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「助かりました! 大学の教科書って一冊一冊が馬鹿みたいに高いから。俺しばらくもやし生活になるところでした」
「あー全然、これくらいいくらでも貸すよ。遅くなってごめんね、じゃあね」
「あれ、先輩、この後なにかあるんですか?」
「んーバイト」
ちょっと寂しそうな目を向けられ心が痛む。田代くんに手を合わせて謝ると、俺は急いで図書館にひきかえした。夕方からバイトだ。そっちにも遅れるわけにはいかない。
図書館はあいかわらず静かで、ここでさっき衣笠にされたことを思い出し勝手に顔が熱くなった。ひょっとして声が漏れてたんじゃないか、とか。俺のを咥える衣笠の上気した頬とか、少し下がった眉とか、潤んだ瞳とか。いろいろなことが浮かんで、忙しない脳内に疲れる。
挙句の果てに罪悪感を刺激するあの顔だ。
俺が自習室から出る間際に見せた衣笠の表情は、置いて行かれた子どもみたいに切ないものだった。あんな顔されたら、さすがに気分が悪い。
さっきまで連れ込まれていた個別自習室に衣笠はいなかった。しばらくその場で立ち尽くしていたが、図書館全体を見て回ることにした。空いている自習室、閲覧席、普段はまったく立ち寄らないジャンルの本棚。どこにもいなかった。
ふ、と腕時計を確認する。そろそろ大学を出なければバイトに間に合わない時間だった。
探し回ってようやく気がついたが、俺は未だに衣笠の連絡先を知らなかった。
お互い一人暮らしのアパートまでもが割れているし、あんなにも何回も何回も勝手に連れ去られていたというのに。
何が友達だよ。こんなんどう考えても友達以下じゃねえの? 俺は衣笠を友達だなんて思えないし、そんなふうに受け入れることだってできない。
「……ダル。バイト行こ」
深夜の肌寒さに上着をもう一枚着てくればよかったと思った。流石に店の前の桜はもう葉桜となっている。大通りを時たまバイクや車が走っていった。この時間でもまだ看板が明るい店がちらほらとある。いつものバイトの帰り道だった。
歩道を歩く人間はほとんどいない。時たま飲み屋からサラリーマンが出てきた。ぽーん、と石を蹴って、石が転がっていった道を選んで歩いていく。
前、前、前、右。横断歩道で立ち止まる。こっちに進んだら、帰れない。
車も、バイクも通らなかった。律儀に赤信号を守って、ぼおっと考えた。誰もいない交差点の信号が青になる。
俺はそもまま横断歩道を渡ることにした。蹴っていた石は何処かへ消えた。見慣れた道を通って、入り組んだ裏道に入る。しばらく進めば、学生マンションが連立し始める。そこまで来てしまって、俺は溜息を吐き出した。
まぁ、いいや。
チャイムは鳴らしても反応がなかった。窓からは明かりが見えるから、中にはいるはずだ。
シャワーの音も聞こえないから風呂に入ってるわけでもなさそうだ。もう寝たのか? 時間も時間だしな。
時計を確認すれば、ちょうど日付を越えた辺りだった。大学生にはまだ大した夜更けでもないかもしれないが、非常識な時間だと思う。
もう一度、チャイムを押す。気の抜けた音が廊下に響き、頭上の蛍光灯が不健康な色で明滅した。部屋の電気がついているのが目に入る。俺は少しイラっとした。
鳴りやむ前からチャイムを数回連打する。ああ、もう。
ダンダン、と扉を叩いた。どうせ開いてるんだ。入って欲しくないんだったら、追い返せばいい。
少し乱暴に玄関扉を開けた。俺は俺の存在を認知してほしかったから。だけど、開いた扉の先では、居間への引き戸が閉まっていた。なんだよ、いつもは開けてるのに。今さら許可もなく部屋に入ることに気おくれして、俺は初めて声を上げた。
「いがさー!」
電気はついてるのに妙に無音だ。ひょっとして留守なのかな、と思ったけど、カランとなにかが転がる音がした。廊下を歩いて引き戸を開ける。居室で座り込んでいた衣笠はビクッと肩を震わせた。
「うっ……わ、お前」
いち、にい、さんし………何本飲んでんだよ……
空になったいくつもの空き缶が机の上を占拠してる。衣笠はその前に体育座りをしていた。袖の伸び切っただぼだぼのトレーナーから覗いた指先が、絶対に離さないとでも言うように缶チューハイを握りしめている。
「ああ、もう。ちょっと」
声をかけても、衣笠は俺のほうを見ようともしなかった。ただぎゅっと9%のチューハイを握りしめてそっぽを向く。その横顔は濡れていて、耳も、頬も赤く染まりてらてらと光っていた。
「……」
衣笠は飲み会でも酔っているところを見せなかったし、いつも俺に飲ませるだけ飲ませて自分はなんてことないようにカラカラ笑っていた。でも、こいつ今たぶん酔ってんだろうな。
しばらく衣笠のむくれた顔を眺めていたが、つま先に空缶が当たって床に目を落とした。
「……お前、どんだけ飲んでんだよ」
「…………」
この量、俺だったらきっと運ばれてるぞ。衣笠は相変わらず無視を続けている。しょうがないから俺はテーブルの上に散らかった空の缶を流しに持っていき、すすいでシンクに立てかけておいた。勝手に冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、コップを拝借する。
「ほら、衣笠」
「…………」
綺麗になった机の上を拭いて、衣笠にコップを持たせようとするも、衣笠は握りしめた缶チューハイを離そうとしなかった。
「もう、終わり。ほら、水飲んで。それ俺にちょーだい」
「…………」
メキョメキョ、と衣笠が缶を握り潰す。噛みしめた唇は綺麗にへの字を描いていて、子どもみたいだった。目元だけじゃなくて、鼻の先まで赤くして、顔は涙と鼻水でぐちゃくちゃのべちゃべちゃで汚い。赤く腫れた目元でじっとりと斜め下に視線を落として、俺と目も合わせてくれない。ピーと変な音を立てて衣笠が鼻をすすった。
「衣笠。水」
メキョ
こら、反発を缶で表すな。
しょうがないから、一度コップを置いて缶を握りしめる衣笠の手に触れた。うわ、マジであり得ない腕力で握ってやがる。しかも冷たい。
「こら、離せって。飲みすぎだっつのもー」
ガシッと缶を握りこむ骨ばった指を一本ずつ剥がしていく。ようやく外れた缶はもうほとんどが空だった。その手に今度はコップを持たせるが、衣笠はいつまで経っても自分で口に運ぼうとしない。
「飲んで」
「………やだ」
えぇー、やっと声出してくれた。カラカラじゃん。酒やけするとこんな声になるの? めっちゃいいじゃんセクシーじゃん。もっと聞きたい。
「飲まないと。俺みたいに吐くよ」
「……斎間くん、水飲んでも吐くじゃん」
「うっせーよ。それ知ってて酒飲ませてくんのお前だろ」
「…………飲ませて」
衣笠がゆらり、と顔を上げ初めて視線が合った。目元を赤く染め、潤んだ瞳で俺をじっと見つめる。いつもより眠たげな目がかわいかった。まつげの上に涙を乗っけて、ゆっくりと瞬きをする。
「……ストローとか? ないと思うけど」
「口移しがいい」
「……」
「嫌ならいいよ。飲まない」
ぷい、と視線を背けられ、慌てて衣笠の顔を両手で挟むとこっちを向けさせた。すっげーべっとべと。とりあえず俺のたいして綺麗ではない袖口でごしごしと衣笠の顔を拭いた。くすぐったかったのか、俺の服が埃っぽかったのか、衣笠は「ぐしゃみィッ!」とガラガラの声ですごいくしゃみをしていた。べちょ、と俺の袖が汚れる。
うわあ、衣笠のくしゃみ。録音しとけばよかった。くしゃみをしてすっきりしたのか、衣笠は俺の手のひらに頬をあずけて、ふぅと一息ついている。指先は骨ばって冷たかったくせに、頬はやわらかくて少し暖かい。
その頬から手を離すと、俺は衣笠の手からコップを抜き取った。ほんの少し、口に含んで、衣笠を見てみる。さっきまでへの字に曲がっていた口はゆるく持ち上がり、眠たげに腫れていた目は期待に光った。
水を口に含まんだまま、衣笠に顔を近づける。力の抜けていた唇に触れあった。衣笠は自分から口を開ける気はないみたいだった。舌で衣笠の唇をこじ開けようとしている間にも、俺の唇の端からはだらだらと水がこぼれていく。ようやく衣笠の口を開かせたときにはもう水はなくなっていた。ちろ、と触れた衣笠の舌先が逃げるようにどこかへ行ってしまう。
「ダメじゃん。口、開けてよ」
「なんでよ、飲ませてよ」
「開けてくれないと飲ませられない」
「斎間くんのへたくそ」
「…………」
俺はもう一度、水を口に含んだ。さっきより頑なに口を閉じた衣笠の唇を舌で開けさせる。だらだらとこぼれる水が衣笠のトレーナーを濡らしていった。口に含んだ水を衣笠に押し込むように送る。やっぱり、たったの少量しか残らなかった。
口を離して衣笠を窺えば、俺の影の下で衣笠の濡れた唇と涙の跡が光った。衣笠の吐息が頬に当たる。がさついた声が囁いた。
「……まだ足りない」
「だって飲めてないじゃん。ほとんど零れっちゃったんだけど」
「違うよ斎間くんの唾液」
「気色悪いな」
なんだよ、介抱してあげてんのにわがままだな。さっきよりも、多く水を口に含んだ。衣笠の肩を掴み、顔を傾ける。そうだ、角度だ。こいつが直立不動だから零すんだ。
掴んだ衣笠の肩を無理矢理後ろに押せば、意外と簡単に衣笠は後ろに倒れこんだ。そのまま唇をこじ開け、口に含んだ水を流し込む。今度はうまくいった。衣笠の喉仏がごくん、と音を立てて上下する。唇を離し、満足気に衣笠を見下ろせば、衣笠はふわりと笑っていた。どうやらやっと機嫌ももとに戻ったみたいだった。起き上がろうとすれば、衣笠に腕を掴まれる。
「あー待って。そのまま」
「は?」
ごり、と俺のケツに何かが当たる。
「え」
「は……はぁ……さ、斎間くんが俺に跨ってる……♡」
「うわっ、ちょ」
「逃げないでよ! 俺のために来てくれたんでしょ!?」
「いや、だって」
お前があんな顔するから。
俺の腰に足を回して離そうとしない衣笠から必死に逃れようと暴れれば暴れるほど、衣笠の勃起したちんこがごりごり当たって血の気が引いていく。普段なら俺のことを簡単に抑え込む衣笠は今日はぽやぽやしていて、動きは気だるげだ。
「だから! お前は」
あ、でっか。あっつ。触ったらどのくらい熱いんだろう。どんな匂いがする? 血管が浮いて、張り詰めているのだろうか。
じゃなくて、
「お、お前は俺の何なんだよ!!」
俺の下で衣笠は力の抜けた顔で笑ってる。サークルのメンバーにも、騒がしいパリピの連中にも、後輩にも先輩にも見せない笑顔で笑ってる。さっきまでブサイクな顔してうじうじ泣いていたのに。鼻水で顔面ぐちゃぐちゃにしてたのに。ブサイクな声ばっか上げるのに。
俺だってそうだ。こうやって下から見上げられる角度なんて最悪で死にたくなる。自分では絶対に見れない角度だ。二十顎になって、鼻の低さが強調されて、凹凸のない顔の骨格が強調されて。だというのに、
「あぁ、かわいい、かわいい……かわいい」
顔を覆った手を無理矢理衣笠に剥がされた。反射的に目をつぶったが、薄目を開けば衣笠の陶酔した視線が俺を舐めまわすようにして見ていた。その酔った視線に、心のどこかで欠落していた何かが埋まるような感覚を覚えた。
顔面を構成する要素なんて要素にすぎず、ちっぽけなものかもしれない。でも、そのちっぽけな要素しか俺たちは目に見える形として認識することができない。
俺には衣笠が理解できないし、衣笠にだって俺を理解することなんてできないだろう。だから、その人となりを理解しようとするには、外面的な要素と内面的な要素、その全部を繋ぎ合わせて想像するしかない。その要素は多ければ多いほど、想像や予想がより真実に近づくかもしれないし、全く見当違いな妄想になっているかもしれない。
衣笠はきっと、全部をひっくるめた俺という人間を見ようとしていた。それはもちろん衣笠の想像であり予想であって、本来の俺とは違っているのかもしれない。でも、理解しようとしていた。理解したがった。その熱量がたとえ変な方向へ向いていたとしても、その事実は変わらない。
俺だって理解したかった。衣笠という人間を理解するために俺はただひたすら外面的要素を集めまくって、集めまくって、集めまくっては、何も悪くない衣笠を妬んだ。
お互いを理解するためにそれぞれがかきあつめた要素には大事ななにかが欠落している。どれだけ相手を理解しようとしても、結局俺たちはいつまでたってもちぐはぐなままだった。
「斎間くん」
「ん、んん……?」
「顔、見せて」
「や……無理」
「斎間くん」
「……」
顔をぶんぶん振って目をつぶっていれば、頬を衣笠に包まれた。ゆるり、と優しく顔を撫でられる。
「斎間くんは……俺に斎間くんの何でいて欲しい?」
がさついていつもより若干低くなった声がそう聞いた。
知らねえよ。知らねえって。なんでそれを俺が決めなきゃいけないんだよ。
「………っ」
「友達?」
俺は違うと思う。友達はこんなことしないし、友達は盗撮だってしない。俺は上野を友達として好きだし、田代くんを後輩としてかわいいと思う。でも、衣笠は違う。何が、と聞かれても俺にはわからない。
「友達と俺だったら、斎間くんはどっちを選ぶの?」
「……い、衣笠は……衣笠はどっちを選ぶんだよ」
俺の頬を撫でる衣笠の腕を掴んだ。恐る恐る目を開けて衣笠を見下ろす。どんな角度から見たって、衣笠は綺麗だった。今だに目元は赤い。涙の跡はまだあったし、鼻の先も薄赤く染まっていた。答えなんて出ているようなものなのに、自分が答えられないばっかりにそう聞いた。
衣笠はほんの少し八重歯をのぞかせて微笑すると、俺の髪をすきながら囁いた。
「斎間くんだよ」
「…………あっそ」
「うん」
俺はそんな気色悪いセリフ、絶対口になんて出せないよ。
ただただ、衣笠という人間を憎らしく思うだけ。
俺が黙っても、衣笠はこれまでに見たことがない穏やかな顔でほほ笑むだけだった。
こんな顔できるんだ。こっちの笑顔のがモテそうだ。それを思うといつものアホで下品な衣笠が表の顔でよかったなと思った。
鈍い仕草で衣笠に襟首を引っ張られ慌てて床に腕をつく。衣笠の耳に俺の唇が触れた。衣笠がぴく、と動き固まる。
「……衣笠?」
「……っ!」
「うぉわっ」
唐突に衣笠が跳ね起きた。俺の肩を掴む衣笠は先ほどまでとは打って変わって思いつめたような顔をしてどこか一点を見つめている。その顔色が少し悪い。
「……あ」
こいつ、今酔ってる? そうじゃん、あんだけ飲んでたんだから酔ってるに決まってんじゃん。
「……だいじょぶか?」
「…………っ、やばい出る……!」
「え」
衣笠は俺を押しのけると凄まじいスピードでトイレへ駈け込んでいった。
………え、早くね? お前、人のことは逃げ道塞いで吐かせてきたわりに自分は安全地帯に逃げ込むの?
「おい待てよ! ずるいぞ!」
「ぅ、」
衣笠が盛大に吐く音が扉越しに聞こえてくる。俺はかつての恨みを込めてトイレの扉をガンガン叩いてやった。せめて詰まらせろ! そして困れ!
数分後何食わぬ顔で爽やかにトイレから出てきた衣笠は、とても機嫌が良さそうだった。普段の笑顔とはまったく毛色の違うあの気持ち悪いくらい甘ったるい笑みで俺に抱きつき、無理矢理舌を突っ込んでくる。口の中をしつこく舐めまわして舌を絡めてくるディープすぎるキスをされ、本気で殴った。
「アッ……ありがとう…!」
「殴られて喜んでんじゃねぇ!!」
結論、やっぱり衣笠はキモイ。友達云々以前の問題だ。
おわり🔥🦕
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