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「っ!」

 やばい。やばいやばいやばい。どうしよう、どうしよう。

 その場に突っ立って、俺はぴくりとも動けなくなった。ただ心臓が口から飛び出そうなくらいやかましく鳴っていて。

 玄関の扉が開く音がした。いっそ飛び降りてしまおうか、なんて馬鹿みたいな考えが頭をよぎる。

 俺は何も見ていない。そうだ、何も見なかったフリをすればいい。だって、アレが俺だと決まったわけではないのだから。

 足音が近づいてくる。自分が今どんな顔をしているのかさえ分からなかった。貼り付けられたように足は一歩も動かない。

 玄関には俺の靴が置いてあるのだし、誰かが家に入っていることは音牧さんも理解していたはずだ。やけにゆったりとした足取りはいつもの音牧さんの軽やかでスマートで大人の余裕が感じられる。

 実際、部屋に入ってきた音牧さんはまったくと言っていいほど、いつもと変わりなかった。数時間前に顔を合わして、俺に心配だ、とそう言った顔。穏やかな顔で、線が細くて、俺を見るとにっこりと笑った。

 俺が大好きだった、その笑顔。あ、と小さな声が出た。水を飲んだはずなのに、ひどく喉が渇く。

「鍵、使ってくれたんだね。嬉しい。おかえり、小屋原くん」
「あ…………」

 ふわりと笑って音牧さんがこちらへ近づいてくる。いつも通りにしようと思うのに、体が震えていることに気が付いた。何か言いたいのに、言葉が出ない。

 固まる俺に音牧さんは何も言わなかった。あんなに心配してくれていたのに。どうしてそんなに普通に笑っていられるの?

 伸びてきた手が俺の頬にかかった髪を耳にかけた。首元に息がかかる。外の空気を孕んだ音牧さんの体は少し熱を帯びていて、気づけば抱きすくめられていた。仕事の名残を残したオイルの匂いに、独特の深みを持った香水の匂い。お風呂上りの清潔な匂いとも違うそれは、音牧さんの普段は見えない性の匂いを感じさせた。

「え……あ、な」

「どうしたの?」

 囁くような声がそのまま耳元で吹き込まれる。体を包む体温は温かいのに落ち着かなかった。横目にクローゼットの隙間が見える。目が合う。俺だ。やっぱり、俺だ。

「怖い?」

 俺の視線の先を察してか、くすり、と息を漏らすようにして音牧さんが笑った。俺のことなんて全部見透かしているように。

「隠してるつもりだったんだけど。わざわざ見ちゃったの?」

 耳に唇が触れそうだ。生々しい感触をすぐそこに感じる。

「ち、ちが……あ、開いてて……隙間がっ、だって」

 目に入ってしまって。見たかったわけじゃなくて。こんなこと、音牧さんがしてるなんて信じたくなくて。

「あーははっ、俺もうっかりしてた。まさか渡したその日に来てくれるとは思ってなかったし。どうしてうちまで来てくれたの?」

 逃げようと思えば逃げられるくらい、音牧さんが俺を抱きしめる力は緩かった。だけど振り払うこともできず蜘蛛の糸にからめとられたように動けない。腰のあたりには固くなったものがあたっている感触があった。

 ……勃ってる。音牧さん、俺で興奮してる。俺、何もしてないよ。疲れてたの? なんで……? 

 家を飛び出す前に触った濡れた下着の気持ち悪さを思い出す。あれってそういうことなの? 
 いつの間にか荒くなっている音牧さんの呼吸が耳にかかった。触れられた場所から鳥肌が立っていく。

「お、音牧さん……っ」
「っ、かわいいよ、小屋原くん」

 ごし、と腰に硬く主張するものが擦り付けられる。ただでさえ震えていた足からガクンと力が抜け、開きかけたクローゼットの中に倒れるようにへたり込んでしまった。そんな俺に追い打ちをかけるように、音牧さんが覆いかぶさってくる。何か訴えかけようと開いた口にはぬるりとした舌が入り込んできた。気持ち悪かった。

「んぐっ……」
「は……」

 身を捩ることも、押しのけることもできない。目に入るクローゼットの壁にはいっぱい俺がいて、汚れている写真もいっぱいあって。もう意味が分からなくて、体は震えているのに何の抵抗も示すことができなかった。まだ現実を受け入れられていないみたいに頭が追いつかない。

「んっ、んぅ」

 それなのに口の中に入り込んできた舌は容赦なく咥内を犯していく。俺を飲み込むみたいにどんどん深くなっていって、押されるがままにクローゼットの机の下に収まってしまい逃げ場がない。

「はっ……んっ」

 一本一本にまとわりつくように、歯列をなぞられ舌を絡められる。くちゃ、と水音が立って頭が真っ白になった。嫌なのに、気持ち悪いと思うのにされるがままにこんなことをされている。上あごを擦られた時、思わず生理的にびくんと震えてしまった。

「ぁっ……」

 上ずった声は鼻にかかっていて、音牧さんは興奮したように息を吐きだした。ようやく離れていった唇が三日月型になる。覗いた白い歯は綺麗な歯並びで、薄赤い唇からはどっちとも知れない唾液が引いていた。

 ズボンを押し上げてパンパンになっている音牧さんのソレとは対照的に、俺のものは一向に萎えている。その急所に音牧さんはおもむろに手を這わせた。

 やってくるのは快感でもなんでもない。俺とは真逆の反応を見せている音牧さんが理解できなくて、ただ急所を握られる恐怖だけでいっぱいになる。

「震えてる。そんなに怖がらないで」
「な、なんで……? なんで……?」

 ぼろぼろと涙がこぼれてきた。圧倒的非力感。弄られても一向に反応を見せず、ただ涙を流す俺に音牧さんが少しショックを受けたような顔をした。視線が横に逸れ、何かを手に取ったのが見える。白く光ったそれを俺に見えるようにかざして音牧さんは笑った。

「泣かないで、小屋原くん。小屋原くんは俺のこと受け入れてくれるよね」
「やっ……な、なに? なに!?」

 音牧さんが手にしているものを理解するのに時間がかかった。首をぶんぶん振れば、悲しそうに、俺の前にかざしたナイフを自分の首筋にあてる。ゾッと鳥肌が立った。

「な、なにしてるんですか!? な、なんで、」
「俺のこと、気持ち悪い? 気持ち悪いんだよね」
「っあ、あの……おれ、おれ……」

 気持ち悪い。もう何もかも気持ち悪い。触れている肌も、舐め取られた口の中も。反射で吐き気がやってきて、喉がきゅうとしまる。ぐっと喉を詰まらせた俺を見下ろして、音牧さんが笑った。泣きたい時みたいな、歪な笑顔。俺が見てきた笑顔じゃない。音牧さんの整った顔が歪む。

 キラ、と光ったナイフが俺に向いた。息を飲んで音牧さんを見上げる。

 刃の部分に添えられた音牧さんの指は、今にも皮膚が切れそうで。

「や、やめてください……」

 蚊の鳴くような声が出た。頬が涙で濡れて、視界も淡くぼやけている。俺の言葉など少しも聞かないで、音牧さんは一層刃に指を押し付けた。

「っ、やめて……」

 ぷつり、と赤い血が浮いた。みるみるうちに盛り上がって、限界に達した血液がぽたりと俺の首筋に落ちてくる。

「じゃあ、受け入れて」

 控えめだけど透き通った声で、そう言った。大きく息をしながら、不気味に笑う音牧さんを見上げる。色素の薄い瞳は俺を見ているのに、どこか遠くを見ているようで、目が合っているようには思えなかった。

 震える俺の無言を音牧さんは肯定と受け取ったみたいだった。一瞬、いつもと同じように柔らかい笑顔を向けると、俺の首筋のすぐ横にナイフを刺す。びくりと肩が震えた。動けば冷たい刃があたりそうだった。

「っ、は…………音牧さ……」

 音牧さんが限界まで膨張した性器を取り出す。凶器にしか見えないそれを音牧さんは、シャツをたくし上げた俺の腹に押し付けた。素肌に熱くねっとりとした先走りが擦り付けられる。当てられる熱の生々しさに全身に鳥肌が立ち、あ、と声が出た。

「っ、小屋原くん……っ!」

 荒い息を吐きだした音牧さんが背中に腕を回してくる。ぎゅっと肌が密着し、俺の腹の上で勃起した性器が上下に動く。俺で快楽を得ようとしている人の下で、ただじっと息をひそめて待つしかなかった。熱い。怖い。気持ち悪い。

「は……っ、ぅ」
「っ……!」

 どんどん速さを増して、びくびく震えているのが伝わってくる。抱き寄せた俺の耳元で音牧さんが辛そうな声を上げる。

 音牧さんの腕の中で、俺はただ固まっていた。早く終われ、早く終われ、と念じるだけ。

「――!」

 一層、苦し気なうめき声が耳元で吐き出され、音牧さんがびくっと震える。熱いものが俺の腹を汚した。視線を落とせば白濁が飛び散って、腹はてらてら光っている。紙袋に入っていた濡れた下着を思い出して吐き気がこみ上げてきた。あれと同じもの。

 なんで……本当になんで……

「……あ、ふふっ」
「ふっ……ぅ……うぅ……ん、」

 感覚のなくなった身体のせいで、自分がどうなっているのかよくわからない。音牧さんが離れて行って、ようやく動くようになった腕で顔を覆う。ひっきりなしに涙が流れてきて、嗚咽が漏れた。

 足を動かせばぴちゃ、と音が立つ。なんだかお尻が濡れてる。音牧さんの熱だけじゃない温かみを感じる。

「あぁ、小屋原くん……」

 音牧さんが聞いたことがないくらい、明るく浮き立った声を上げた。そろそろと足元を見下ろせば、水たまりができていた。なんで? と思っている間にもどんどんその面積が広がっていく。

 ふいに、下半身が妙な解放感を覚えていることに気が付いた。目を落とせば履いたままのズボンからじょわ、と尿が染み出している。思わず羞恥で顔が赤くなった。俺の意思を離れて一向に止まってくれないそれに、音牧さんは恍惚とした表情で笑っていた。

「あぁ、ははっ、ほんと……かわいい」

 沁みができたズボンの上から音牧さんが俺のものに唇を這わせ、声にならない叫びが漏れる。

 誰か助けて。誰か――山田……

 俺は一体、いつからストーカーが一人だと錯覚していた?





『――なんで! なんで!? 音牧さん! 音牧さん!!』

 耳につけたイヤホンから流れてくる音声に深い溜息を吐き出した。
 憤りも通り越して、最早呆れるまである。メンヘラ女を解決した途端これかよ。アホじゃねぇの。つい誰にも聞かれない程度に舌打ちをしてしまう。

「山田くーん! 店長奢ってくれるって!」
「あぁ、すんません。俺今日、この後用事あって」
「え、そうなの。あ、待って!」

 そそくさと店を出て駅に向かう。一先ずは、この可哀想な男をどうにか救出してやらねばならない。
イラついてポケットに手を突っ込み、石を蹴飛ばした。イヤホンからは相変わらず気色悪い男の鼻息と、怯える小屋原のすすり泣く声が聞こえてくる。こんなんうっかり勃起してしまいそうだ。邪魔な音が多いけど。

 というか本当に危機感足りてないんじゃないの? 馬鹿でしょ、本当に。誘われたらほいほい家に行くわ、浮かれちゃって。アホで馬鹿でお人よしで。

「まぁそういうところが可愛いんだけどさ」

 スマートフォンを取り出して検索をかければ、小屋原のスマートフォンは自宅でぴかぴか光っている。聞こえてくる音声は小屋原が持っている音楽プレーヤーからのようだ。こちらは小屋原の家からは少し離れた場所にあるようだった。例の社員の家だろう。

 足早に歩きながら溜息を吐き出した。深夜となっても明るい駅には酔っぱらいが吸い込まれていく。能天気なそいつらを横目にぽつりと呟いた声は、雑踏に紛れてかき消された。

「いい加減、監禁しようかなぁ……」




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