第5話 時に飲まれる


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 気分が悪くなったのは想定外だった。
 一駅分歩いてほんの少し汗をかいた。その熱が冷やされたところで、今度は満員の電車に揺られ、人の熱で窓ガラスが曇るほどの熱気の中、冷や汗をかいた。
 
 体の内側は冷たいのに、外側は汗をかいている。それさえも冷えて、なのに取り巻く空気が鬱陶しいくらいに熱い。

 目の前がクラクラとしてくる。徐々に視界がチカチカと白黒に光り始めたとき、身の危険を感じた。押し出されるままにまったく知らない駅で降りることになった。

 なんとか人にぶつかりながらベンチに座り込む。深呼吸を繰り返していれば、頭痛が引き徐々に目の前がはっきりとしてきた。項垂れ頭を抱えていたが、地面に吐き捨てられたガムがはっきりと見えてきたところで、体の表面に浮いた気持ち悪い汗の感覚がなくなっていくのを感じた。

 そのまま頭を上げる気になれずマフラーに顔を埋めて目をつむる。次の電車がもうすぐ来るのか、アナウンスが聞こえた。話声、話声、雑音。足音。笑い声。

 特急列車が通り過ぎた。全ての音がかき消され、束の間俺は一人になった。

 風を切る轟音と共にそれは突然おとずれたのだった。

「どうしたの?」

 やけにほんわりとした声だった。薄目を開き、ちらりと足元を見れば目の前に綺麗な革靴が映っている。両足の内側が微かにすり減っていた。
 
「そんなところで寝ないで」

 寝てねーし。
 顔を上げる気にはなれず微動だにしない俺と同じように、目の前に突っ立った男もまた一歩も動くことがなかった。
 
「まったく…ほら、浅香」

 宥めるような声が降ってきたと思ったら、視線の先に明るく透き通った茶色の瞳が入り込んだ。屈みこんだ男が俺の顔を覗き込んでいる。柔らかそうな色素の薄い髪に、少し太めのたれ眉。柔らかい目元はもうずっと昔に俺が失ったものの一つで。
 
「っ……!」

 思わず顔を上げのけぞった。目を見開き男を見つめる。
 
「……ひ…とみ…?」

 上ずった声が漏れ、自分の口から出た名前に自分で戸惑った。膝を抱えてしゃがんだ人見は俺を見上げると目尻を垂れて笑い、嬉しそうに頷いた。そんな顔を見て心臓が掴まれたように痛くなる。
 
 頬が強張り笑うことも出来ない。ただ固まったように人見を見つめる。

 時間が止まったようだった。俺と人見しか存在していないようだった。人見の唇が開くのがやけにゆっくりに感じられる。

「ねぇ、まだ生きるのが辛い?」

 ふにゃりと笑って首を傾げた人見は、相変わらずほんわりとした口調で俺を見つめてゆったりとそう言った。

 クリスマスのちょうど一週間前の出来事だ。


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