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 あ、いる。

 曲がり角の電柱の影。黒のスカートに白のブラウスを着ている。ブラウスの襟元には白色の大きなリボンが結ばれていて、恥ずかしそうにリボンの向きを調整していた。まっすぐな黒髪が今日も艶々としていて。

 見惚れるより前に、俺は咄嗟に後ろを向いて駆け出した。

「あっぶね! 忘れ物しちゃった!」

 勘違いされないよう駄目押しの呟きも残しておく。完璧な対応だ。そんな俺の臨機応変神対応なんて、どうせ掻い潜ってくるんだけどな!

 案の定、後からは厚底ヒールをごつごつ鳴らした足音が聞こえてきた。その足でよくやるよ。履いてる靴ってあの鈍器みたいなブーツでしょ? そんなんで走ったら足首捻るよ。転んでも俺はもう助けないからな。絶対に!

「あっ、いたっ……!」

 考えた直後、小さな悲鳴とともに、地面と布の擦れる音がした。
 思わず俺も立ち止まる。後ろを振り返らないようにあたりを見回す。

 完全なる住宅街の一角。人通りはゼロ。清々しいくらい人間の気配がない。いるのは塀の上の猫ちゃんくらい。体が重そうなくらい太っていてかわいい。ふてぶてしい目で俺を見ると、溜息を吐くように気だるげに鳴いた。おめえがどうにかしろや、とでも言いたげだ。

「いったぁ……」
「あー……」

 嫌だよ。関わりたくないんだって。

「いたぁい」
「う〜……」
「……うっ、ぅ、ひっく」

 あーもうわかったって! 振り返ればいいんでしょ! 手貸せばいいんでしょ!

「……だいじょうぶ?」




「ってわけで、また綾乃ちゃんと会話をしてしまいました!!」
「これ何の時間?」
「俺の懺悔だよ! ちゃんと話聞いて!」
「えー」

 山田はダルそうにパックの豆乳のストローを咥えている。相変わらず覇気がない。やる気もない。俺の話を聞く気もない。

 心底どうでもよさそうな顔をして女子学生を目で追っては、呑気に「お、あの子おっぱいでけぇ」などと言ってやがる。話聞けよ。いや、確かにでけーけど。え、でっか! すご!

「いや、そうじゃなくて!」

 机に手をついて身を乗り出せば、ようやく山田の目が俺を見た。すごく怠そうである。とてつもなく怠そうである。
 ごめんて。そんな顔させてごめんて。

「綾乃ちゃんてあの子でしょ?」

 山田が学生ホールの入り口付近を指さした。振り返って見てみると、見覚えのあるばかでけぇ白のリボン。綾乃ちゃんだ。

「うわぁ、やっぱりつけられてる」
「いや、大学同じなんだしつけるもなにも、同じところで授業受けてんじゃん」
「お前は知らないんだ! 毎朝家のすぐそこで待ち構えられる恐怖を!」
「えーあの子かわいいのに。むしろいいじゃん。おっぱいもでけぇし。サクッと告って彼女作れよ」

 他人事だと思って……

 綾乃ちゃんにつけられるようになったのはもう3か月ほど前になる。大学の最寄り駅を降りたところで段差に躓いてこけてしまった女の子がいた。清楚な雰囲気で黒髪が綺麗で、第一印象は「あ、可愛い」だった。
後から、あれは清楚ではなく地雷系というのだと山田に教えてもらったが、よくわからない。確かにちょっとメイクは濃いかもしれないけど。でも似合ってるんだからまぁいいだろう。

 とにかく転んだ可愛い女の子を放っておくわけにもいかず、俺は声をかけた。潤んだ目はかわいかったし、何より髪が綺麗だった。そんな好みのど真ん中みたいな女の子に小声で「ありがとう……」なんて言われたら俺だって嬉しくなる。

 そこから、綾乃ちゃんは校内で俺を見かける度に手を振ってくれたり、声をかけてくれるようになった。
 そこまではよかった。俺も山田が言ったように、ついに彼女ができるか? と浮かれたりもした。
綾乃ちゃんはよく現れた。講義室、食堂、図書館、駅。よく会うな、と思ったのも少しの間だ。バイト先、出先、家の前。だんだんとアレ? と思うようになって、ついにバイト先の社員さんに聞かれた。もしかして付き合ってるの?

 いいや、付き合ってない。これは偶然。

 慌てて否定すると少し心配そうな顔で声をかけられた。

「この間小屋原くんのシフトを教えてくれって聞かれてね」

 物腰の柔らかい社員さんは少しゾッとしたように俺に教えてくれた。あの子、もしかしたら君のストーカーかもしれないよ。

 俺の淡い幻想と期待は簡単に砕かれた。一度、そう言われてしまえば、もうそうとしか思えなくなってしまったのだ。俺だってずっと不思議に思っていたし、心あたりがありすぎる。

 それに俺を悩ませる問題はもう一つあった。
「山田。真面目な相談なんだけどさ」

 声のトーンを落とした俺に合わせて、山田がスッと耳を寄せてくれた。相変わらず目では女子学生を追っていたけれど、一応聞く気はあるらしい。一体こいつどんだけ女の子が好きなんだ。いや、分かるけど。俺も好きだけど。とはいえ絶対山田は女の子に困ってないだろこのイケメン野郎が。

 つい天然モノイケメンへの嫉妬で何を言おうとしたか忘れかけ、無意味に山田の耳元で息をする変態と化してしまった。山田が気持ち悪いものを遠巻きにするようにスススと離れていく。ごめんて。わざとじゃないんだって。お前の顔が綺麗なのが悪い。

 しょうがない。山田は離れて行ってしまったが、俺はもう一度自分から山田の耳に口を近づけるとこそっと耳打ちした。

「あのさ……最近ベランダに干してるパンツがやたらなくなるんだけど、どう思う?」

 週に一回、多い時は三日に一度くらいの頻度でなくなっている。深刻な問題だ。深刻すぎる。どこ行っちゃったんだろう、俺のパンツ。そもそも俺の部屋は二階だ。流石に入り込めなくない?

 俺がこんなにも真剣に相談しているというのに、山田は耳を押さえながら引きがちな目で俺を見た。

「え、お前のパンツとかちょーどうでもいい」
「あーお前に相談した俺が馬鹿だった」

 毎月の支出の四分の一がパンツ代って悲しすぎるだろ! パンツに食費を圧迫される俺の気にもなれ!
 真面目に聞いてくれない山田の耳を引っ張れば、顔を顰めた山田がきゅっと俺の手を握り込んだ。そういうことは平気でするくせに。

 俺の指で遊び始めた山田は、元々つりがちな眉をひそめ垂れ目をきゅう、と細めた。女子が好きな妙にエロい顔を作ると、山田は俺に言った。

「部屋に干せばいいじゃん」
「………確かに!」

 部屋干しの洗濯物に拒絶反応で鼻がむずむずしてしまう敏感な男だから、すっかり忘れていた。そうじゃん! 中に干せばいいじゃない!

「ありがとう、山田!」

 そうして俺は食費をかけたパンツ攻防攻略作戦を立てた。

 はずだった。




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