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ピンク髪の神、というとなんだか髪と神をかけているように思えて絶妙に言いづらい。かといってピンク神と省略してしまえば、今度はピンクの神のようだ。ピンクの神といったら、なんだかエッチなものを連想してしまいそうになる。
それはさすがにどこの誰とも知らない青年に申し訳ないので、俺はあの男のことを桃男と呼んでいた。ピンク色の髪をした男、である。神要素が何処かへ行ってしまったが、自ら神を名乗るようなおこがましい奴は桃男で十分だ。
俺が2度目に桃男に会ったのは、あれから一週間後のことだった。ルーティン営業でいつもの駅を降りた時、既視感のあるピンク色の髪の毛がちらりと視界の端に映った。神を自称した男は小さい飲み切りサイズのパック牛乳を咥えている。庶民的で逆に好感が持てるな、などと考えていれば、ふいに桃男は俺のほうをまっすぐに振り返った。
「っ」
ぎくり、と肩が跳ねる。だってこいつは先週の会話からも十分に窺い知れるヤバイ奴だ。怪しい新興宗教なんて関わらないが身のためだ。ちょっと話を聞くくらいなら…なんて軽い気持ちで手を出してはいけない。俺の友人も大学の学食で声をかけてきた先輩にほいほいついていってからというものの、教祖のすばらしさしか話さなくなった。
俺を振り返った桃男は相変わらず精工な人形のように整った顔をしていた。神です、なんて笑える話だが、人間とは思えないほどに浮世離れしていることもまた事実だった。金色の目が瞬きもせずに俺を射抜く。かと思えば、やけに親し気に片手を上げた。
「おぉ〜サラ男じゃん」
「誰だよ」
「サラリーマン」
「俺か?」
「うん」
なぜだか横に並んで駅前を歩く。桃男はかっぽかっぽとサンダルで地面を擦りながら、片手をポケットに突っ込み、片手で牛乳パックを握っていた。
関わらないぞ、と思ったのにもうこれだ。俺の未来は明るくないかもしれない。もし実家に怪しい人間が本でも届けに行ったらごめん。燃やしてください。
「お兄さん、運気が下がってるね」
「マジ? 占いは一位だったんだけどなぁ」
「何座?」
「水瓶」
「水瓶って響きがかっこいいよね」
どうも力の抜けた緩い会話だ。あまりに日常的な会話に、初っ端から警戒してかかっていた俺は拍子抜けた。今日は火星だの、宇宙だの、真理だのの話はないようだ。
ズゴゴ、と牛乳を吸った桃男が俺を見て、あ、と声を上げる。
「そうだ、サラ男っち、この後暇?」
「仕事中なんで」
「今日はこの後15時に講演会があって」
「コワイコワイコワイ。流れるように勧誘しないで、俺仕事……」
「大丈夫。ちゃんと勉強すれば、開祖様のお話がどれだけ大事なことかわかるようになるヨ」
にこっと笑いかけられた。俺が若い女の子だったら四の五も言わずについていってしまうだろう。危ない。この手の人間とは会話をするな。というかもうすでに話通じてなくない?
「え、えーっとなんだっけ? 火星が地球にぶつかったんだっけ?」
おい俺ぇ……サクッと逃げろよ。
しかしこの不思議な金色の目で見つめられれば、なんだか催眠術にでもかかったかのようにするすると会話を続けてしまう。
だけど俺の言葉に桃男は眉を吊り上げた。空耳か、チッと舌打ちが聞こえた気がする。怖い、怖すぎる。桃男は唸るように低く吐き捨てた。
「あれは違う。嘘だった」
「……え、そ、そうなの?」
桃男を見れば、ぎゅう、と顔を顰めている。なんだ、よかった。ちゃんと抜け出せたんだな。よかったよかった、と思うも束の間。
エッ、じゃあこいつこれから何の集会に行くわけ?
「あそこに神様はいなかった」
「あ、あーそうだね? うん。君が神なんだよ、きっとさ」
「インチキだ! ウソツキだ! 死ねよ、死ねッ死ねッ! 騙しやがってあのカスがよぉ!」
やべ、逃げよ。変なスイッチ押したわ。
桃男は律儀に畳んだ牛乳パックを蓋が開けられたままだったゴミ箱に投げ入れ、長い足でガツンガツンとゴミ箱を蹴りつけている。近くを歩いていた子どもを連れていた母親が察したように反対の歩道へ渡った。桃男が勢いよくゴミ箱を蹴ったため、空いたままになっていたゴミ箱の蓋がばこん、と閉まる。
最後に歩道に飛び出ていた不法投棄の自転車をガシャンと蹴って空き地側に倒すと桃男は、俺を振り返ってにこりと笑った。
情緒の不安定さが怖い。こいつはやっぱり関わっちゃいけないタイプの人間だ。
「でも、ボクがあいつらの嘘に気づけたのは膳心会のおかげなんだ」
また怪しいやつかよ。そんな推し変するノリで信仰変えするなよ。いや、していいけどさ。むしろして欲しいけどさ。
いったい人間が作り出した神の幻影はどれだけいるのだろう。神は心の支えとなっているのか。希望となっているのか。金儲けの手段となってはいないだろうか。俺は少しこの若者が心配になった。
「今はあんなまやかしを信じてる人間が可哀想だと思うよ」
「そうかそうか。じゃ」
「ボクらはみんな平等なんだ。選ばれた人間なんていない。みんながおんなじように幸せになれるんだ」
「そうだなー」
「サラ男だってそうだよ。でもボクらは何もしないで幸せになることはできないんですよ。教祖様の教えを聞き、自らを高めてよい行いをする必要があるのです」
腕を掴まれた。振りほどこうかと思ったが、さっきの言動を考えると、逆上される可能性もある。今はまだ穏やかに話している桃男をあまり刺激しないほうがよいと俺は咄嗟に思った。
振り向いて桃男を見る。ピンク色の髪はパサついていて、毛先があちこちに跳ねていた。透明すぎる金色の目はあまりにも透き通り、純真無垢の赤ん坊のようだ。何を映しているのかわからないその瞳にじ、と見つめられた。
「だから、まずは何が正しいかを知らないといけないのです。取引先で機嫌を損ねてしまうのも、石に躓いてスーツに穴が開くのも、」
つい、と桃男が俺のお腹のあたりをさすった。妙な手つきにぞわりと鳥肌が立つ。
「ここがキリキリ痛むでしょ」
「……」
顔を覗き込まれた。鼻がぶつかりそうなほど近くに顔がある。あまりに整った顔と、漂ってくる不思議な香りに心臓がトク、トク、と脈打つのが聞こえた。
「かわいそうに」
桃男が俺の腹をゆっくりとさする。大きな手のひらに撫でられて、暖かさを感じる。じわり、としたその人肌に、年中おさまらない胃痛がいくらか和らいだ気がした。
「なぁんにも、お兄さんは悪くないのに、いっつも悪者になっちゃう。サラ男は頑張ってるね。なのに、上司はいっつも無茶振りばっかり。無理なノルマなんて達成できなくて当たり前なのに」
相変わらず、何を映しているのかわからない金色の瞳がきゅう、と細くなった。まるで三日月のようだ。
「全部、全部、間違ってるんだ。でも、サラ男も知らないでしょ? 何が間違ってるんだろうねぇ? 正しいことを知れば、わかるよ。あなたの周りの人間がいかに間違っているか。だけど今はまだ、あなたも間違っているのです。あなたが報われないのはあなたが正しい行いが何たるかを知らないからです」
桃男が俺の手を握った。大きな手のひらに握り込まれる。はぁ、と桃男が吐息を吐き出した。陽がさして、桃男の目元に影ができる。ピンク色の髪の下で赤い影を落とした目元が金色に光った。
「ボクは貴方に幸せになってもらいたい……一緒においで?」
「…………」
何か言おうと口を開くが、何も出てこなかった。桃男はじぃ、と俺を見つめている。そのあまりにも綺麗な瞳に覗き込まれて、俺はだんだん自分が小さくなっていく錯覚を見た。
もうだめだ。これ以上縮んだら俺は消えてしまう。そう焦ったそのとき、尻ポケットに突っ込んだ仕事用の携帯がヴーと震えた。
ハッと意識が戻る。冷や汗が流れた。
危ない。なんだコイツは。マインドコントロールでも習ってるのか? される側ではなく?
桃男を押し退け、腕時計を見るフリをした。金色の目に見張られている気がする。
「あ、あー……」
なんだか数十年ぶりに声を出したかのような違和感だ。咳払いをして喉のつっかえを誤魔化すと俺は営業スマイルを張り付けて桃男に手を振った。
「わり、また今度な」
ひら、と手を振ってダッシュ!
ちょうどバス停にバスが来たところだった。滑りこむようにバスに飛び乗る。発車してからちらり、と後ろを見ると、ぼんやりと佇んだピンク髪が見えた。
ドク、ドク、と心臓が波打つのがわかる。ヤベー奴ってのは一定数いるものだ。だけど、あいつは、特段ヤベーと思う。
今もまだ、漂ってきた不思議な香水の匂いが毒気を含んだ鱗粉のようにまとわりついて離れない。触れられた腹の辺りが熱かった。胃痛はいつの間にか、治っていた。
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