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 肌着がない。

 え、なんで?

 パンツは無事だ。今日は中に干した。だというのに、変わらず外に干していた洗濯物を入れると、明らかに服の数が減っている。

 特別風が強かったわけじゃない。もう誰かに盗られているとしか思えなかった。

 頭の片隅に、黒髪ロングが浮かぶ。綾乃ちゃんが……? いや、でもパンツだぞ? 何に使うの? 履くの? 俺のボクサーを?

 なくなった下着のことを考えながらベランダを閉めていれば、足元の虫かごが目に入った。中にはこの間偶然見つけたコクワガタが入っている。クワガタを見つけるなんてラッキーだし、つい嬉しくなって持って帰ってしまったのだ。中の昆虫ゼリーはすっかり減ってべったりと汚くなっている。そろそろ替え時だろう。

 虫かごを中に入れて新しいゼリーを持ってくる時に、やたら机の上のスマートフォンが振動していることに気が付いた。大量の通知が届いている。そんなに連絡が入るようなことってあったっけ。

 手に取って確認してみると一つは山田からだった。

『綾乃ちゃんのアカウント見つけたよ♪ フレンド登録と通知オンにしといたから』

 なんの話だ?
 開いて見て見ると、綾乃ちゃんのSNSのアカウントを特定した話というだった。

「うわっ、勝手に友達追加されとる」

 きっと俺が講義中に寝ていたところを勝手に操作されたのだろう。
 ついタップしてしまって、画面は綾乃ちゃんのアカウントに飛んだ。これでもかと加工された自撮りに加え、ぽこぽこと呟きが流れてくる。さっきから通知が鳴りやまなかったのは、綾乃ちゃんのこの呟きの通知らしかった。

「え…………」

 何気なく眺めていた画面に流れてくる文字列の一つが目に留まる。俺は思わず固まった。

『最近昆虫にハマってる!』
『カブトムシとか可愛い〜♡』
『でも一番好きなのはコクワガタ』
『欲しいなぁ。あの子』

 慌てて足元の虫かごを振り返った。かたかたと音を立てながら必死に残り少ないゼリーを食べようとしている姿が可愛い。角が邪魔をしてうまくゼリーにありつけないようだった。

「……あの子? あの子って?」

 この子?
 いや、そんなわけないじゃん! だいたい、綾乃ちゃんとか絶対虫触れないだろうし、クワガタとか掴み方もわからなそうだし。

 頭を振って、画面をスクロールする。流れてくるのは自撮りにご飯の写真、花の写真、かわいいカフェの写真。
 ほら、全然普通じゃん。何もおかしくなんて……

「……ん?」

 俺は気に留めず流した写真をもう一度遡って見てみた。綾乃ちゃんがおそらく自宅で撮影した写真で、カレーライスを映している。何の変哲もないただの飯の写真と一緒に『カレー美味しい』と一言入れられていた。その日付を確認する。

 一昨日。俺もこの日はカレーを作った。

「…………」

 いや、そんなことはない。ただの偶然だ。カレーなんて誰だっていつだって作りたくなる日はある。
 視線を落として画面を見つめる。カレーの写真を閉じれば、花の写真が目に入った。薄紫の花弁がくるくるとレースのように波打った花。頭に何かがひっかかる。

 花……花……紫……

「っ!」

 そうだ。この花、先週の実習で植え付けをやった花と同じ種類だ。

「……え、な、なんで……?」

 偶然? 本当に偶然? 一度浮かんだ猜疑心がむくむくと大きくなっていく。心臓がどくどくと音を立てていた。立ち竦んで動けない。
 ベランダから吹いてきた風がカーテンを揺らして音を立てた。些細な音にびくりと肩が跳ねてしまう。

 俺は、見られている?
 どこだ? どこから見られてる?

 ぎこちなく首を動かして部屋の周囲を見回したその時、手の中のスマートフォンが大きな音を立てて振動した。
 
「ひ、わっ!」

 思わずスマートフォンを落としそうになった。震える手で画面を見てみれば、非通知設定で誰からなのかは分からない。

「え……え? なに、」

 着信音は鳴りやまない。俺は猛烈に怖くなった。1Rに一人きり。誰かに俺は見られている。確信は持てない。だけど、もうそうだとしか思えなかった。綾乃ちゃんなのか?

 着信音がなくなるまで、俺はぴくりとも動けなかった。ようやく部屋がシンと静まり返った瞬間、すがるように山田に電話をかける。

「山田! 山田!」
「あんだよ、俺今バイト中なんだけど」
「お、俺……俺……」
「あ、そーいや見た? 綾乃ちゃんの」
「なんなんだよあれ!!」
「うわ、びっくりしたぁ……そんな叫ばなくても」
「なんなんだよあれ! なんなんだよ!!」
「え、ちょっと、大丈夫? どうした、落ち着けって」

 気づけば膝ががくがくと震えていた。かろうじて大声を出すことで体を支えている。電話口の山田は珍しく狼狽えていて、そのことが余計に俺の頭から冷静さを奪っていった。

「どうした? 何かあった?」

 いつもは馬鹿にしてくる山田が流石に心配そうに聞いてくる。その声の優しさに、知らぬ間に浅くなっていた呼吸が徐々に深いものになっていく。

「あ、あの」
「あーっ、ごめん! お客さん来ちゃった! またあとで話聞くから!」

 ぷつり、と電話が切れる。部屋は再び無音となった。

「は……? はぁ? ふざけんなよアイツ有り得ないだろ」

 今ここで俺を一人にすんじゃねえよ。ぞくぞくと背筋に悪寒が走る。手に持ったままだったスマートフォンの画面がパッと明るくなって山田からのメッセージが表示された。

『今日上がるの0時だから夜まで待って。お前もバイトサボんなよ』
「あっ、やべバイト!」

 夕勤に入っていたのをすっかり忘れていた。時計を見て、まだ急がずとも間に合う時間であることを確認する。だけど一刻もこの部屋から出たかった俺は、ベランダともう一つの窓を施錠したことを何度も確認し、家を出てからも玄関の鍵を何度も閉めなおした。

「よし。閉めた。もう開かない」

 ドアノブを握って引っ張ってみる。ガチャ、とつっかかりがあり開かない。よし!

 暗くなり始めた空でカラスの鳴き声が耳に入る。恐怖の閾値が下がりきった今の俺はたったそれだけでぴくりと肩を震わしてしまった。
 早く人気のある場所に行きたい。幸い今日は夜まで拘束される。俺は走って階段を降りた。




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