第6話 ナイフを握って抱きしめて


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「享幸くん!」
「っ!」

 ぱし、と手首を掴まれる。振り返ると、髪が少し乱れた黒木が大きく息をしていた。掴まれた手首から全身に、ぞわりと鳥肌が立つ。黒木を見上げる俺は今どんな顔をしているのだろう。

 笑えない。黒木の前じゃとっくに表面を繕うことなんて当たり前になっていたのに。そうすることで黒木に手の内を決してさらさず、上に立っているような気分になっていたのに。

「あ…あ、」

 半開きになった口から言葉にもならない音が零れ落ちる。怖かった。

「何回連絡しても返事は来ないし、何かあったのかと…」

 はぁっと大きく息を吐き出した黒木が安心したように肩を落とし、力の入らない俺の手を引く。恐ろしさに馬鹿になった。ナイフでも持って振り回したい。誰かに殺されるくらいなら、どうせ誰かを犯罪者にするなら…

 それなら俺が犯罪者になればいいじゃないか。俺が誰かを殺せばいいじゃないか。殺されるのが怖いなら、やり返せばいい。それで守られるものがあるなら…?それはなんだ。俺の命は、人生はそんなにも大事か?

 ああ、もうわからない。助けて。だれか助けて。

 手を引かれるがままに黒木の車に乗せられた。ドアを開けられ、シートベルトまで引っ張って渡される。まるで召使いに世話でもされているかのような気分だった。

 車を動かした黒木の向かう先はおそらく黒木の自宅だろう。ちらりと隣を見ると、もうすっかりいつもと変わらない表情の黒木がいた。心臓はバクバクとなり止まない。いますぐ車から降りたい気分だ。

 だってこのまま海にでも飛び込まれたら?ガードレールを突っ切って崖に突っ込まれたら?
 無理心中なんていつ以来だ。

 寒さのせいだけではなく、手が震えていた。悟られまいと力をこめるも、バックミラーには獣に食べらる直前とでもいうような自分の顔が映っていた。
 黒木は上機嫌だ。

「黒木は…なんで俺を殺すの?」

 掠れた声が漏れる。黒木は前を向いたまま眉を上げて少し驚いた。

「享幸くんが幸せでいれるために殺します」

 意味が分からない。
 左手を伸ばした黒木が俺の右手を握った。俺が死にたくないって言ったらどうするのだろう。そんなに俺に幸せでいてほしいなら、聞き入れてくれるのだろうか。

「黒木はどうするの?俺を殺して、それで生き続けるの?」
「僕は常にいますよ。享幸くんのいるところに」

 ふふふ、と黒木が笑った。握られた手に力がこもる。
 どうして今の今まで何の行動も起こさなかったんだ。俺はとっくに黒木が俺を殺すことを分かっていたはずだ。死にたくないなら黒木から離れなければいけなかったのだ。

 いつでも黒木に対しては上位に立っている気で驕って勘違いをしていた。つい最近まで黒木の考えも、殺されることも、全てを受け入れてわかりきった気になっていたのだから。

 自分がおかしかった。黒木だけが俺の居場所のような気がしてしまっていて、そのことに気がついたのは人見と再会してからだ。
 車が止まる。ドアマンのように黒木が助手席のドアを開け、そのまま手を引かれて見慣れた部屋へ通された。ガタガタと震える俺に気がついた黒木はそっと眉をひそめ、風呂場へ行った。

「今お湯を溜めているので、あったまって来てください」

 そう言われるがままに風呂場へ逃げ込んだ。洗面所で服を脱ぎながら、ポケットに入れっぱなしになっていたスマートフォンを開くと、人見からの連絡が入っていた。スマートフォンを握りしめ額にこすりつけるようにしてうずくまる。

「助けて…どうしよう…」

 殺されるなんて慣れっこだ。こんな恐怖だって何度も経験してる。今か今かと殺される瞬間を恐れて過ごす大晦日。

 いつだって絶望していた。期待をしていないから、思い残すことがあるわけでもなかった。
 だけど、今回は違う。

 俺はいつだって浅香の味方だから。

 今さら人見の声が蘇った。柔らかくほんわりとしてるけれど、あの時ばかりはひどく緊張していた。忘れもしない、2年前の夏。

 死にたくない。一緒にいてほしい。俺には人見が全てなのだから。

 目に痛い液晶画面を間近に見つめ唇を噛みしめた。震える指が通知をタップする。既読をつけたところで、俺はいつだって人見の連絡を気まぐれで見て気まぐれで返信していたのだから、意味があるわけではない。

 長いこと画面と向き合った。唇にはとっくに血がにじんでいた。
 目をぎゅっとつむりスマートフォンを手放す。

 俺に人見に助けを求める権利はあるのか?俺の、俺だけのこの呪いに人見を巻き込むというのか?

 視界はとっくに滲んで見えなくなっていた。鼻が詰まって息ができない。

 静まり返った洗面所で鼻をすする音を聞きたくなくて、バスルームへ逃げ込み、シャワーの音で全てをかき消した。

「ごめんなさい…ごめんなさい……ごめんなさい…」

 自分でも何に対して謝っているのか分からなかった。とめどなく溢れてくる涙をシャワーが流していく。口から漏れる言葉も同じように、壊れた蛇口のように止まらなかった。

 未来が見たかった。
 人見と共にいる未来が、見たかった。




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