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 いかに同居人がゲイであろうと、俺の貞操が狙われることはなかった。なぜなら柳は相手に困らない。
 そりゃあ、あの美貌だものね。俺も最初の頃はすれ違うたびに二度見しちゃってたもん。

 沈みつつある夕日を眺めながら、軒先の石階段に腰掛け煙草を吸う。波の音がここまで届いた。
 どうして華金定時帰りの俺が家に入らずサンセットを眺めながら黄昏てるって?
 そりゃ同居人がセフレ連れ込んでせっせと上下運動に勤しんでるからだよ!

 3年も同じ屋根の下で暮らしていれば自然とわかるようになってしまうのだ。玄関を開けた時点で察した俺よ。柳は俺が入ってこようと構わないたちだが、俺は当然居合わせたくない。

 ちょうどその時、下宿の玄関から子犬のようなきょどきょどした男がそろりと出てきて、俺と目が合った瞬間びっくーんと肩を震わせると転げるように走り去って行った。

 ほら、見ろ。ヤってんじゃねえか。

 ガラッと音がして後ろを向くと、腰パンに上半身裸の柳がぼりぼり頭を掻いている。

「ありゃ、行っちゃった?」
「腰しんどそー。お前、鬼畜だね」
「よさそーにしてたよ。いいっしょ、俺もよかったし」
「快楽主義者め」
「羨ましい?」

 ぎゃは、と品なく笑うと柳はそのまま隣に腰掛けた。汗臭い。シャワーも浴びてないんだろうな。生々しい匂いを振り撒きやがって。セクハラで訴えてやろうか。

「おかえり」

 あまりに唐突だったから俺に向けて言ったものだと認識するのに少し時間が掛かった。

「……ただいま」
「つーか今日早くね?」
「定時っちゅー求職サイトに載ってる業務時間を守るとな、こうなるんだよ」

 定時退社をきめたおかげで同居人が連れこんでたセフレと鉢合わせる結果になったわけだけどな!

「いい加減ここでヤんのやめろよ」
「別に一回きりだしセフレにいちいちホテルに金払いたくねぇんだけど」
「セフレってどこの誰とも知らない奴、家のが怖えよ。どうすんの? 付き纏われたりでもしたらさ」
「別にここ俺んちじゃねぇしオールオッケー。したら実家帰っちゃるわ」

 そんなことを言うが、柳の素性はあまり知れない。ここに来たばかりのころ大家のお母さんから話を聞いたが、日本海側の出身であることくらいしかわからなかった。俺が下宿に入る1年前、柳は浪人生の頃ここへやってきたらしい。当初は新しい住人が入るたびに処女を食い散らかしてくれていただとか。おかげでこの下宿には以降1人を除いて新居者はゼロだ。

 そう思えばこいつのちんこの暴走も、大学入学とともに落ち着いたことになる。男遊びが激しいところは変わらずだが、少なくとも身近な人間には手を出さないようにはなったらしい。まぁそうだよね、浪人ってストレス溜まるもんね。俺も一浪してるからわかるぜ。

 俺はどうやらベストタイミングでここへ来れたようだ。あと1年早かったら柳にケツを捧げることになっていただろうアーメン。

「まぁ今日の奴は気弱そうだし、そんな心配はなさそうだけど」
「うん、なんか一回でいいから抱かれてみたかったんだって。かわいいよね」

 ははっと感情のこもっていない声で柳が笑う。怖えよ。

「そう言う奴、どこで知り合うの?」

 柳はひらひらとスマートフォンを振った。

「裏垢」

 うわぁ……
 そんな危なっかしいことしてないで、お兄さんはもっと健全な性生活を送ってほしいと思うよ。こいつ顔写真とか上げてないよな? ハメ撮りとか上げてないよな? 凡庸な顔ではない分目立つぞ。柳の顔の綺麗さは一度見たらそう簡単には忘れられない。

「つーかここボロすぎて家とも思われてないっぽいよ」
「は? なに、ヤリ部屋だと思われてんの? 切ねえな、ここで暮らしてる26才の人権は?」
「そんなこと言うなら、にぃサン自ら人権手放してるでしょ。給料も上がってるんじゃないの? なんで賃貸引っ越さんの? ここ飯付きでもないのに」

 ぼーっとしながら煙を吐き出した。働き始めて自棄になって手を出してしまった煙草は年々量が増えている。柳は隣で大きなあくびをしていた。出して気持ちよくなれば眠いのか。一日中日向ぼっこをしてる猫並みに自由で野性的な人間だ。そうやって自由を満喫できるのも今の内だからな。見てやがれ。

「……にぃサン?」

 ただ規則的な波の音を聞いているだけで時間感覚がなくなっていくようだった。自分がどれだけ黙っていたのか想像もつかない。ほんの少し心配そうな柳の声にハッとする。人差し指と中指の間で揺れた煙草が灰を落としていった。

「なんでだと思う?」

 ちら、と柳の方に視線を向ければ斜め上を向いて「んー」と唸っていた。ぱちりと瞬きをすると、にぱっと歯を見せて笑う。両頬にえくぼのくぼみができた。

「俺のことが好きだから!」

 まだ言うか。柳のそれはどこまでを冗談として受け止めればいいのかわかんねえんだよ。
 呆れて顔に煙を吹きかければ、柳はけらけらと笑った。

「なんかあった?」

 思いのほか優しい声が波の音に混じる。年下にこんな風に声をかけられるなんて、情けないなと思うと同時に、そんな相手が近くにいることをありがたくも思う。

「ん〜あぁ」
「元気ない」
「……いつもじゃん?」
「疲れてる?」
「そうだな」

 どうして、柳は妙に目ざとい。それとも俺が分かりやすいのか?
 久しぶりにヘマをした。新入社員でもそうやらない初歩的なミスだ。当たり前の確認作業を怠った。温厚な上司を怒らせてしまった。全員を俺のフォローにまわらせてしまった。なにが、華金定時帰りだよ。今日だけで人の時間をどれだけ奪ってしまったことか。

 煙とともに無意識に吐き出されたため息は思ったよりも重かった。違う、これはただの深呼吸。ぼぉっと夕日が沈んでいく様を眺める。隣で汗の匂いを振りまく男は、一段とその匂いを濃くした。何かと振り向けば、柳がからりと笑って立ち上がったところだった。

「おつかれおつかれ! 今日はにぃサンの好きな鯛茶漬けにしちゃおう! ちょうど先輩に拉致られたスロットで当たったから俺がうまいもん食わせてやんよ! 風呂でも入って待っとって」

 先にシャワーを浴びるべきはどう考えても柳のほうだけどな。驚くほど整った顔にクシャっと皺を寄せて笑うと、柳は光の速さで部屋に戻りTシャツを着て出てきた。サンダルをつっかけ、俺に手を振るとぼろいママチャリに跨って買い出しに出かけて行く。錆びたチェーンの絡まる音が聞こえてくる。その後ろ姿が見えなくなるまで、俺は下宿に入れなかった。

 あいつは俺が泣くほどうまいと言った鯛を買ってくるだろうし、俺の好きなブランドのビールをつまみと一緒に買ってくるだろう。そうして飯を作って、キラキラした目で「美味い?」と聞くのだ。うまいよ、と答えれば嬉しそうにケラケラ笑う。

 わかってんだろ。お前がいるから、俺はここを出ないんだよ。



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