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目を開けているのか閉じているのかも分からない。暗闇をピンスポットが照らした。丸い明かりに照らされた赤い床の上でピエロが胡坐をかいている。白いお面には赤い鼻がつけられ、吊り上がった口角は笑顔を通り越してもはや恐ろしい。目元からは黒い涙が流れていた。
体が小刻みに震えているのは果たして笑っているのか泣いているのか、どうにもお面の上からでは分からなかった。
今度こそ、とこのクソ道化師の首を今すぐへし折ってやりたい衝動にかられたが、踏み出せば沼地のように足を引き込む床のせいで近づくこともできなかった。
「まったく。また15年を棒に振りましたか。あなたも学ばない人ですねぇ」
女とも男とも知れない声を奇妙に震わせて、そうケタケタと笑った。
舌打ちをしてピエロを睨みつけたが、真っ暗な目には光なんてなく、そもそも見つめる先に瞳があるのかもわからかった。背筋にゾッと鳥肌が立つ。
「なに、簡単なことですよ」
おどけた仕草でピエロが言う。大袈裟なそのわざとらしい態度に沸々と怒りが湧いてくる。
「ハッピーエンドを探せばよいのです」
――何がハッピーエンドだ。この人生に終わりも幸せもないじゃないか。
そもそもハッピーエンドとは何か。幸せを証明できるものなんてこの世界に存在しない。
n回目ともなるピエロとの会話で助言らしい助言をかけられたのは前回が初めてだった。そこに特別な意味があると思うでもなく、俺はまた15年をふいにしたらしい。
「ささ、ニューゲームですよ。いってらっしゃい」
ピエロがタン、タンと人差し指で床を叩く。途端足をつけていた床がなくなり、何度目とも知れない浮遊感が胃を浮かせた。
そうだ、次はバンジージャンプでもしてみよう。悲鳴一つ上げない自信がある。
〇
いったい何度目の人生だろう。
え?人生は一度きりって?
残念、そんなことないみたいだ。いったん死んでみれば分かるかもしれないね。誰にでも二度目の人生が待っている保障はどこにもないけれど。
一度目の人生はもう云十年前。おそらく100年以上は前なんじゃないだろうか。25歳の大晦日、俺は恋人に刺されて死んだ。今でも夢に出る光景だ。
年越しそばを食べ終わった頃だっただろうか。一休みついた俺の腹に後ろからズドッととナイフを突き刺したのだ。血まみれのナイフを手に彼女はうふふと笑った。
「ああ、享幸くん、享幸くん…素敵…素敵…」とわけの分からないことをキラキラした目で言っていた。何が起こったのか分からず、ただ死ぬのか、と終わる世界に絶望した。
しかしあり得ないのは、気が付いたら真っ暗闇にいてパッと電気がついたと思ったらあの空間だ。ピエロの笑い声に紛れて落とされる。そして気づけばランドセルを背負った俺は、いつかの帰り道で夕日に目を細めながら交差点にぽつんと立っているのだ。10歳だった。
二度目の人生も三度目の人生も、なぜか死因は女絡みで必ず25歳の大晦日に死んだ。
忘年会帰りに上司と一緒にいたら物陰から包丁を持った女が出てきたのが確か二回目。「享幸くんから離れなさいよ!」と上司に包丁を振り上げたのはまったく見知らぬ女だった。俺もびっくりして思わず割って入っちゃったんだな。よほど丁寧に研がれた包丁だったのだろう。音もなく刺さり、徐々に熱を持つ腹部にはじんわりと血がにじんでいた。あの感覚も悲しいことに今となっては慣れてしまっている。
「浅香くん…私のために庇ってくれたのね…?」
顔を青くして逃げたストーカーに対し、上司は頬を紅潮させていた。うっとりと笑う上司に殺意を覚えたのも遠い昔。薄れる意識のなかで、俺はストーカーされるような容姿でもそんな狂気じみた上司を生み出すような人間でもないはずだと強く思った。
三回目は何だったか。確か結婚を前提に付き合っていた彼女から川に落とされたのだ。もがこうとすれば細く白い手が巻き付いて俺を離さなかった。何が「これでずっと一緒にいられるね」だ馬鹿。他人を巻き込むんじゃねえ。
真冬の川の痛さに気を失いかけたら、案の定ずぶ濡れになってピエロの前に立っていた。
とまあ、俺は10歳から25歳の大晦日の15年間をもう何十回とループしている。刺殺、溺死、絞殺、心中なんでもありのこの人生。ちなみに自殺の場合ぎりぎりのところで生かされた挙句きっかり25歳の大晦日に死んだ。生き地獄だったので二度としない。俺も親を病ませてまで死にたいなんて思うほど薄情ではない。
しかし永遠に続くこの人生もこれ以上ない地獄であった。どうやらこの人生を終わらせる方法がハッピーエンドを探せ、ということらしい。
散々だ。死のない生に価値があるとは思えない。頼むから次で終わってくれと願ってやまなかった。
ふと気が付いたら赤く染まった視界の中、横断歩道の白線が目に飛び込んだ。十字路の交差点をランドセルを背負った俺は信号待ちしている。
あたりは夕日に真っ赤に染まり、遠くで夕焼け小焼けが流れていた。車は一台も通らないのに律儀に信号が青に変わるのを待つ俺と隣の中学生。向かいの交番にはパトロール中の札がかけられ人の気配はない。小さな交差点は不気味なほど静かだった。
どこかのブロック塀から飛び出した黒猫が十字路を横切る。もうじき信号も青になる。何十回と同じ時間に繰り返し戻っても変化しない、全てが決められたシーンだった。信号が赤になる直前にタクシーが突っ切ることも分かっていた。
しかし、
「………」
歩道の信号が青に変わっても、常に物凄いスピードで前を横切るタクシーは来なかった。心なしか嫌な予感がする。ここで何かが変わることなんてただの一度もなかったのに。
下を向きながら歩き出す。近い地面と小さな足は紛れもない小学生のものだった。どうせなら記憶も全部なくして人生をやり直したい。なんてことを思った。
「君…」
「…え?」
いままで聞いたことのない声が後ろからかかった。どきりと心臓が跳ねる。ここで誰かに話しかけられるなんて何十回と繰り返した中で初めてのことだ。さっきのタクシーといい、何かがいつもと違う。
まだ声変わりしていない自分の声は弱々しく不審さが透けていた。ゆっくりと後ろを振り返ると、地元中学の学ラン姿の少年がまっすぐに俺を見ている。白いイヤホンの片耳を外し、まだ身長の低い俺を見下ろしていた。
「君、最近よく会うね」
幼さは残っているが、凛としていて涙ぼくろが印象的だった。無表情のまま淡々とそう言うと、目を見開いて固まる俺を追い越し大股で去って行く。
取り残された俺はそんな少年の後ろ姿をポカンと見つめ身震いした。顔の反面だけが夕日に照らされた少年の整った顔が頭について離れない。
何かがおかしい。
いままで起こったことのないことがこの人生で起こっている。こんなこと些細な問題であるが、こうも繰り返してしまえば変わることが恐怖に感じた。
「………最近ってなんだ?」
俺は昨日もおとといも彼に会っているのだろうか。何度人生を繰り返したところで10歳より遡ることはなかった。俺が彼と会っているのならばそれはもう思い出せないほど遠い昔、一度目の人生でのことだ。
ほんのさっき死んだばかりの俺は強制的にここへリープした。しかし今この瞬間まで生きていた自分がいる。果たして本当に俺は死んだのだろうか。今、本当に自分はここに存在しているのだろうか。
「…全部夢だったらいいのに」
クソつまらない15年なんて早く終えたい。その先を見たい。死ぬために生きたい。俺にとってのハッピーエンドとは何だろう。それは紛れもなく、本当の死だ。生きて25歳で新年を迎えられたら、そのときこそ死ぬことを許されるのではないか。
だから、俺を殺すような人間とは、いやそんな可能性を生むような人間関係自体を絶ってしまいたい。
笑い話にもならないこの数奇な人生。希望なんてどこにもない。求めてもいない。なんら変わりのない生活の結末だけが常に血生臭いのだ。
「あーあ…いい加減終わらせてくれよ、マジで殴り殺すからなあのピエロの野郎。何の目的もなければ何の使命もないだろ。みじん切りして犬に喰わすぞ」
小石を蹴ってそうつぶやいたのは、やけに口達者な幼い声。そんな非力な自分にも、あの道化師にもますます怒りは募るばかりだった。
心細いとは思わない。
それでも、もし。もし自分に全ての事情を知ってくれている人物がいたのならば。一緒に生きてくれる人がいたのならば。
…もう少しはこの地獄を受け入れられたのだろうか。
しかし今を生きるのは何十回と人生を繰り返している死にぞこないに違いない。始まったばかりの果ての見えない人生に、俺は小さな足を踏み出した。
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