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シリンジの中身は空だった。微かな水滴がついているように見える。しかし肝心の注射針が見当たらない。
藍は兄二人が家を空けたのを見計らって、父の部屋を探し回った。しかし、見つからない。どこを探しても見つからない。かろうじて空になったシリンジがゴミ箱の中から見つかり、藍はとびつくようにしてシリンジを握りしめた。ゴミ箱の中身を床にひっくり返して、必死になって注射針を探す。
「ない……ない……なんで!? なんでよ!!」
逸る気持ちに追い詰められたように、藍は部屋中のものをひっかきまわした。お兄さんに会いたい。
どうしてこんなに魔法使いに会いたいのか分からなくなった。けれど、心の底から渇望している。我を忘れてただ貪欲に求めている。
父は笑ってくれない。唯一藍が父を笑顔にできたのは、あの夜な夜な身体を使われる暴力的とも呼べる行為だった。だけど今はそれすら出来ない。だって父がいないから。零は藍を虐めてくる。一緒にご飯も食べてくれない。迅は藍と話してくれない。きっと勉強だって教えてくれない。
そうやって考えたら、この家で藍の家族とも呼べる人間は魔法使いのお兄さんなのではないかと思った。魔法使いなら藍の話を聞いて、頭を撫でて、きっとご飯だって一緒に食べてくれる。
注射針はどれだけ探しても見つからなかった。使用済みのシリンジだけがいくつか出てきた。藍はそれを握りしめて、父の部屋を後にした。
廊下には兄宛ての荷物が置いてある。それが怪しいと思った。きっと零は、迅は、藍を虐めるために注射針を隠している。きっとこのダンボールの中に入っているのだ。隠されているのだ。
ガムテープで補強されたダンボールを開けるのに手間取った。日が傾いてきている。ベランダを照らす西日が廊下にまで差し込んできていた。父はいつ帰ってくるのだろうか。兄はいつ帰ってくるのだろうか。早くしないと。
「……!」
かきむしるようにして開けたダンボールの中には何だかよくわからない物がたくさん入っている。大量のガラクタのようなものに混じって一つ、筆箱のようなポーチがあった。すかさずそのポーチのジッパーを開けると、探し続けていた注射針がいくつも入っている。
「あった……! やった!」
やっぱり隠してたんだ、そんな怒りもすぐにかき消える。注射針の一つを掴むと持っていたシリンジへいい加減につけた。合っているのかなんてわからない。いつも父がしているのを思い出しながら見よう見まねで取り付ける。藍の目にはもう、目の前の注射針しか映っていなかった。
しかしはた、と気づく。
注射器を用意できても中身がない。藍はあの注射器の中身がなんなのか知らなかった。きっとよくないものなのだろう、ということは頭のどこかで理解している。でもそんなことどうだっていい。
透明な液体。父はいつもどうしていたっけ。なにかを混ぜていた気がする。注射器を手でこすったり握ったりしていた。
目の高さに注射器を掲げて見る。中が少し結露していた。これでいいや、と諦める。魔法使いは昼間にも出てきてやらないことはない、なんて言っていた。だったらきっと来てくれる。一緒に願ってくれたじゃないか。藍のことを考えてくれた。藍の幸せを願ってくれた。
藍はぱたぱたと台所へ走った。注射器の中身の足りない分を水で補おうとした。
たっぷりと満たされた注射器を浅く呼吸をしながら見つめる。いざ、腕に刺そうと思って、怖くなった。やっぱり苦手だ。両手が震える。
傾いた陽は先ほどよりも強い光を反射させている。藍の青い肌がオレンジに染まり、ベランダから見える空は真っ赤に燃えていた。
「会えるよね、会えるよね……お兄さん」
興奮で動悸がしていた。父がするように腕をぎゅっと縛り、血管が浮き上がるのを荒い息を吐きながら眺めた。がたがた震えながら、注射針を押し付ける。水の中に赤い血液がぶわりと浮いて、筆を洗ったように水の中に溶けていった。
「はっ……はっ……」
汗が目に入る。沁みて痛かったのか、たらたらと涙が鼻を伝って流れていった。
5時のチャイムが響き渡る。夕焼け小焼けのメロディがカラスの鳴き声と共に寂しく聞こえた。
「っ、なんで……」
あの背筋が浮くような感覚はやってこない。パッと視界が明るくなる感覚も、力がみなぎってくるような感覚も、なんでもできるような多幸感もやってこない。
真夜中の鐘は?
窓の外は真っ赤に染まってる。どうして? なんで出てきてくれないの?
藍はもう一度血液を吸った。ぶわりと赤が舞う。注射器を押す。刺して、抜いて、刺して、抜いて刺して……
頭に血が上り、全速力で走ってきたみたいに息が上がる。
「っなんでなんでなんでなんで! 出てきてよお兄ちゃん!!」
悲痛な叫びは届かない。
日が暮れた青い部屋で腕に針を抜いては刺している。荒らされた部屋に一人だった。
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