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最初に考えたのは山田のバイト先だった。
だけど、走ってしばらくして落ち着けば、俺はキーケースしか持ってきていないことを思い出した。財布もスマホも置いてきた。山田のバイト先はここから3駅先になる。歩いていけば二時間はかかるだろう。
駅前のベンチに座り込む。ここは人通りが多くて安心できた。俺の最寄。大学までだったら歩いても行ける距離だ。だとしても、あの写真には学校での俺を撮ったものもたくさんあった。もしかしたら大学の人間の可能性もある。だったら、大学に逃げ込んでもすぐに見つかってしまいそうだ。
ポケットの中のキーケースを握る。家の鍵、実家の鍵、音牧さんの家の鍵。
もう音牧さんも帰っている時間だろう。少し歩くが、歩けない距離じゃない。頼るのも申し訳ない気持ちがあったが、誰かにいてもらわないとどうにかなってしまいそうだった。
よし、と心を決めると一度だけ行ったことのある音牧さんのマンションへ向かうことにした。
駅とバイト先の中間。馴染みのないスーパーを通りすぎる。自転車に乗った中学生がジャージで隣を横切っていった。ビールをレジ袋に詰め込んだサラリーマンが前を歩く。見覚えのあるエントランスが目に入った時、オレンジ色の温かい照明にようやくほっと息を吐き出せた。
俺の住む学生アパートとは違い、オートロックでセキュリティがしっかりしたマンションだ。エントランスでインターホンを押しても、音牧さんは出なかった。もう終業しているはずだし帰っていると思ったけれど、まだなのかもしれない。ここで待っても、管理人さんに怪しまれる可能性がある。
しばらくエントランスで迷っていたが、仕事帰りらしい女性が不審そうな目で俺を見ていることに気がついて慌てて鍵を取り出した。ポストを確認していた女性がようやく俺から目を逸らす。もう後にも引けない。
とはいえいくら優しくて面倒を見てくれているからといって、バイト先の社員さんの家にこんなバイトが押し掛けるなんて迷惑じゃないだろうか。
玄関に鍵をさし込むところまで行っても、まだ俺はじりじりと悩んでいた。なんだか俺が音牧さんのストーカーでもしているような気分だった。せめてスマホは持ってくるんだった。これじゃ、俺が不審者みたいになってしまう。
もうなるようになれ、という気持ちで扉を開く。暗い部屋には家主が帰った気配はなく、ひんやりとした空気が立ち込めていた。とりあえず電気をつけてみる。しばらく玄関で立ちすくんでいたが、そっと靴を脱ぐと慎重に部屋の中に入った。空き巣にでも来たような気分だった。
ずっと体が緊張していたからか、ひどく喉が渇いている。心の中で音牧さんに謝って、コップを借りると水をいただいた。冷えた水が喉を伝るのが気持ちよくて、つい二杯目も飲み干してしまった。
ようやく一息ついて部屋を見渡す。相変わらず綺麗に整頓された部屋で、なぜかいい匂いが漂っていた。いつもの音牧さんのオイルの匂いからは程遠い、芳香剤のような強烈な匂いとも違う清楚な香り。息を吸いこむと、頭がすっと落ち着いた。
ふと、ベッドが置いてあるベランダ側に目を向けると、洗濯物が外に干したままになっているのが見えた。散々洗濯物を盗まれてきた危機意識でつい気になってしまう。過ぎたおせっかいかもしれないが、俺はベランダの洗濯物を中に取り込むことにした。
カーテンのレールにハンガーを引っかけていたが、場所が足りなくなり周りを見渡す。クローゼットの横のつっぱり棒がちょうどよさそうだった。クローゼットの扉がわずかに開いている。どこか油くさい匂いがその中からしてきて、バイク用品をしまっているのかな、と思った。
つい中を覗いてしまって、クローゼットの中が小さな書斎のように作り替えられているのが見えた。ずいぶん凝っている。秘密基地みたいでいいなぁ、なんて思って。
「……」
写真が目に入った。壁にも、机の上にも、いっぱい。見覚えのある白い便箋、見覚えのある布。
「っ……え、」
見てはいけないものを見てしまったようで後ずさった。
どうにも写真に写っているのが自分のように思えてしまった。見間違い? そうに決まっている。
いや、だとしても、じゃあどうして音牧さんは自分の映っていない写真をあんな大量に壁に貼り付けてるの。
あれは俺だった? それとも違う人?
心臓が凄まじい勢いで跳ね上がっている。脂汗が滲んだ。
無音の部屋が怖い。ここにいてはいけないような気がした。でもどこに行こう。一度家に帰って、せめて財布だけでも取ってくるべきか。そうしたら山田のところへ行ける。
もう一度、クローゼットの中を見ようとして思いとどまる。握った手の平がやけに湿っていた。
今ここであの写真を直視してしまえば、本当に音牧さんが俺のポストにあの大量の写真を投函していたということになる。今なら、今ならまだ俺は見なかったことにできる。勘違いだったと思うことができる。俺はまだ確かめたわけではないのだ。あの写真が俺なのか、一瞬見ただけでそうだと言い切ることはできない。
そうだろう? だって、音牧さんが、そんなことをするはずがない。あれは俺じゃない。絶対に違う。
全身がかたかたと震えていた。やっぱり帰ろう。連絡もなしに勝手に入るなんて迷惑だ。そうだ。誰だって、踏み込んでほしくない領域を持っている。
玄関へ向かおうと体の向きを変えた。
がちゃりとドアノブの回る音が部屋に響いた。
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