第1話 侘しく願う
← 3/48 →
「えー配布した資料に必要なことは全て書いてあるのでそちらを確認しつつ自分で行動するように。高校生や中学生のように我々があなた方個人のために何かすることはありません。スケジュールは自分で組み立て、必要な書類は各自学生課、教務課から手配してください。教科担任だけでなく就活支援センターを有効に活用するように」
収容人数が最大の講義室で遠くのほうにぽつんと教授が見える。遅めに移動したからか、前の席までほぼ埋まり、後ろの席はガラの悪い不良連中で占められている。真ん中よりも少し後ろよりの空いた席を俺は陣取っていた。隣には遅れて講義室へ入って来た男が座っている。
近い。
ただでさえ詰めて座ると肩が触れるほどの狭い間隔なのに、最初に配られた資料を持っていないからかチラチラと俺を窺ってくるのだ。他の奴を頼れと思うが、あいにく端に座る男には隣が俺しかいなかった。
最悪の場所とっちまったな。うんざりと溜息を吐く。意地でも口を聞かないつもりでスマホを取り出すとイヤホンをつけてゲームのログイン画面を開いたが、そのとき手首のあたりをトントンと叩かれた。
人に触られるのなんて本当に久々のことだったから思わず体が震えた。睨みつけるように隣の男を見やると、やたらガタイのいい男が申し訳なさそうに手を合わせてこちらを見ている。その表情が顔全体で申し訳ないと言っていて、思わず顔芸か?と心の中で突っ込んだ。
「何」
片耳のイヤホンを外し鋭く言う。大学に入ってから誰かと話すなんて正直数えられる程度のことだった。
「ごめん、資料見せてくれる?」
言われなくてもわかりきったことだ。無言で資料を男のほうにずらすと、イヤホンをつけ画面に集中した。
外界の音を遮断した世界でオンラインゲームを走りまくる。ゲームに夢中な俺と対照的に隣の男は遅れてきたくせにやけに熱心に話を聞いていた。
やっぱり教職課程なんて取らなきゃよかったな。
どこまでも目立たず、人を寄せ付けず、と人生を突き進んだ結果、俺には陰気なイメージが付きまとうようになった。願ったり叶ったりのそのイメージ像、ついに俺は家族以外の人間との関わりはほぼ持たずにやってくることができた。その家族さえ今では実家を離れたことで疎遠になっている。
なかには俺を同類とみなした孤立した奴が寄ってくることもあったが、そんな群れたい奴らを切って切って切りまくってきたところ、俺はただ性格に難がある男として認識され、自然に独りになった。
願ったり叶ったりだ。幸せな人生だな。
ハッと自分を鼻で笑う。生きられさえすればこちらの勝ちなのだから。だから、これでいいだろう、と脳内に住み着いて消えないピエロに吐き捨てる。ハッピーエンドなんて知らない。でも、俺は今これ以上ないくらい平穏な生活に満足しているのだ。
もそもそとした教授の声はほとんどマイクに拾われず、ぶつぶつと呟く程度にしか聞こえない。結局何を話していたのかまったくわからなかったが、一斉に学生が席を立ち始めたことから説明会が終わったことが分かった。
イヤホンを外し筆記用具を鞄に突っ込み講義室を出る準備をする。そんな俺を見て慌てたように隣の男が俺の手首を掴んだ。
血の気が引くのが分かる。めまいを感じながら男を睨みつけた。
なぜそんなにも躊躇なく人に触れるのか。
「あ、ごめん!あの、これコピーさせてほしいんだけど」
「もう一部もらってくれば」
ひったくるようにしてプリントを奪ったが、出ようにも端に座っているこいつが動かないと俺が出られない。困ったように眉を下げた男には動く気配なんて少しもなかった。微妙な沈黙が流れていく。じれったくてつま先で床を叩いた。
自分の性格のゆがみくらい認識しているが、しゅんとしてみせる男を見ているうちに、これはあまりにも非常識では?と珍しく自分を責めようとしている。目の前の男は申し訳なさそうに小首をかしげた。
「…数学科の浅香だろ?俺、数学科の人見」
それで?だからなんだよ。
言いたい気持ちをぐっとこらえ、人見とやらを見下ろす。
「教授一番に出て行っちゃったから…お礼に飯でも奢るから、な?」
「いい。…他に友達でもいんだろ。早くそこ通してくんない?」
「教職取ってる奴、ほかに知り合いいないんだ。浅香…!」
がしっと両腕を左右から掴まれ、息を飲んで目の前の男を見つめた。次第に心拍数が上がっていくのがわかった。
他人が俺に触れている。これが…これが普通なのか?この距離感が友達同士での普通なのか?俺にまともな友達がいたのなんて何十年前だと思ってるんだよ。頼むから早く離してくれ…!
こわい。こわい、こわい、こわい。
また殺されるのだ。それはもしかしたらコイツかもしれない。きっとまた裏切られる。どんなに信じてもいいことなんてない。お前もどうせ、俺を殺して恍惚と笑うんだ。俺のことなんてこれっぽっちも考えないで、自分の幸せだけを考えて誰かを不幸にする。
耳鳴りで周囲の音が聞こえなくなった。血の流れる音と心臓の音がやけに大きく聞こえる。ぎゅっと目をつむった。
「わ…かった…か、ら」
情けなく震える声がそう言った途端、力のこもった手が緩くなり離れていく。恐る恐る目を開け人見を見ると、安心したかのようにふにゃりと笑っていた。思わず手にしたプリントでひっぱたいてやりたい気分になった。
← 3/48 →