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 脱力して倒れ込んで一体どれだけの時間が経っただろう。ベランダから見上げる夜の闇は曇っていた。明かりもついていない部屋の中、藍にそっと近寄る足音がある。ハッとして起き上がり、カーテンに身を隠した。

「……」
「おい」
「……」
「……藍」

 初めて名前を呼ばれた。迅だった。無視したかった。だっていつも無視するじゃないか。どうせいいことなんてない。ろくでもないことを考えてるんだ。この前の零みたいに襲ってくるかもしれない。

「……お前、親父の部屋を荒らしただろう」

 カーテンにくるまり出てくる気配のない藍を察して、迅はそれ以上近づいてこようとはしなかった。暗がりのせいでうまく表情が見えない。それでも声の暗さがその表情を表していた。迅は疲れ果てた声をしていた。

「家中こんなにして……お前の尻ぬぐいを兄貴がしてる」

 尻ぬぐい? そんなことをしてもらうようなことなんてしていない。

 迅が屈んで、床に落ちていた注射器を拾った。藍はカーテンを握りしめる。

 いつの間に兄が帰っていたのだろう。すっかり夜になっているが、気がつかなかった。なんだか家の中がうるさい。怒鳴り声が聞こえる。物が割れる音が聞こえる。それが父と零の声だと気がつくのに時間がかかった。ぱっとカーテンから顔を出し迅を見上げる。

「お、お父さん? お父さん、帰ってるの?」
「……帰ってるよ」

 迅は逃げるように藍から視線を逸らし、髪をかき回しながら言った。何かに怯えているような、戸惑っているような、途方に暮れているようでもあった。

 父と兄、3人が揃っていることは滅多にない。たいてい父がいるときは兄が帰らないし、父が帰らない日や仕事に行っている日中に兄は帰ってくる。思えば、意図的に同じ空間にいることを避けているようでもあった。

「お父さん……」

 立ちあがった藍の腕を迅が掴む。びくりと震え、藍は息を飲んで立ち尽くした。殴られるんじゃないか、と足がすくむ。

 それでも早く父のところへ行かなければ、と気持ちは急いていた。どれだけ探しても見つけられなかった注射をやっと、打ってもらえる。早く父のところへ行かないと。早くお兄さんに会わないと。会わないと……

「……」

 迅は無言だった。藍の細い腕を握り込まれてしまえば、その手を振り払うことなどできない。藍はじっと迅を睨みつけていたが、迅は一向に藍と目を合わせようとしなかった。そのことに苛ついて自由な足で迅を蹴る。びくともしない迅に、藍は次第に虚しくなってきた。

「離せよ! 離せって! ねえ!」
「……」

 少しも力のこもっていない蹴りを避けることなく受けながら、迅は困ったように眉をひそめていた。
 蹴っても蹴っても逃げ出すことなんてできない。こうやって、また邪魔をするんだ。迅のせいでお兄さんに会えない。お父さんに会わせてくれない。いじわる。

「うぅ……っ」
「藍、何もしないから大人しくしろ」
「っうるさい!」

 早くちょうだい。注射。注射。離してよ。

 迅に片腕を掴まれたまま、暴れまわる藍が床を叩く音に加えて、廊下でドアが開く音がした。微かな足音の後、リビングの扉が開き零が入ってくる。ベランダ側で暴れる藍を見つけると、元から細い目をさらに細めて笑った。
雲がかかっていた月が顔を見せたようだった。月明かりで部屋の中が照らされる。零に気が付き目を吊り上げた藍は、その顔を見るとぴくりと肩を震わせて口を開けたまま動きを止めた。

「あ、迅もいたの? ちょうどよかった」

 へらりと笑い歩いてくる零の表情はまったくいつもと変わりなかったが、その頬は赤く腫れあがり、唇は切れ、片方の目元は青く変色している。くしゃくしゃになった髪の毛は四方へぴょんぴょん飛び跳ねていた。そんな零を見て藍が半歩後ずさる。

「な、なにそれ……」
「んー? 喧嘩だよ、なに、気にしないで」

 零の視線は迅の握った注射器へと移った。続いて藍の腕へと目を落とす。

「落ち着いてるね」

 低くそう呟けば、そんな零の声を拾った迅が同じようにぼそりと答えた。

「この惨状見てそれが言えるか? 親父は?」
「散々だったけど、殴り疲れたみたいで自分で打ってたよ」

 兄二人がこそこそと藍の分からない話をしている。非常に不快だった。藍は迅に掴まれた腕をもう一度振りほどこうもがいたが、太く筋肉質な迅の腕に敵うはずもなかった。

 ぼそぼそと話す兄二人はもう藍のことを見ていない。まただ。また藍の分からない話を藍の前でしている。

 自分のことのような気がした。

 この二人は今、藍のことを話してる。きっと悪口だ。注射ができなくてこんなになってる藍を見て笑ってる。

「うるさい、うるさい、うるさい!」
「っ、藍」
「うるさい!!」
「大丈夫だよ、藍。ごめん」
「っうるさい!」

 緩んだ迅の手から腕を振りほどく。両手で耳を塞いで、二人から飛びのいた。カーテンが音を立てる。もう夜だ。魔法使いがやってくるときと同じ景色のはずなのに、幻のようにきらきらとした景色はそこにはなく、灰色に霞んだ部屋の光景が目に映る。

 零と迅の大きな影がぬらりと立っている。なんだか悪魔のようだった。

 零なのか、迅なのか、もう見分けのつかない黒い影が藍に向かって手を伸ばしてくる。恐怖なのか怒りなのか、どちらとも言えない感情が爆発して、気づけば藍は肺の底から絶叫していた。喉がじんとする。朦朧とした頭に響く声が自分のものと認識するのに時間がかかった。どうしてこんな声が自分の喉から出ているのかわからなかった。頭に血が上って、涙と鼻水がたまってクラクラする。

「来るな! 来るな! 離せよ! 俺のこと嫌いなんだろ!? 俺のこと騙して笑ってるんだ、お兄ちゃん二人してグルなんだろ!」

 耳を塞いで座り込む。それでも零なのか迅なのか区別のつかない声が聞こえる。笑ってる? わからない。くすくす、けらけら……

「っ!?」

 腕を掴まれ、耳を塞いでいた片腕が離される。ひ、と悲鳴が喉奥で鳴った。

「迅、それは……!」
「もうこんなん見てらんねえだろ。いつまでこんなに苦しませてれば」
「あ、あ、離して!」

 迅に掴まれた腕が尋常じゃない震え方をしている。ちらりと見えた零の顔は道に迷って親を見失った子どものようで、見たことがないほど弱々しかった。けれどそんなことは藍にとってはどうでもいい。目の前の恐怖だけが全てだった。

「藍、大人しくしてくれ」

 聞き慣れない迅の声が藍の名前を呼ぶ。現実から目を逸らすようにぎゅっと目を瞑れば、腕にぷつりと痛みを感じた。ハッとして迅を見上げる。迅が藍の腕に注射針を刺したところだった。


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