1.残り香に馳せる
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「愛と自我?」
昼時を外れたファミレスで、ちゃちいBGMと家族連れの和やかな会話がさざ波のように鼓膜を震わす。そんなありふれた日常シーンにしては堅苦しい言葉に思わず聞き返した。
向かいに座る男はふわふわの金髪を揺らしながら、首を傾げて試すように俺を見上げている。
「ごめん、ちょっと哲学すぎてわかんねぇわ。つかまず何の話なん?」
「愛と自我」
「聞いた俺が馬鹿だったわ」
ずぞぞ、と氷が解けただけのコップの中身を吸い込む。かれこれ小1時間はこのアホな小学生みたいな話に付き合わされていた。
どうして人間は空を飛べないの?的な話から気がつけばアイとジガとやらだ。意味がわからん。
休日に急に呼び出されたと思ったら、飯を食わせろと強いられ、飯ではなく胸やけしようなクソデカパフェを食べ始めるこの男。ちょっと姉婿の使い勝手が荒すぎやしませんかね?
そんな俺の気持ちなどいざ知らず、義弟は熱烈に自身の主張を語るわ語る。相変わらず頭の良さが斜め上に突き抜けている。
「世の中自己愛に溢れてるじゃないですか。どうして人は自分を愛さずにはいられ」
「おい大丈夫か。ちゃんと水分取ってるか? 熱中症じゃないよな」
「なんだよノリ悪いなぁ。ようちゃんと恋バナしようと思っただけなのに」
なんつー次元の恋バナだよ。
いつにも増してぽやんとした目をして、傷んだ金髪をくるくるといじる。若干引きつった顔で向かいに座る年の離れた義弟を見れば、ぷいと頬を膨らませて唇を尖らせた。あ、すげーめっちゃ可愛くない。よかったいつもの悟利くんだ。
「ようちゃんはさぁ、俺のことが大好きじゃん?」
「なんだそれ、おこがましいな。自分で言うなよ」
いや、そもそもいつ俺がそんなこと言ったよ。俺が好きなのはお前じゃねぇ。お前の姉ちゃんだわ。
「俺がかわいいようちゃんは、そんな自分がかわいいと思う? うわ、ないわ。いい年してそんなイタイこと思ってる? え、ひょっとしてようちゃんも自己愛で自惚れてる雑魚と一緒?」
「え、何。何で急にそんな煽ってくんの」
すっかり中身のなくなったグラスから結露がたらりと落ちた。下ろされたブラインドの隙間から背中にあたる日差しが暑い。悟利くんがすい、と手を動かして俺の手をにぎにぎと弄った。
「ようちゃんは俺のこと大好きだよね」
「えー、うーん。ソウダネ」
「なにそれ。俺はこんなにようちゃんのこと大好きなのに。感情こもってなさすぎじゃない? 俺のこと大好きだよね」
有無を言わせない視線で黒い瞳がじっと俺を見つめている。ちょっとコワイ。
「俺は永遠の愛というものを栞里さんに誓っているので」
「はぁ? 俺のがようちゃんより姉ちゃんのこと好きだし!」
めんどくせぇな、このシスコン。そういえば栞里も重度のブラコンだったな。
悟利くんに握られた左手からきらりと銀色の光が反射した。薬指にはめられた指輪は、今は悟利くんの手の温度でぬるく温まっている。
悟利くんが俺の手をくねくねと、ねじねじといじくって遊んでいる。やがて絡められた手がぎゅっと握られた。
恋人繋ぎをした手が肘をついて目の高さに持って来られる。絡み合った男と男の手の向こうで、嫁と似てもつかない義弟が垂れ目をさらに垂らせてにこっと笑うのが見えた。
平凡な顔立ちの嫁と嫁家族のなかで異色を放つ好男子。昔はまさしく天使のような面持ちだったが、成長してもその中性的な容姿は崩れることなく、そこにさらに色気が加わった。どれだけ前世で徳を積めば、こんな神に愛されていたような顔になるのだろう。
だけど、神は肝心なところで手を抜いたらしい。
「俺はねぇ、自己愛なんてないよ。自我もイドも全部ようちゃんにあげる」
どうせ愛してやるなら、最後まで愛情こめて造りやがれ。いったい前世でどれだけの罪を重ねれば、三十路の既婚リーマンにぞっこんな残念な男になってしまうのだ。ちょっと神様、顔だけ作って満足してない?
悟利くんは癒し系と呼ばれるほんにゃりとした顔を崩すと、俺の手を両手で包み込んだ。
「俺はようちゃんが大好きだから」
そう言って綺麗な顔でほほ笑むのだ。
まったく頭が痛い。
嫁の弟が俺のことを好きすぎる件について。俺は一体どうしたらいいんでしょうか。
そりゃ俺だって懐いてくれる義弟が可愛くないわけではないけれど。悟利くんに彼女ができたとき大泣きしていたブラコンの嫁的には、弟が旦那を好きだというのはどうなんですかね? アリよりのナシ?
いや、ナシよりだろ。
いい加減この男の進むべき道を正してやりたい。こんなにも綺麗な顔をしているのだから、好きになる子なんてたくさんいるだろうに。なぜよりにもよって姉の旦那にこんな猛アタックをしているのだ。知ってると思うけど俺、既婚男性よ? お相手は君のお姉さんだよ?
せっかくの遊び盛りの学生時代を姉婿追いかけて棒に振るなんてもったいなすぎるだろ。ついこの間20になったばかりの男の子がこれでいいのか?
「ん、んんっ! 悟利くん、そろそろ帰らない?」
「えぇ! お腹空いたんだけど!」
「さっきでけぇパフェ食ってたじゃん」
「それもう二時間前の話だよ!」
そりゃお前がどうでもいい話をペチャクチャと話してるからだろ。
俺の手を放り投げ、目を丸くして身を乗り出した悟利くんを見ていると、まるで俺のほうが間違ってるみたいに思えてくる。きゅうん、と目を潤ませる悟利くんに罪悪感が湧いてきて思わず目を背けた。
俺は明日、休日出勤なんだ。早く帰ってゲームして寝てぇんだよ。
「ねぇあと一品!」
「……うーん、まぁ一品だけなら。ちゃんと夕飯は食べるんだぞ」
「うん」
そんな上目遣いで見られたら許しちゃうだろうが。メニューを取り出すと眉を寄せて悩み始めた悟利くんを見て溜息がこぼれる。こうやって結局甘やかしちゃうのがいけないのだろうか。
何を頼むか決まったらしい悟利くんがベルを鳴らした。注文を取りに来た店員さんを見上げ、桜色の爪をすすすと動かしメニューを指さす。薄赤い唇が小さく開いた。
「とろける3種のチーズとふんわり卵の肉厚ジューシースペシャルカツ丼特盛で」
おい待て。人の金だからって一番高いの注文しやがったな。
してやったりと笑う義弟はまったくもって嫁とは似てないのに、小柄なくせにやけに大食いなところがどうにも重なってしょうがなかった。ずきん、と頭が一瞬痛む。胸を押されたように息が詰まった
背中にあたる陽射しが翳る。夕暮れ時を迎え、日は沈みつつあった。クーラーの効いた店内で、安っぽいBGMが能天気に流れている。忙しない会話、子どもの笑い声、ざわめき。
蜩の鳴く声を聴いた。夏だった。
来月で嫁が失踪して一年になる。
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