1.残り香に馳せる


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 よくある話なのかもしれない。

 慣れない生活への不安や戸惑い、漠然とした将来への恐れ。他にも俺への不満だとか、そういうの。

 結婚一年目にして最愛の妻、栞里が突然姿を消した。

 そんな嫁はいまだに帰ってくることなく、義実家もその消息を掴めずにいた。残された俺は心配で不安で、飯も喉を通らず――なんて日々は通り過ぎた。今の俺にできることなど何もないのだから。

 俺はただ、栞里が安心して帰ってこれるように真面目に働き、嫁の愛した庭木の手入れをし、そして今日も義弟からの愛を一心不乱に受け流す。
 それがおかえりのない家へ帰る俺の日常だ。


『何時に仕事終わるの?』
『ねぇ無視しないでよ』
『見てるでしょ』
『返事しないなら、今から行くよ』
『ずっと待ってるからね』
『ようちゃん、ひどい』

 しかし訂正。嫁のおかえりは聞けないが、強制義弟おかえりルートが待っているのである。

 いや、怖い。怖いから。
 これがあれか。メンヘラかまってちゃんってやつなのか!?

 定時を少し過ぎた頃、休憩がてらスマートフォンを見てみれば、何かの怨念のようなメッセージの応酬が入っていた。トイレの個室でスマホ片手に頭を抱える。

「どんだけ暇なんだ悟利くん……」

 大学生って今の時期ちょうど期末試験とかじゃない? もっとも自由人な彼がちゃんと大学に行っているのかなんて知らないけど。
 そう思っている間にも、ピコンポコンと通知を知らせる音は鳴り止まない。

『もう定時過ぎてるよ』
『駐車場で待ってるからね。暑いから早く来て』

 来てるし! しかも当然のように催促してやがる!

 こうなったら流石に放っておくわけにもいかない。悟利くんを真夏の外に何時間も待たせたなんて、嫁にバレたらブッコロ案件だ。あのブラコンシスコン兄弟を怒らせるのはなかなかに恐ろしいからな。

 悟利くんはこうやってときたま仕事終わりの俺に無理矢理飯を奢らせたり、都合よく足にしたりする。これまでで一番苦痛だったのは去年のクリスマスだ。

 イルミネーションで有名なカップルの聖地へ幼気な少年を連れて行かされた三十路の気持ちよ。わかるかね、悟利くん。

 カップルの大渋滞に揉まれながら心の中で「違います浮気じゃないんです。違います犯罪じゃないんです」と言い聞かせ続けた。イルミネーションくらい大学の友達と一緒に見に行ってほしい。

 なんてことを思い出しながら急いでエントランスへ降りていけば、棒付きキャンディを咥えた件の義弟がちょこんと座っていた。黙っていればかわいいのに……じゃない、そうじゃない。

「ん、ようちゃーん!」
「え、なんでこっちにいるの」
「駐車場で待ってたんだけど、ロビーで涼んでなって声かけられた!」

 まぁそりゃ気になりますよね。ド金髪に緩くひっかけたパーカーといい、ぱっと見ではコンビニの前でたむろしてるようなDQNだと思うだろう。会社の敷地にそんな奴がいたら俺だってうわぁと思う。

 しかし悟利くんはDQNと呼ぶには上品すぎるし、神聖さすら感じさせるほど綺麗な顔立ちだ。よもや天使。もはや妖精さん。というのは弟を愛してやまなかった嫁の口癖。

「で、何の用?」
「えぇ〜せっかくかわいい悟利くんが会いにきてあげたのに、冷たいなぁ」

 ふわふわと笑いながら、悟利くんがガリっと音をたててくわえていた飴をかみ砕いた。見た目はファンシーなのに出てくる音の治安が悪い。お義兄さん、コワイ。

「悟利くん飴好きだったっけ」

 俺はこんなにも棒付きキャンディの似合う成人男性なんて見たことがないぞ。あまりにも似合っていたから思わず聞いてしまった。
 悟利くんはあざとく首を傾げると、目線で事務の女の子たちを指した。

「くれたから」
「はぁん」

 こんなに綺麗な子がちょろちょろしてたらそりゃ気になっちゃうよな。飴をあげるような年齢ではないのだけれど。悟利くんは愛想もいいから、きっとふにゃふにゃの笑顔でお礼を言うのだろう。

 ぼぉっと事務の女の子が髪をかき上げる仕草を見ていれば、悟利くんはさらっと俺の手を掴み、すたすたと歩きだしてしまった。

「おわっ、ちょ、今日は本当に何? ちなみに今日の俺の手持ちは2000円です」
「ケッ、しけてんな。まぁいいや、デートしよ」

 ヤンキーかよ。そもそも悟利くんの柔らかふにゃふにゃボイスじゃ全然似合わないな。こんな言葉遣いをしたなんて、姉ちゃんが知ったら悲しむぞ。

「コラ、そんな言葉遣いをするんじゃありません」
「いいから、車出して」
「お前なぁ、俺はアッシーじゃねぇぞ」

 もはやこの子、俺のこと歩く財布とかタクシーかなんかと勘違いしてんじゃねぇのか?昔から俺に対してだけ人使いの荒い子だったが、栞里がいなくなってからそれは日に日に悪化している。

「なに、アッシー? ようちゃんUMAなの?」
「それはネッシー」
「はい、乗って」

 開けて、ではなく乗って、である。俺の車なんだけどなぁ。
 ここまで来てしまったらもう付き合うしかない。幸い今日は金曜日だ。明日の心配をする必要はない。


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