第5話 時に飲まれる


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 俺がたまたま降りた駅は人見の赴任先の高校の最寄り駅だったらしい。人見は楽しそうにふわふわと笑っている。あんな簡単に生きるのが辛いかなんて聞いておいて、そんなこと聞いてもないというような顔で笑うのだ。

 覚えている。俺が人見に漏らしたのは確かにそんな言葉だった。死にたくないが、もう生きたくない、と。誰でもいいから、地獄で構わないから、連れ去ってほしかった。この現実から、この世界から。

 だいたい人を殺すのなら責任をもって地獄まで送り届けてほしいものだ。
 
「よかったなぁ。浅香に会えて」
「……あ、そう」

 ぎこちなく引くつく頬が気持ち悪い。このくらい笑えるようになったはずなのに、どうして人見を前にすると昔のように仏頂面しかできないのだろう。

 小さな居酒屋で酒を飲みながら、人見はぺらぺらと聞きもしない近況を語って聞かせた。上の空でぼんやりと聞き流していれば、黙る俺に人見が視線を向けた。とろけそうな目の色に腹がぞくりとする。
 
「俺、知ってんだ」

 むふふと機嫌よく笑う人見は聞いてくれと顔で言っている。
 
「…何を」

 仕方なく言えば人見がぐっと俺の顔を覗き込み、思わず腰を引いた。
 
「浅香が25歳の大晦日をずっと怖がってたこと」

 冷や汗が流れるのを感じた。気づけば手のひらをきつく握りしめている。
 人見はそんなこと知らないはずだ。子供の下手な嘘のような俺の言葉を信じたにせよ、それはせいぜい何度も俺が殺されているという断片的なこと。

 くらくらする頭で目の前の人見を見据えれば、思いのほか人見は心配そうな顔をしていた。思いつめたような色が見える。

「怖がるって…何を」
「うーん…でもそうなんだろ?」
「………」
「昔俺、浅香の部屋に出入りしてただろ?」

 懐かしむように遠くを眺めて人見が言った。

 そうだ。早朝のバイトが終わった頃に俺がまだ寝ているにも関わらず押しかけてきたり、友達同士で飲んできた帰りにわざわざ俺の家で飲みなおしに来たり…教育実習の期間なんてもっとひどいものだった。毎日のように泊まり込んで俺の睡眠の邪魔をして。

 思い出したらなんだか泣きそうになってしまった。緩みそうになった口元が震えている。

「その時によく浅香の本ちらちら読んでたんだよね。…あんま気づかれないように」
「別に隠れないで堂々と読めばよかったのに」
「…だから、よく見たんだ。ページの端に日付が書きつけてあった。何年の12月31日まであと何年」
「……」
「浅香の字じゃないみたいにぐちゃぐちゃだったから最初はなんて書いてあるのか読めなかったんだけど、そういう書きつけがあったの一冊じゃなかったから」

 さっきまでほんのりと酔いの回った顔を赤くして笑っていたのに、どこか暗い目をして、やっぱり遠くを眺めるように人見が言うのだ。

 そんな書きつけを書いたかと言われれば確証は持てないが、きっとそうなのだろう。時折追い立てられるように不安になることがあったのだ。その焦りに身を任せてそうやって死までのカウントダウンをする。

 しかし俺はそれよりも、人見が今の今までそんなことを覚えていることのほうが衝撃だった。

「浅香は殺されるって言ったよね。でもそれがいつなのかは教えてくれなかった。…もしかしてって思ったんだ」
「そんなの本気にしてるの人見だけだよ」
「浅香、自分がどんな顔であの時俺のこと拒絶したか分かってないだろ」

 あの時。思い出すのも苦痛で仕方ない。

 もういいじゃないか、今更なんだっていうんだよ。俺は人見に人殺しになってほしくなかった。なのになんで今こうして会っている?

 それこそ怖い。こんな偶然があるわけない。

「俺を怖いって言ったあの時の浅香の怯えた顔、よく思い出したよ。なんか自分が未知のウイルスにでも感染したような気分だった」
「もういいだろ。なんでそう突っ込んでくるんだよ」

 荒い声が出たことに自分でもびっくりする。

 なんで笑えないんだよ。やっとうまく生きる方法を見つけたのに、人見の前では何もかもが通じない。

 だいたい人見をこれ以上巻き込みたくない。何も知らないままでいてほしかった。それをぶち壊したのは俺だけど。

「心配なんだよ」

 いくぶん低くなった声で人見がぼそりと呟く。思わず目をぎゅっとつぶって俯いた。

「忘れたの?俺はずっと浅香の味方だって言ったよ。俺だって怖かった」
「………」

 恐る恐る顔を上げれば、そっぽを向いた人見が頬杖をついていた。珍しくか細い声を上げる。

「なぁ、本当に死ぬの?」
「…誰かが俺を殺せば」
「誰かって…誰なんだよ」

 人見かもしれない。と、そんなことを思った。
 透き通った目が俺を見つめる。その目には複雑な表情が浮かんでいた。

 ずっと会いたかったはずなのにな。でも忘れていてほしかった。

「どうすれば浅香は生きていられるの?どうすれば…また俺と話してくれるの?」
「話すって……」

 背中を丸めて上目遣いをしてくる大男から目を逸らした。

「普通に話せば?」

 乗せられているのか、絆されているのか。ただ欲に勝てないだけなのか。

 ただ一つ確信があった。いや、確信したいだけなのかもしれない。

 俺のことは黒木が殺す。必ず黒木が殺す。だから大丈夫。だから、人見のことは何も心配しなくていい。黒木が犯罪者になろうが知ったこっちゃねぇ。

 これが諦めなのか安心なのか分からないが、そんな風に思ってまで手放したくないものだって、俺はまだ持っていた。

 希望なんていらないけれど、そんなもの持つことが怖かったけれど、あとちょっとだから。あとちょっとで人見にも会えなくなるんだから、忘れられてしまうんだから、少しくらい夢を見たい。

「もういいんだよ」
「浅香。俺は浅香に生きていてほしくて」
「じゃあ死なない」

 焦ったように俺の肩を掴んできた人見に気づけばきっぱりと言っていた。人見は泣きそうに顔を歪めた。そういうことじゃない、と蚊の鳴くような声で言われる。

「浅香を変えたのは誰…?」

 項垂れてた人見がぼそりと呟いた。いじけたようなその声は、低く掠れているにも関わらず幼く聞こえた。

 ゆらりと顔を上げた人見が頬に手を伸ばす。昔は振り払ったその手を今は受け入れた。それでも緊張で体は固くなる。手の平には汗がにじんでいた。

「女でもいるの?」

 やけに色っぽく唇が動いたように感じたのは、俺が人見をそういう目で見ているからだろう。ごくりと唾を飲み込んだ。柔らかい目元がスゥっと細められ、射止めるような目つきに変わる。

 ただ人見の目を見つめ数秒が過ぎた。ふっと息を吐いた人見が、無言の俺にしびれを切らしたのか手を離す。大きくてかさついた手のひらが離れれば、やけに寂しく感じられた。

「……次、いつ会える?」

 情けなく眉を垂らして笑った人見には、さっきの鋭い面影など微塵も見当たらなかった。


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