← 5/5 



 気づけばすっかり季節も変わっていた。秋物だけじゃもう寒い。
 キャンパスのイチョウ並木も黄色に色づき、地面に落ちた銀杏を容赦なく自転車で走り抜ける遅刻者が踏みつぶしていった。
 悪臭漂う情緒的な街道に秋の風が吹き抜ける。マフラーをするにはまだ早いが、短くした襟足が涼しくて寒かった。地面に落ちた葉が風でいくらか巻き上げられる。

 遅刻ぎりぎりで寮を飛び出したはいいものの、大学についてから休講になっていたことを知って無駄足を踏んでしまった。次の講義まではまだ時間もある。向かった先は喫煙所だった。
 一限が始まったばかりの時間だから、人なんてきっといないだろう。そう思っていたのに、目に入った喫煙所には、先客がいるようだった。その陰を見て、場所を変えようか逡巡する。
 でもやっぱり裏門近くの喫煙所まで歩くのも面倒くさい。諦めて、目を合わせないように先客の反対側の灰皿に近づいた。

 煙草をくわえ、ライターを取り出す。カチリ、と火花は散っても火がつかなかった。煙草をくわえたまま心の中で溜息を吐く。もうガスが切れてたかもしれない。カチ、カチ、と空回る音が何度か続いた。こんなことで吸えずに出ていくなんてダサすぎる。せめて人がいなければよかったのに。

「ありゃ、珍しいね。お前のライターがつかないの」
「……え」

 聞き覚えのある声に動作が止まった。振り向くと同時に、胸元にライターが投げつけられる。慌てて受け止め手のひらを開くと、濃い青色の安っぽいライターが収まっていた。どこにでも売ってるそれに、かわいらしい白いウサギのシールが貼ってある。何かの景品でもらったものを講義中に友達が勝手に張り付けたものだ。ほとんど減っていなかったガスは、もう残り少なくなっている。
 火をつけるのも忘れて顔を上げた。

「よぉ、元気?」
「え……な、んで、いるの?」

 幽霊でも見たかのように目を見開いて、掠れる声でそう聞けば、男は人懐っこい笑顔を浮かべた。ただでさえ童顔なのにそんな笑い方をするもんだから、人差し指と中指に挟まれた煙草が浮いている。

「同じ大学だったんだなぁ。お前最近全っ然コンビニ来てくれねぇんだもん。探しちゃったぁ、ダーリン?」

 にやりと笑いながらこっちへ来た男は、肌が触れそうなほど顔をぐっと近づけると、甘い煙を吐き出した。上品でクセのあるバニラの匂いがむせかえるくらいに鼻先で香る。微かに湿った唇が、ポカンと空いた口に触れた。
 挨拶のようなキスは、まったく性的ではなくて、それがやっぱり心地よかった。

「あ、そうだ。君に一個報告。ほんとはすぐにでもしたかったんだけど、来ねぇんだもん」

 一歩後ろに下がると、男は肩をすくめて笑った。見慣れないと思っていたのは、髪色をずいぶん暗く落としてしていたのと、衣替えを終えていたからだろう。ハーフパンツにTシャツが常だったのに、もう肌が見えるのは首から上くらいだ。夏の日焼けが引いたのか、最後に会ったときより肌が白くなっている。

「なんと、一か月で振られちった」

 そう言ってへへへ、と笑うのだ。

「……奇遇だね。俺も振られちゃった」
「あはっ、ついに愛想つかされた? どうせ君のことだから俺と似たような理由で振られたんでしょ」

 力の抜けた指から落ちそうになった煙草を男が受け止める。呆れたような顔で咥えさせられた。ついでに手に握っていたライターも没収され、火のついた煙草が近づけられる。長いまつげと綺麗な顔に気を取られながら息を吸うと、チリと音を立て火がついた。
 喉に痛い煙をいっぱいに吸う。寝起きだからか、ちょっと苦しい。

「だけどまぁ、ほら。君と何でもない関係を突き詰めるのもいいかなって」

 友達でもない。恋人でもない。
 きっと誰でもない、ただ世界を共有してくれる何でもない関係。

 横に並んだ男が空に向かってプカプカ煙を吐き出した。わっかを作った白い煙が雲みたいに宙に浮き、歪に崩れて溶けていく。

「……夜光虫、見に行きたいな」
「もうこの時期じゃ見れねぇよ」

 クスクス笑う男にイラっとして煙を吹きかける。楽しそうにケラケラと笑った。

「春になったら行こうぜ」
「……せめて、こうさ、名前くらいは知ってていいんじゃねぇの?」

 眉をひそめてそう言えば、男はにやりと笑った。

「それもそうだね。きょーたろくん?」
「……おい、」

 なんでテメーは知ってんだよ。

 探しちゃった、と笑う声が思わず脳裏に蘇った。


おしまい


← 5/5 

目次
Top