1/10 →
最悪な日ってあるよね。例えば止んだばかりの雨に油断して傘を持たずに家を出たら瞬く間に大雨になったり、折り畳み傘があるから大丈夫って調子に乗ったら傘の骨が折れていたり。念入りにコンシーラーで肌を整えたのに、汗と湿気のダブルコンボでドロドロの肌になりかわっていたり。
いつもは行かない食堂で飲んだ味噌汁が海水並みにしょっぱかったり、とかさ。
そんな最悪な日は間違っても誰かに顔を覗き込まれてはならない。ましてや衣笠に話しかけられるなんて以ての外だ。
だってこんな顔を見られたらどんどん悲しくなるだろう?
「不味いね、この味噌汁」
整った眉がきゅ、とひそめられた。昼休み前の食堂は閑散としていて、期末試験の打ち合わせをする教授や休憩中の守衛さんがぽつりぽつりと座っているくらいだ。それだというのに、わざわざ俺の前に座ってきた男がいる。
向かいに座る男の名前を、俺は知っている。
「おぇ、しょっぱ。いつもはもっとマシなんだよ?」
衣笠だ。人文の衣笠だ。
高校時代からきらきらとしたオーラを振りまき、人に囲まれ、にこにこゲラゲラ楽しそうに廊下や教室で群になって騒ぎ立てていたあの衣笠だ。
毎日のようにロッカーや靴箱に手紙を入れられていたあの衣笠だ。怨恨の手紙じゃない。そんなの入れるのは俺くらいだ。大多数はハートマークがついてるほう。今時ラブレターなんて見ないって? そんなことないんだよ。バレンタインなんて衣笠のロッカーからはチョコがあふれかえって廊下に落ちていたくらいだ。
「斎間くんいつもは食堂使わないもんね。ついてないね〜」
「は? なんで知ってんだよ、怖えよ」
「せっかく斎間くんと二人でランチできたのにこれじゃあなぁ。あ、じゃあ今度何か驕るからうまいもん食べ行こ」
「行かないし、お前が勝手に俺の前に座ってきただけだし、話聞いて」
衣笠はけらけらと楽しそうに笑ってた。俺はそんな衣笠と絶対に目を合わせないように、斜め下にずっと視線を落としていた。
おかげで衣笠の骨ばった大きな手がよく見える。白くて肌が綺麗で、筋張っていて、指が長くて。水仕事なんてやったことないんじゃないかってくらい綺麗な手だ。毛の字も見えないくらいつるつる。いいな。
「そういや斎間くん交差点のところのファミレスでバイトしてるらしいね」
「してない」
「ちょっと、なんで嘘つくの。俺こないだ行った時厨房入ってるの見たよ」
なんなんだよ。話しかけんなよ。てか来てたのかよ。
今日は人と話したくないし、人に会いたくないし、人に見られたくないし、最悪の気分だというのに、追い打ちをかけるように衣笠が次から次へと話しかけてくる。
だいたい俺と衣笠はこんな馴れ馴れしい会話をするような仲じゃない。ただ同じ高校出身だっただけの友人にも顔見知りにも満たない存在だ。それも一度も同じクラス、同じ授業にもなったことのない完全な他人。
なのにぼっちに慣れない群れたい衣笠は入学式で俺を見つけるが否や、馴れ馴れしく絡んできた。ぎょっとした。あの衣笠じゃんって、心臓止まった。
外見だけは一人前に大学デビューを果たしていた俺は髪色は明るくなっていたし、眼鏡もコンタクトに変えていたし、なによりバチバチにメイクしてた。扱いにくい一重まぶたからアイプチでどうにか二重まぶたを作り出していた。それだけしてたんだから、話したこともない高校の同級生って普通は気がつかないと思う。
ましてや俺と衣笠だ。ヒエラルキーでいう頂点と最下層の、接点もない同級生だった。
どうしてあの時衣笠が即座に俺に気がついたのか、正直今でも謎だった。
「斎間くん何曜にシフト入ってるの?」
「知らん」
何の邪気もない声にイラっとしてしまう。俺なんかに構わなくても友達なんて大勢いるじゃないか。どうでもいいから話しかけないでほしい。俺の前に来るんじゃない。俺の顔を見るんじゃない。
雨と湿気で俺の髪の毛はぺちゃんこになって額に張り付いているし、メイクは汚く崩れている。こんなの誰にも見られたくない。崩れたファンデーションが怖くて自分でも鏡をのぞけないんだから。
一方、衣笠のセットした気配もない髪は今日も綺麗に整っているし、メイクをせずとも凹凸のない肌はまっさらでつやっつや。喧嘩売ってんのか?
衣笠は目立つ。人懐っこい性格に加え、その容姿がとてつもなくいいからだ。
男は衣笠のような人気者と繋がりがあることを見せつけたいがために、これ見よがしに衣笠の名前を呼びたがる。腹立たしい友人アピールだ。
女は衣笠を見つける度にこそこそきゃっきゃと盛り上がり、何人かの狩人のような女は衣笠に張り付きに行く。大して面白くもない話を「やっだぁ〜」とか大袈裟に手を叩きながら聞いて、わざとらしいボディタッチも忘れない。
それだけでも十分腹立たしいが、何よりも腹が立つのはその容姿の良さじゃない。
こいつがまったくもって人の容姿に頓着しないところだ。
カメラを向けられれば変顔するし、白目でも向きそうな勢いでげらげら笑う。味噌汁が不味ければ顔面をくしゃくしゃにして舌をだした。髪型にこだわりはないし、ファッションにだって興味がない。今日だって、ただのジーンズにどこにでも売っているような黒のTシャツだ。
むしろ好感が持てるかもしれないのは衣笠の人徳だが、だからこそ俺はこいつが気に入らない。だって顔もよければ中身もいい人間の完成じゃん。納得いかなくない? 俺のように性根腐りきって、その腐り具合が見た目にも現れちゃってる哀れな人間もいるんだよ。
「自炊怠いし、斎間くんがシフトに入ってる日は俺食べ行こうかな〜」
「破産するぞ」
「社割とかないの?」
あってもお前に使うかよばーか。
脳内で毒を吐くと、飲むだけで動悸に襲われそうな塩辛い味噌汁を無理矢理流し込んだ。マジでまずかった。吐きそうになるのを堪えて、申し訳程度にグラスに入っていた水を一気に飲み干す。塩分は少しも薄まった気がしない。
とにかく速やかに衣笠の前から立ち去るために、がたがたと食器を整えお盆を持って立ちあがる。衣笠のほうは見なかった。
だけど、視界の端に衣笠の男らしく少しごつごつした手が目に入ってしまった。手の甲はすべすべしていて、それでいて血管が浮いているのが男性的で。そんな手が動いたかと思うと、ぱちんと音を立てて箸が空中を掴んだ。
「相変わらず目、合わないね」
「……」
衣笠の手元に視線を落としたまま、全身が強張る。
冷や汗がどっと流れてくるのが分かった。ばくばくとうるさく脈打ち始めた心臓がどんどん速さを増していく。あの一週間分の塩分が入ってるのかってくらいしょっぱかった味噌汁のせいであってほしい。
「俺〜斎間くんに話しかけてから目が合ったの、入学式の一回だけ! それ以降どれだけ話しかけても絶対に目合わせてくれないじゃん?」
「いや、俺お前の友達でもないし、お前が話しかけてくるだけだし、お前の友達でもないし」
「二回も言わなくても聞こえてるって。てかめっちゃ早口ウケる」
「いや、なんか、あの、畏れ多いっていうか」
「なんだよそれ」
「照れた?」
「照れてねーよ」
かはっと衣笠が乾いた笑いを上げた。ぞっとする。マジのほうで怒らせた? まあいいや。懲りて俺のこと無視してくれるようになったら逆にいい。不快な思いをさせていたなら一応謝るけど。
「そうか。ごめん。じゃ」
「あ、ちょっと」
衣笠の横を足早に通り抜ける。通り抜けようとした。
がしゃん、と大きな音が響く。一瞬、フロアがしんとした。ような気がした。そんなの自意識過剰なだけかもしれない。
俺はしばらくの間ぽかんと口を開けていたが、目の前を髪の先から雫が伝って落ちていくのを見てゆっくりと顔を上げた。
衣笠がびっくりしたように目を丸くしている。つり目気味な猫目が見開かれて、ぱちりと瞬きをした。相変わらずニキビ一つない肌で、整った高い鼻筋と完璧な左右対称のパーツが作りもののようですらある。長いまつ毛、薄めの唇。濡れ羽色の黒髪。染めなかったのは正しい選択だ。
うわあ、いいな。この顔。この骨格。眉骨が出て彫りが深くて、完璧なEラインを作る横顔が羨ましい。
真正面から衣笠を見る機会なんて滅多にやってこない。俺はぼんやりと衣笠の顔を観察していた。見ているだけでこんなに自己肯定感ってやつが根こそぎ吸い取られていく顔はそうそうない。
衣笠はシンメトリーな顔を歪めると、慌てふためいて俺に手を伸ばしてきた。
「う、っわ、ごめん。マジでごめん! 俺だよな、俺にひっかかったよな?」
そうですね。通路にはみ出したお前の長い脚に引っかかりましたね。
おかげで大転倒した俺は皿をぶちまけ、机に体当たりし、衣笠の飲みかけの味噌汁を頭から被ることになった。別にいいけどね? これこそ最悪な日の最悪な俺にお似合いじゃん?
「ごめん〜ごめん斎間くん〜」
「いや別に。大丈夫だから。じゃあ」
「いやいやいやいや、さすがにこれは申し訳なさすぎるって。午後の授業は?」
「いや、もう帰るし」
衣笠は俺の味噌汁臭い髪をくしゃくしゃのハンカチで撫でるように拭いてくれていた。その手をやんわりとふりほどく。顔を見られることのほうが苦痛だった。今日の俺はコンディション最悪だから、どうせ味噌汁被ったくらいでそう変わらないけど。ブスがブスになるだけのマイナーチェンジみたいなものだし。
散らかった食器を片そうとしたら、その手を衣笠に掴まれる。俺の浅黒い肌は汚くて、衣笠の色白できめの細かい肌との対称に思わず顔をしかめた。
「嘘。斎間くん今日は3限に倫理学あるじゃん」
だからなんで知ってるんだよ。怖えよ。
「別に今日の倫理はサボろうと思ってたし。あの、元から。起きたときからずっと」
「なんで? 今日レポート提出じゃん」
「……お前、取ってないじゃん」
なんで知ってんの? しかも食い気味に遮ってくるし。
「え、いや……友達が」
人文の奴なんていたっけ? 必修被ってる学部が多いとかで倫理学取ってるのはほぼ社会学部の連中だと思うけど。もう一度衣笠の顔を見上げそうになって、思いとどまる。味噌汁を拭くふりをして顔を覆った。袖に肌色の汚れがついている。サイアク。顔見られたくない。
俯いたらぐっと手を引っ張られた。無理矢理俺を立ち上がらせた衣笠がなぜか親指を突き付けてる。どんな顔でそんなジェスチャーしてるのかはちょっと気になったけど、俺は頑なに顔を上げなかった。妙に明るい腹の立つ声が聞こえる。
「とにかく昼休みの間に着替えないと! うち近いから! ね! うち! おいで!」
俺の家もすぐそこなんだけどね。
言ったところで、申し訳ないとかごねられるんだろう。
しかたなく俺は従った。衣笠が満面の笑みを浮かべてることなんて、俯いていた俺は知りもしない。
1/10 →