に乱れてはいない。完全に気を抜いてはいないようだ。当然だがな。

「近頃の主は精悍な顔立ちになったと思わんか」
「ええ。あどけなさは残りますが、すっかり大人の貫禄で」

主の目まぐるしい成長ぶりに、二振は感心しているらしい。特に小狐丸は古株だ、審神者として頭角を現していく主を目の当たりにしている分、感慨深いだろう。俺だってそうだ。関ヶ原って結局東軍と西軍どっちが勝ったの?などと言っていた頃とは比べ物にもならないくらい、主は勉学に励み、戦場の痛ましさに耐え、慣れていく己に苦しみ、強い心を手に入れた。凛々しい態度には惚れ惚れするほどだ。変わっていないのは、恋をした者への残酷さだけだ。

「大声を出す事も少なくなった」
「それはまぁ…我らが声を荒げさせている部分もありますが」
「主は怒ると怖いからなぁ。はっはっは」

三日月の呑気な笑い声に、小狐丸は微笑みながら、かなり肝が冷える事を言った。
主は、決まり事を破ったり、生き物を粗末に扱ったりしなければ、滅多に怒りはしない。ただその決まり事というのは、主にしかわからない尺度で計られるから、皆が一度は地獄へ落とされる。

「しかし…ぬしさまは、本当はいつも怒っていらっしゃるようにも見えます」

思わず手が止まった。三日月もだった。しかしすぐにいつもの調子で笑い、その怒りすら誇らしいように競い合う。

「きっとそれは俺のせいだろうな」
「いやいや、私ですよ」

いや絶対に俺だ、と口を出したくなった。

主は怒っていたのだ。きっとそうだったのだ。
妙な事を言うなとずっと怒っていて、感情を昂らせたり落ち込んだり、呆れ返ったり、冷たい態度を取る日もあった。主は自分の事で傷付く事や、怒る事が、上手くできないのだと思う。家に帰りたくて泣く事はなくても、フランダースの犬ではいつも泣いている。もしかすると、両親に会いたいと思った事も、主の成長の一つなのかもしれない。最近静かになったのもそうなのだろうか。もしくは、どうにもならないと諦めたんだろうか。


どれだけ主が怒り狂おうと、主を想う事は止められない。やけに静かな夜、落ち着かない中眠りにつけば、主の夢を見た。

「私、もっと普通の人間生活がしたかったな」

夢の中でも、主は怒っていた。はっきりと恨み言とわかる口調でそう言いながら、足元に転がる何かを拾い上げる。

「例えばこのルンバが急に超絶イケメンになったとしてね」

掃除用の絡繰だ。主の部屋はこのルンバが掃除しやすいような家具配置にしてある。妙なところで几帳面な人だった。
終始冷たい態度で話しながら、それを聞いているのが俺なのか、それとも別の何かなのかわからず、ただ主を見つめ、夢の中とはいえ顔が見られた事に、俺は喜びを見出している。

「ルンバからあなたを愛してますって言われても、いやでもどんなイケメンでもルンバは所詮ルンバやないか…って思うわけ」

ルンバと刀剣では年月も逸話も違いすぎる気がするが、何を大事にするかは主が決めることだ。口出しはしない。主がそう思うならそうなのだろう。俺達もルンバも同じなのだ。人の形になってしまえば。

「それが人間側の言い分ね」

かなり大きな括りでまとめられただけでなく、人間ではない側の言い分まで語り出すから、主の中の決まり事は厄介である。

「でも長谷部たちは神様なんでしょ」

俺に話しているのだとわかり、思わず首を振る。
それ以上に刀です。貴方の刀です。

「人間のことなんて好きになるわけないでしょ」

何故そう思うのです。主がそう決めているだけですよ。何より今は人の身です。人の身の揺らぎやすさを一番わかっているのは主でしょう。決められた順序を掃除していくだけでは済まない事がわかるはずです。貴方は審神者なのだから、一層それがわかるはずです。

「やめろ」

語気を強めた主が、鋭い瞳で見つめてくる。こうなると俺は動けない。主は俺達を神か何かだと思っているみたいだが、主の方が余程全能だ。少なくとも刀剣にとっては。

「それだと私が普通じゃないみたいだろ」

そうですよ主。主は自分で思っているほど、普通ではなかったのですよ。初めから。
特別です。だから俺たちは皆、貴方に恋をしているのです。


昼になっても主は戻らなかった。洗濯物も干したままだ。これがなければもっと落ち着かなかったかもしれない。身辺整理の跡がない事を何度も確認し、あとは突発的な行動を取らない事を祈るばかりである。

夕食の時間は静かだった。主は本当に帰ってくるんだろうか?という不安がいよいよのしかかり、談笑してもいられなくなったというところだろう。もちろん誰もが主を信じているが、主とて人間だ。心変わりしやすい生き物の残酷さも、俺達はよく知っている。

眠りにつく刀もいる中、主の部屋へ布団を敷きに行った。頼まれているわけではないが、拒まれてもいないので時々寝床を整えている。冷たい布に手を滑らせ、主が安心して眠れる場所はここだけなのだと言い聞かせた。

そういえば、主はいつも夜に湯を沸かしていたな。ふと思い出し、茶卓の上に置かれたポットを見る。
夜中に目が覚めた時に茶を淹れるらしい。一時は寝付きの悪い時期もあったようだが、今はどうしているのだろう。よく眠れていると良いのだが。
機械が一人でに沸騰し出すのを待っているも、どうにも手持ち無沙汰で落ち着かない。急須も出しておこうか。しかしどれを使うかわからないな…。主の食器棚には統一性がなかった。というのも、ここぞとばかりに贈られた品で溢れているからだ。
どれも大切に使っているとわかる。俺と茶を飲む時は、俺が贈った湯呑みを使ってくれる。何も言わず、それが当然の事のように、主はいつも俺達のしてきた事を記憶にとどめて取り出していく。

そんな事をしておきながら、何故なのだ。何故、何もかもが間違いだなどと言うのですか。主の全てが、貴方を愛する理由に成り得るというのに。

主の部屋は、気配が残りすぎていて落ち着かない。湯の準備だけ済ませ、玄関で主を待った。結局こうしているのが一番の安寧だった。
主は帰ってくる。きっと帰ってくる。そんな事はわかっているのに、本丸が静かすぎて、夜に飲まれていくようだ。今日のうちには帰ると言った。もし帰らなければ、俺達に朝は来ない。永遠に。

零時も近い時、突然玄関が開いた。何の前触れもなく物音がし、待ち侘びた瞬間だというのに驚きで声も出なかった。

「うわっ」

主だ。俺を見るなり飛び退いていく。喜びより、何故という思いが強かった。まるで気配がなかったからだ。
政府のまじないか?玄関に踏み入れるまで確実に主の存在は消えていた。わざわざこんな真似までしているとは、主は余程の切り札にされているらしい。だから外出も許可したのだろう。普通ではない力を最期まで振るわせるべく。忌々しいが、そのおかげで主はここにいる。

「びっくりした…待ってたの…?」
「ええ」
「あ、そう…ちょっと引いちゃうよな…」

帰るなりいつもの調子を繰り出され、次第に喜びが舞い戻ってきた。主がここにいるという実感が湧いてくる。それだけで充分だというのに、向けられた笑顔が俺をさらに舞い上がらせた。

「嘘だよ、ありがとう」

多分半分は嘘ではなかったと察するが、気味悪がられようがここで待っていてよかったと心から思える。

「ただいま」

一番にこの言葉を聞けたのだから。

「…おかえりなさい、主」

帰還の言葉を受け、感慨に浸る俺とは裏腹に、主は浮かれた様子もなく、すぐ荷物を置き辺りを見回す。荷物持ちだけでも手伝って差し上げたかったと思うくらい、かなりの量の紙袋だ。何を持ち帰ったのだろうか。

「変わりないよな」

本丸の様子を確かめる主に、当然ですと頷く。

「主の留守はこのへし切長谷部がしっかりとお守りしましたよ」

そう報告すれば、主は顔の前で人差し指を立てた。静かに、と小声で叱責する姿を見るに、皆眠っていると思われたのだろう。主の気遣いは残念ながら無用なのだ。本当は皆出迎えたいに決まっている。疲れている主を案じて、眠った振りをしているだけだ。
しかし言われた通りに声は出さず、そっと歩き出した主の荷物を持つ。量のわりに重さは控えめだ。色とりどりの箱が入っているのが見える。両親からの贈り物だろうか。
部屋へ着くと、すぐに紙袋の正体を主は話し出した。一息ついた様子で深く息をし、袋の中身を覗き込む。

「なんか色々もらったはいいけど、数が全然足りなくてさぁ…どういう数え方したんだか…」

主の両親からの土産なのだろう。言い振りからして、俺達宛てにも用意してくださったようだ。主の両親と顔を合わせた事はないが、話に聞く様子では主同様、真面目な印象を受ける。帰り際に手土産を持たせるところなど、特に似ている。

「これはたくさん入ってるから大丈夫か…?あ、これだな、十個しかないんだよ。全盛期のビッグダディより大人数だって言ってんのに…」

箱を見つめながらぼやいている。いつもの主だ。主がいるだけでこんなにも満たされる。俺にとって、俺達にとっては主が全てなのだとはっきり思い知らされ、胸の奥が熱い。人の体は不思議だ、主を想っているだけで、何故だか苦しい。

「仕方ないから内緒で食べるか…」

溜息まじりに呟いた主と、視線が重なった。

「二人で」
「え?」
「内緒だぞ」

独り言だと思っていたのが、急に距離を詰められ、中途半端な反応をしてしまった。目を細めて微笑む主に胸が騒ぐ。思いがけず訪れた幸福には、何もかもを破壊できるくらいの力を感じる。平等を好む主からもたらされた秘事が、一体どれほど感情を掻き立てられるか理解しているのだろうか。

「ちょっとお茶の準備してくる」

箱を置いて立ち上がろうとした主の手を咄嗟に掴み、細く冷たい温度を懐かしく思った。

「それなら…すでに用意してあります」
「え?」
「こんな事もあろうかと」
「ふーん…気が利くやんけ」

茶化すように笑う主の手を握ったままでいれば、主は段々と表情を変化させていった。真っ直ぐ見据えながら困惑に瞳を揺らすが、気付かない振りを貫いて見つめ返す。

「…おかえりなさい、主」
「聞いたよ、さっき…」

困ったように笑う主が愛おしい。

「ただいま…」

躊躇いがちに、手を握り返される。こんな事をしておきながら、何故何もないと言い切れるのだろう。俺の中にあるこの熱を無かった事にできるなら、貴方はいよいよ全能だ。
握った手だけでは飽き足らなくなり、思わず肩を引き寄せると、すぐ離された。

「いやそれは違うから」

落ち着き払ったように言われて意外だった。少し前なら困った様子が有り有りと見て取れたというのに、一言であしらわれるとは。
誰もが主は大人になったと言うが、諦めただけなのではないだろうかと思う。どうにもならない事を何度も諦めて、傷付いた事さえも、無かった事にしているだけなのではないだろうか。何もかも無くなりはしないのに。
不遜な態度を責めるかのように主は後ろを向き、素っ気なく俺に雑務を命じた。

「お茶は私が淹れるから、長谷部は箱開けといて」
「…はい」

言われた通りの作業をこなしながら、主の後ろ姿へ視線を送る。
慣れた手つきで急須に茶葉を入れている。湯呑みはもちろん俺が贈ったものだ。迷う事なく伸ばされた手が親愛の証に思えてならない。皆そう思っているだろうが。

「どうでしたか、久しぶりの外出は」

湯を入れる主に尋ねると、首を傾げながらの返答があった。

「いや外出っていうか…本丸のエレベーターに五分くらい乗っててさ、着いたと思ったら急にホテルの一室みたいな部屋があって…ずっとそこにいた」

思い出しながら話しているのか、時々上を見て言葉を止める。敷地内の妙な構造は周知の事実だったが、どうやら予想を上回っていたらしい。溜息混じりに話す姿は後ろからでも呆れを感じ取れる。結局どこへも行けないのだ、脱力するのは当然だろう。

「親と三人で過ごすにはすげー広かったし…こんなのあるなら普段から使わせてくれよって感じ」

手持ち無沙汰に急須に触れ、苦笑を漏らした。

「まぁ気分転換にはなったよ」

そしてようやく一瞥くれた。すぐに逸らしてしまったが。

「そっちも羽を伸ばせたのでは?」
「まさか」

とんでもない事を聞かれ、すぐさま否定した。羽など伸ばせるはずがない。どんな思いを抱えて今を迎えているか、きっと主にはわからないのだ。

「主あっての本丸です」

思いがけず強い口調になってしまい、即座に付け足した。

「主がいないと…主の事ばかり考えてしまいますからね」
「なんだそれ」

そのまま沈黙が流れた。主には好かない軽口だっただろうが、本当の事だ、それに俺だけの話ではない。
主の傍へ置いてほしい。この身が朽ち果てるまで、主と共に在りたいのだ。どれだけ主を欲しているか、求めているのか、何度伝えても届かないなら、俺も諦めるべきなのかもしれない。無かった事にされるのを、受け入れていくべきなのかもしれない。主がそうしたように。
箱を開けると、和菓子が出てきた。小ぶりで全て違う花の形をしている。菊に椿に桜に紫陽花…どれも主と、この本丸で見た花ばかりだ。そして何度も過ごした季節を思い出したのは、俺だけではなかった。

「私も…」

呟いた主が、俺の湯呑みにそっと触れた。

「…ちょっとは寂しかったよ」

わずかに揺れた背中を見て、衝動が抑えられなかった。たまらず後ろから主を抱き締め、強く力を込めないよう、優しく肩を抱く。
主は一瞬驚いたようだったが、熱い背中を離したりはしなかった。

「いや…だから違うって…」

そう言いながらも、振り解きはしない。
俺は違わない。何も間違いなんかじゃない。やっぱり諦められない。受け入れてもらえなくてもいい、ただ認めてほしい。焦がれるような心がある事を、主と見つめた四季を思い出す事を、この身に宿った全ての熱量を、存在するものと認めてほしいのだ。
俺の鼓動に反して、主の心臓はゆっくりと動いている。混ざり合う体温が心地良い。主の心の内はわからないが、急須を持つ手が震えていなかった事には安堵した。

「…お茶淹れるまでだからね」

思いがけず許され、本当に寂しさを感じてくれていたのだろうと思った。でなければ、こんなに時間をかけて茶を淹れたりはしないのだ。

主が帰ってきた。もうどこへも行かない。どこへも行けない。

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