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「おー東條くん、久しぶり」
相変わらず髪の毛は重たげにもっさりしているが、妙に安心感を持つその姿に顔がほころぶ。顔を上げた東條くんが俺を捉え、びっくりしたように肩を震わした。すぐに近くまで駆け寄ってきて会釈をしてくれる。会釈なんて離れていてもできるのに、わざわざ来てくれるところに犬のような可愛さを感じてしまった。
「元気だった?」
こくこくと頷くのを見て、俺も凹んでいた心が元気になる。東條くんはなんだかそわそわしながら俺を窺った。
「あー、今日はもうお店も閉まっちゃうよね。また東條くんがいる時に来るよ。駅まで一緒に歩こうか」
そう言えば、東條くんはちょっと残念そうに肩を落とし、長い足でやけに小さな歩幅で歩きだした。東條くんが隣にいる時のこの安心感は何だろう。隣でちょこちょこと歩く東條くんは今日も穏やかな周波を出している。
「今日は仕事はどうだった?」
聞けば、ムムッとした顔で首を傾げながら親指と人差し指で丸を作る。まずまずといったところだろうか。
「そっか。無理せずにやれよ。聞いてよ、俺はね。ハローワークに行って、逃げてきた」
「……」
「ほら、ブルーな時ってあるじゃん? 同居人ともいろいろあって、もう働きたくねぇよって思ってたんだけど」
ざり、と東條くんが足を引きづる。頭上の街灯に甲虫がぶつかる音が聞こえた。隣で東條くんの雰囲気が少し硬いものになる。
「大丈夫。ちゃんと頑張るよ」
東條くんを見上げると、複雑そうな顔で俺をじっと見ていた。笑いかけたが、頬がうまく動かなかった。
「……」
東條くんは口を開いたり、閉じたり、唇を噛んだり、何か言いたげな様子だった。言葉が出て来ないようで、もどかしそうに軽く握った手を腰のあたりで振っている。
「あぁ、同居人のこと? そうそう、前に言ったあのヤリチン野郎。酔っ払うと俺のこと抱くってことばらしてやったら家出されちゃった」
笑って言えば、気遣わしげな視線を向けられた。どぎつい話をしているのに引くどころか心配してくれている。つくづくいい子だ。
「……恩人なんだよね。高校の同級生でさ。あれ? 中学も一緒だったっけ」
俺が話し始めると、東條くんは落ち着きのなかった手を横に下ろした。相変わらず一言も発しないが、今日も静かに誠実に俺の話を聞いてくれる。おかげで聞かれてもいない話がぼろぼろとこぼれていく。
「俺、昔努めてた会社が超ブラックでさ。毎日駅に行くたび、あー今かな、とか飛び込むタイミング無意識に探ってて。一回、今だ!って思っちゃった時があったんだよ。そん時そいつに運よく助けられてすげぇ怒られた。結局、それからずっとそいつの世話になっちゃってんだよね」
運がよかったのか悪かったのか。せっかく死のうと思ったのに誰だよクソが、と思えばイケメンでヤリチンで俺が落ちた第一志望の大学に入りやがった折本くんじゃないですか。折本、すごい顔してたな。
六年ぶりに会ったというのに、折本は俺を見て即座に「真崎」と口にした。同じ学校、同じクラスと言っても、一緒にいたわけじゃない。時たま下らない会話をしては笑っていた記憶がある。それだけだ。
昔から折本は一人だけ出しているオーラが違った。華やかなのに嫌味じゃなくて、敵意もなければ悪意もない。ヤリチン遊び人のくせしてなぜだか人望があって。
そんな魅力は俺には少しもないものだから、ひそかにいいなぁ、なんて思っていた。人を変え、人を巻き込み、空気を変える。そういうものを魅力と呼ぶのだろうけれど、それが折本にはあった。俺には到底、何も変えられない。
「もうさ、毎日しんどくて、怖くて、最悪だったよ。自分が目つけられたくないから、見て見ぬふりして。だけど俺も妙なプライドがあるもんだから、後輩庇って危うく上司殴るとこだった。あははっ、俺はヒーローでもなんでもないのに」
こんなにも昔のことを思い出す日はそうそうない。沢田に聞かれたせいで、すっかり消え去っていた記憶がどんどん引きづり出されていくのを感じる。東條くんが息を飲んだ。こんな話聞かされても、困るだけだな。
「だから働くのもちょっと渋ってたんだけど……今は明確に働こうっていう意志があるよ。いろいろあったけど、後悔はしてない。ごめんね、こんな話して」
静かな夜道に、俺の声と二人分の足音だけが響く。そういえば駅に向かっているけれど、終電もそろそろなんじゃないだろうか。こんなにゆっくり歩いていて間に合うだろうか。
「時間、遅いでしょ。東條くん話しやすいから、つい喋りすぎちゃうや。まだ二回しか会ったことないのにね」
声を上げて笑ったが、東條くんはしゃべらないから何を思っているのかは分からない。電車の時間が心配で歩くスピードを速めたが、聞こえてくる足音はさっきまでと変わらない速度だった。
引きづり気味の足音が消え失せそうなほど弱々しくなって、背後で止まる。とうに隣に東條くんの温もりはなかった。少し速すぎただろうか。
心配になって後ろを振り返れば、東條くんが俯いて立ち尽くしていた。暗い視界の中、街灯と信号の明かりで辛うじて顔が照らされている。その頬が光っていた。
「……っ」
「え、ちょ」
泣いてる。東條くんが泣いてる。ぽろぽろと落ちていく雫が微動だにしない東條くんの頬を濡らしていく。
「え⁉ うそ、ごめん! お腹痛い? 酔っちゃった? 気持ち悪い?」
慌てて東條くんに駆け寄ってハンカチを取り出した。ちゃんと畳んでいなかったから皺だらけで申し訳ない。はらはらと涙を流す東條くんは俯いてしまって、俺の差し出したハンカチなど受け取る気配がなかった。どうしたらいいのか分からなくて、その場でおろおろとしていたら、東條くんが小さくしゃくり上げる。
「ご、ごめん! 嫌な話しちゃったね」
ふるふると首を横に振った東條くんがは、と息を吐き出した。柔らかいテノールが空気を震わし、心地よい響きが耳に入る。
「先輩……やっぱり俺のこと、覚えてないんですね」
初めて聞いた東條くんの声は、穏やかな何かに包まれるような不思議な感覚を持っていた。もう何時間も声を出していないのだろうとは考えられないくらいに、いい声。
そんな声で絶望したようにぽつりと呟くのだ。無口の東條くんが喋った衝撃よりも、泣かせてしまった動揺が勝った。
「え、え、うそ。会ったことあったっけ?」
「…………うん」
うん。たった一言だというのにすっぽりと頭がぬるま湯に包まれたような気分になる。
この感覚に覚えがあった。どこだっけ。どこでこの声を聞いたっけ。なんだかすごく懐かしいような、安心するような。震えが止まらなくなるような。
「ちょっと待って! もうちょっとで思い出せるから!」
あの子だよ。そう、あの子。あの子なのは分かってる。いや、あの子って誰だ?
ものすごく覚えがある。この声だけは覚えている。
「あー……えーっと」
折本以外の人間と会わなすぎたからか、俺の脳みその容量はどんどん小さくなっているようだ。一向に思い出せない俺に、東條くんが悲し気に唇を噛む。
「いいです。いいんです。無理に思い出してほしいわけじゃないんです。先輩もきっと思い出したくないんだろうから」
顔を上げて俺と目を合わせると、東條くんは眉を下げてほほ笑んだ。全然嬉しそうでも楽しそうでもない笑顔。長身で手足の長い東條くんは、その図体に似合わず子犬のようで、どうにも庇護欲が湧いてしまう。こんな顔をされたら何が何でも思い出さねばという気持ちになってしまう。
その時、何気ない仕草で眼鏡を上げた東條くんの左手が目に入った。その左手には指が二本、足りない。小指と薬指のない少し歪な三本指。
脳の回路が一気に繋がった。
「っ、東條! お前東條か‼」
思わず東條くんの肩を力任せに掴んだ。びくりと震えたのが分かって慌てて力を緩める。
二年前、ほぼ二十四時間、俺の隣にいた男だ。
というと語弊があるかもしれない。前に勤めていた会社で隣のデスクだった後輩。当時はまだ新入社員だった。
「お前……生きてたのか」
「見ての通りですけど」
「まだあそこに」
「やめました」
ホッと息を吐きだした俺を見て、東條くんが控えめに笑う。昔はこんなにもっさりしていなかったように思う。座ってばかりだったから、こんなに上背があることすら覚えていなかった。
「悪い、思い出せなくて……俺、あそこにいた時の記憶ほんとすっぽ抜けちゃってて。マジで二年間の記憶飛んでんだよね」
「いいですよ。思い出さないほうがいいです」
そう思わせる会社なんて、よっぽどのものだったんだな。そんなことすら自力で気づくことができなかったのだから、俺も相当狂っていたのだろう。
東條くんの頬はいまだに濡れて光っている。手に持ったままだったハンカチでごしごしと東條くんの顔を拭っていれば、ふいに背中に腕が回された。
「う、わ……え?」
ぎゅう、と東條くんが俺にしがみついている。でかい男の温もりに包まれて、馴れない匂いがした。ごそ、と俺を抱きしめたまま身じろぎした東條くんが鼻をすする。
「先輩が元気そうで、本当によかったです」
「う、うん。元気……」
「先輩、あの時、俺のこと庇ってくれたじゃないですか」
いつのことを言っているのか、言われなくても分かった。いつものパワハラ。事故で失くした東條くんの左指を揶揄った上司に、あの日の俺はブちぎれた。仕事をやめても折本がいる。その後ろ盾のせいで、俺はあの日、あの時だけは最強だった。
「先輩はあんなに俺のことを助けてくれていたのに、俺は先輩に何もしてあげられなかったんだなって、すごい思って……」
俺を抱きしめる腕の強さから、言葉を詰まらせる様子から、東條くんの純粋な思いが痛いくらいに伝わってきた。こんなにも、俺はこの子に何かをしてやれていたのか。
嬉しい、誇らしいと思うよりも、いたたまれなさを感じてしまった。
「どうしてるのかな、元気にしてるのかなって、ずっと思ってました」
事実は期待を裏切るニートだ。俺だけが一向に前に進めていない。
「なんか、ごめんね。俺、こんなで……」
「俺は別に、先輩が元気でいるなら、いいんです」
もぞ、と東條くんが俺の首筋に頭を押し付ける。どうすればいいのか分からず、とりあえずそのふわふわした頭を撫でておいた。
人通りの少ない夜中とはいえ、路上で男二人がぴったりとくっついているのも、あまり見れたもんじゃない。東條くんの背中を強めに叩いて離れようと顔を上げた。
ちょうど、頭上で歩道の青信号が点滅した。ちかちかと照らされた後、赤く染まった視界の中で、横断歩道の向かい側にいた男とまっすぐに目が合う。俺を見て目を見開いた。
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