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俺はいつも衣笠のことを目で追っていて、こそこそと何百枚と盗撮してきた。3年近く続いたその行為を知っているのは、本人の衣笠だけ。よく考えたらその状況からもうおかしなことになっているのかもしれない。俺も衣笠も大概だ。
「絶対どっかでバグ起きてんだろ……」
衣笠の周りには人が溢れてる。わざわざ探さなくとも、俺みたいな人間はきっといっぱいいる。なのに、どうしてよりによって俺が目をつけられたんだ。俺はただ影で衣笠のことを見ていただけなのに。
「届かない?」
「う、わ」
静かな図書館で突如後ろから聞こえた声に、本棚へ伸ばしていた手が固まった。背後に人が立つ気配を感じる。静かな息遣いと微かな体温を背中に感じ、額に汗が浮かぶのがわかる。俺が必死に伸ばしていた腕を軽々と超えて、骨ばった白い手が俺の取ろうと思っていた本を引き抜いた。
服の袖から覗いた手首から、節くれだった長い指から、大きな手から目が離せない。気づけばぎゅう、と唇を噛みしめていた。
「ほい。えらいね、斎間くん。レポート?」
「……おう………サンキュ」
声を潜めて掠れた声が耳元で囁く。ぞわりと背中に鳥肌が立った。本棚と衣笠に挟まれて、すぐにでも逃げ出したかったが緊張した足は固まっていた。
図書館の黄みがかった照明に、本と埃の匂い。背の高い本棚に囲まれた閉塞感。自習スペースから聞こえてくるペンを走らせる音。
するり、と衣笠が俺の腰に手を回した。そこに俺がいることを確かめるように、おもむろに背後から抱きすくめられる。
急激に上昇していく心拍数に息が浅くなった。俺の肩に頭をうずめた衣笠の柔らかい髪の毛がくすぐったい。衣笠が大きく息を吸っている音が聞こえてくる。背中にぴったりとくっつく衣笠の体温に、顔に熱が集まるのを感じた。
「…………衣笠」
「何?」
「……離してほしいんだけど」
「なんで」
「れ、レポート……やんなきゃ」
「まだ余裕あんじゃん。それ締切来月だろ」
いや、だから……
俺の首元で衣笠は静かに溜息を吐いた。体に回る腕の力が一層強くなる。言いようのないピリピリした空気に俺はいよいよ怖くなった。
「斎間くん」
「……え、なに」
衣笠を振り返ろうとしたら、ぐい、とそのまま引っ張られる。無言で本棚の前を通り過ぎていった衣笠は、無人の個別自習室に入り鍵を閉めた。雑音が一切聞こえなくなる。この狭く無音の部屋では、衣笠が呼吸する音まではっきりと聞こえた。
何か言おうと衣笠を見上げようとして、できなかった。この心臓が痛くなるような空気に俺は怯えていた。首元のほくろから視線を上にあげられないまま固まっていれば、衣笠の大きな手が伸びてきて、俺の頬を掴んだ。
「見てよ。見たいんじゃないの?」
無理矢理顔を上げさせられ、反射的に目をつむってしまう。
「……斎間くん」
「お、まえ……な、何か怒ってる? 怖いんだけど……」
「……俺、別に怒ってないけど」
絶対機嫌悪いじゃん。スゲー怖いんだけど。
そう思うのに、衣笠は本当にわかってないみたいだった。戸惑いを感じる声に呆れる。薄く目を開ければ、俺の頬を掴んでいた衣笠の手は迷いを見せながら離れていった。
「自覚ないのかよ、こっわ」
「そういうの、俺のこと見て言ってよ」
「…………」
離れていった衣笠の手が今度は俺の頬を撫でるように触れていく。
「……衣笠」
「うん?」
一向に目を合わせない俺の額に衣笠の唇が触れる。額からこめかみ、頬、と降りてきた唇は、開きかけた俺の口まで到達してじゃれつくように唇を食んだ。衣笠から香ってくる清潔な匂いにごくりと唾を飲み込む。こんな間近で、こんな熱を感じるのもずいぶんと久々な気がした。
「っ……お前、」
ぬる、と柔らかい感触が唇を押し開けていく。喋ろうと思えばすぐに舌を捕らえられ、絡みついてくる熱から俺は必死に逃げた。
「っ、ん」
「はっ……なに?」
なに、じゃねえよ。喋らせる気ないんじゃないの?
膝が笑って後ずされば机にがたんと当たった。衣笠が俺を追い詰めるようにして机に手をつく。逃げ場を失い、顔を背けようとしても無駄だった。絡みついていた舌が離れていったと思えば、今度は上あごをなぞられる。その度にくすぐったいような、身をよじりたくなる感覚に襲われて、変な吐息が漏れていった。
「っ……おっまえ!」
「ん……なんて?」
「だから……ぁ」
また上あごを舌が撫でていってゾワ、と背筋が粟だった。薄く開いた目には柔らかい黒髪と、キメ細かな肌が見える。長いまつ毛が俺の肌に当たるチクリとした刺激を感じた。
じゅる、と音を立てて衣笠の唾液と俺の唾液が口の中でかきまざる。上あごを擦られるのが耐えられなくて、衣笠の舌を追い出そうとすると、待っていたかのように衣笠の舌に捕まった。
「っふ、んんっ……!」
どんどん深くなる口づけに押されているうちに、気づけば机に乗り上げていた。苦しくなって衣笠を引き離そうと胸元を押し返す。筋肉質なわけではなさそうなのに、分厚い胸板の感触にムカついた。
「っだから!」
「…………」
「……っ!」
簡単に離れていった体に安堵しながら息を吐きだすと、カチャリと音が聞こえる。ハッと下を見ると、衣笠が俺のベルトを外していた。
「やっ! おま、」
大きな声が出そうになって、ハッと意識が扉の向こうにむいた。この部屋の扉はそう厚くない。変な声を出したら聞こえるかもしれない。焦って固まった俺を気にすることなく、衣笠は屈んで俺の股間に顔を摺り寄せた。羞恥で衣笠を蹴り上げようとしたが、簡単にかわされて空をきる。
「馬鹿、ちょっと」
「……ダメ?」
吐息とともに囁くような声でそう聞いてくる。俺を見上げる衣笠は頬を薄赤く染めていて、若干潤んだ瞳とまっすぐに目があった。可愛い顔してこくん、と小首を傾げるがその場所がおかしい! 位置がおかしい! なんて所にその顔を埋めてるんだよ!
衣笠の頭に手を伸ばして必死にどけようとしたが、衣笠は俺の手に指を絡めてそのままぎゅっと握り込んでしまった。
「ダッ……メでしょ……っ、ねえ、い、がさ」
「もっと呼んで」
「そっ、そうじゃなくって、衣笠! バカ離せって!」
「んふ……っはぁ」
半勃ちだった俺のちんこは衣笠の荒い呼吸にあてられ、もうはっきりと布越しに形を浮かび上がらせていた。
「う、うぅ〜……」
「はぁ……はは……かわい……斎間くんかわいい〜」
見てられなくて顔を覆った。蹴り飛ばしたいけど、ここで暴れたらもれなく衣笠の顔面に当たってしまう。葛藤してるうちに衣笠の指が俺のちんこを取り出して軽く握った。
「ぅあッ……は、ちょ」
慌てて口を手で覆った。すごい、手汗でべったりだ。気持ちわる……
俺の焦りなどどこ吹く風で、衣笠はなんてことないように俺のを扱いていく。最初は遠慮でもしてるのかと思うほどに控えめだった。にち、にち、と生々しい音が嫌でも耳に入ってくる。その半端な刺激のせいで逆に感度が上がっているようだった。
「んっ……ぅ、はっ……」
「声抑えてる斎間くんめっちゃエロいね。録音していい?」
「っ、だまれよ……っ離せ!」
「やだ」
きゅ、と眉をひそめると衣笠はさっきまでとは打って変わって激しく手を動かし始めた。
「あっ……ふ、ぅ」
「斎間くん、さっきなんて言いたかったの?」
「ひ、んぅ……ぁっ、んぁ、バカっやめっ……っぁ」
「遮っちゃってごめんね」
「ぁ、あっ……は、ぁ」
ぐちゃぐちゃと音が響く。狭く静かなこの空間は空調すらも効いてなくて、余計にその厭らしい音が耳に沁みついて離れない。俺はただ必死に口を手で覆って、目をぎゅっとつむっていた。たぶん、衣笠はそんな俺をじっと見ている。
「ちゃんと聞いてあげるから」
「――!?」
熱く湿ったものに包まれて、俺は思わずぱっと目を見開いた。視界の下で、衣笠が俺のを咥えこんでる。頭が真っ白になった。
「へっ!? ま、ちょっ、ぁッ」
「んっ……ふ、んぐ」
ま、待って待って待って。なに、なにこれ。ちょっと。
「あっ……ふぇ、は、離せ! 離せ馬鹿! やだ! やだやだ!」
「ん……はっ、」
「いっいがさ、いがさ! 離せ! うっ、うぅ、いやだって……衣笠……ふぅ」
汚いだろ、そんなん口に入れんな。誰だって汚い自分なんか他人に見せたくないだろ。知られたくないだろ。
「っん! い……いがさ、やめっ、んあっ……っ!」
指や手なんかよりずっと生々しい温度に全体を包まれ、吸いついて離れない咥内の感覚に無意識に腰がひくひくと震えた。裏筋を熱い舌に執拗に舐め上げられたかと思えば、根本までがっちりと咥えられ、羞恥と快感とでおかしくなりそうだった。
口元を押さえた手は垂れた唾液でべたべたになっていて気持ち悪い。与えられる刺激にしか思考が向かなくて、もう声を抑えなければなんて正常な判断すらできなくなっていた。
ちら、と俺を見上げた衣笠は目が合うと目の下に涙袋を浮かせて笑った。この角度で見上げられるのに慣れなくて不意打ちを食らった心臓が大きく跳ねる。ちゅぱ、と音を立てると衣笠は俺のを咥えこんだまま声を上げた。
「おひえて?」
「ひ、ぁ」
そのまま喋られると咥内が締まって、その気持ちよさに内腿が震えた。おまけに漏れ出た熱い息がかかって、衣笠の中で俺のちんこもひくりと動いた。
「お、おまえ……!」
「ん」
じゅぼ、と聞いたことない音が聞こえる。こんなのAVの中だけだと思ってた。俺のが、衣笠の口の中に……
「おれの……お、おれの! んっ、はっ……はあっ」
俺の、
「何がっ……す、き……なんだよっ」
衣笠が一瞬目を見開いた。
ごく、と衣笠が唾液を嚥下したその喉の動きで、俺は同時に達していた。
「――っ」
「ん、んんっ」
溜まっていた精液が勢いよく衣笠の口の中に吐き出される。勢いを無くしながら数回目の射精が終わったとき、衣笠は若干咳込みながら口を離した。力が抜けて、壁によりかかった俺はそんな衣笠をぼんやりと見ていた。
たぶん、もっと盛大に咳したいんだと思う。我慢してるから、ほら震えてる。どうせまずいんだから吐き出せよ。そんなん飲んでも何にもならなくない? お前の精液じゃないんだから。
ごく、と俺にまで音が聞こえた。喉仏が下がったかと思えば、衣笠はまるで酒を飲んだときのように「っあーッ!」と溜息を洩らした。そんな色気も何もない声を上げながら、濡れた唇を妖艶な指で拭う。その仕草がもう妖しい。
「っはぁ……斎間くん、抜いてない? はぁ……すっごい、濃か」
「おい」
「ふぇ?」
「答えろよ」
衣笠はゆったりと視線を横に逸らした。個室は男二人の荒い息で満たされていた。まだ赤い頬に手を当てながら衣笠が珍しくはにかむように、にっと笑う。
八重歯が覗く。目尻にくっきりと皺がよった。人懐っこい笑顔だ。
「ぜんぶだよ。ぜんぶ大好き!」
「全部って?」
珍しく視線を合わせてくれない。だから俺はじっと衣笠を見て目を離さなかった。いつもはお前が目を見ろって言うのに。やましいことでもあるの?
「俺のこと見て言ってよ」
「っ!」
耳まで真っ赤に染めた衣笠はぴく、と震えると手を伸ばして俺の肩を引き寄せる、軽くキスをした。唇を舐めて離れていった衣笠は、何も言わず目を細めて笑った。それがなんだか楽しくてたまらない子どものような笑顔で、俺はもう何も言えなくなった。誤魔化されたのかはぐらかされたのか、わからない。
だいたい衣笠はこうやって好きだと言ってくるわりには俺には何も求めてこない。いや、求めてはくるし、今もこうやって振り回されてる。だけどそこに衣笠の好きに答えるような俺の気持ちは求めていないように思う。一方的に衣笠が俺の身体を好きなように触ってくるだけだ。衣笠は俺にどうしてほしいんだ。
「……あれ、斎間くん通知来てるよ」
「んぇ? あー……」
衣笠は通知音を鳴らした俺のスマホを勝手に俺のポケットから取り出した。受け取ってメッセージを開けば横から衣笠がぬっと画面を覗き込んでくる。髪の毛が当たってくすぐったい。
「田代くんだ」
「バカ、勝手に見んなって」
「仲良さそうだよねー珍し」
あまり感情のこもっていない声音でそんなことを言う。衣笠は俺の髪の毛をくるくると指に巻き付けて遊んでいた。
「お前も仲良くしてんじゃねえの? 飯奢ってもらったって喜んでたよ」
「んー……」
曖昧な返事だ。どうせいつもみたいに、俺の前では見せないあの笑顔で喋ってたんだろ。アホみたいな話をして一緒に楽しく笑ってんだろ。
「じゃ」
「え」
ベルトをしめて机の上から降りる。ちょっと膝がかくかくしたけど、きっとすぐに治るはずだ。
頼まれていたのに、田代くんに教科書を貸すのを忘れてた。けっこう待たせちゃったかもしれない。マラソンでもした後のような動悸はまだおさまってはいない。汗ばんだ体は汗臭かったりするだろうか。それはちょっと嫌だな。とりあえずこの変に雄臭い部屋から出たい。
「っ、待って」
強い力で肩を掴まれバランスを崩した俺は衣笠の胸にドンッと当たった。頭上を見上げると、逆光になった衣笠とばっちりと目があった。笑ってないその猫目は少しきつい印象を与える。人の目ってこんなに綺麗だったんだな、と束の間思った。そう思えるほど間があったのは、いつもは俺が真っ先に目を逸らすところを衣笠が先に視線を逸らしたからだった。
視線を先を追うと、衣笠が俺の手からスマートフォンを取り上げている。
「ちょ、」
「……え?」
「え、じゃねえわ。返せよ」
「え?」
「は?」
衣笠は俺のスマホを手にポカンとしてる。手を伸ばせば俺の手が届かないような位置へす、と避けられた。
「……衣笠、俺用事あるんだけど」
どうせここで格闘しただけ無駄だ。背も高いし手足も長い衣笠に勝てるわけないんだから。
「そっかー」
「うん、だから」
返してほしいんだけど。
衣笠は俺のスマホを握ったまま、中を見ることもなくただ俺をじ、と見ていた。
「それ、今じゃなきゃダメなやつ?」
「そりゃ、だって、約束してるし」
「約束? なんて?」
「教科書貸すって」
「……」
衣笠がぱちりと瞬きをする。もう一度衣笠の手に手を伸ばせば、またもやす、と避けられた。
「……それ、今じゃなきゃダメなやつ?」
「だからそう言ってんじゃん」
「別に今じゃなくてもよくない?」
「いや、だから約束してるんだって」
なんだ? 日本語大丈夫か? 文学科だろしっかりしろ。俺の精液飲んでおかしくなった?
衣笠はしばらくじっと無言になっていた。やがて不服そうにじりじりとスマホを差し出す。
「…………じゃあ、用事済んだら俺のとこ来てよ」
無言で受け取ろうとしたら、またしてもすい、と避けられた。
「………」
「約束は?」
「お前……俺のなんなの?」
束縛彼女かよ。わたし以外の女の子と話さないでって? 男友達とばっか遊ぶのやめてよってか。重すぎんだろ。
俺、彼女いたことないからわかんないけど。
「え……と、とも、だち?」
衣笠はテンパったように顔を赤くして目をぱちくりさせてた。初めて見る表情に思わずカメラを向けたくなってしまったけど、俺のスマホは衣笠の手の中にある。
「友達……なの?」
「え、わかんない……」
相変わらず大きな猫目をぱちぱちさせながら衣笠が首を傾げた。そのだらんと力の抜けた手から俺はスマホを奪い返した。田代くんのメッセージにはもう既読もつけてしまっているし、これ以上待たせるのも申し訳ない。田代くんにも田代くんの予定があるはずだ。
抵抗も何もなかった衣笠の手に一瞬指が触れる。さっきまで熱かった指先はもう冷たくなっていた。こいつひょっとして冷え性なのかな。
「じゃあ……俺、行くから」
「あ……」
引き留められる前に外に出た。個別自習室の居心地の悪い無音から解放され、空調の規則的な風の音が耳に入る。囁き声で会話をしながら本を探す学生の声に、どこからか聞こえてくる誰かのくしゃみ。キーボードを叩く耳に心地よいタイピングの音。コピー機が紙を吐き出す音。
それに加えて俺の心臓がうるさく音を立てていた。
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