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 沢田と入った居酒屋は、いつだったか折本と来た焼き鳥屋だった。沢田がテーブルに並んだ焼き鳥と枝豆をつまみながらビールを煽る。俺はあまり食欲もなく、ちびちびとビールを飲んでいた。

「というか、そもそもなんで真崎くんは折本とルームシェアしてるの? あいつけっこう共同生活とか苦手なタイプじゃない?」
「そりゃね。あんなヤリチンとルームシェアとか、俺じゃなかったら無理でしょ。俺は存在を限りなく空気にできるんで」

 沢田の視線から逃れるように枝豆に手を伸ばす。ようやく口に入れた固形物を喉に流し込むのがやはり億劫だった。

「絶賛ニートなんだっけ?」
「なぜ知ってる」

 思わず沢田を見れば、にこりと笑って肩を竦めるだけだった。しばらく、お互い何かを探るような目つきでじっと見つめ合う。というよりもメンチの切り合いに近いものがあった。先に折れたのは俺だった。

 完全に自分が優位に立っていると自覚しているような沢田の目つき。怒鳴られて怯えることも、土下座を強要されたこともないんだろう。じわり、と手のひらに汗がにじむ。

「やめたんだよ、仕事」
「ちゃんと働いてたんだ」
「まあね」

 会社を辞める気なんてさらさらなかった。

「アイツのせいだよ」

 実害が出てしまったのだ。

 就活生時代、面倒な適正検査で全てにおいて中間値を叩きだしていた俺も、ある一つの項目だけは飛びぬけていた。ストレス耐性である。

 そんな脅威のストレス耐性が買われ無事ブラック企業へ入社。カンストしたストレス耐性もバグを起こすほどのノンストップ業務。休日なんてものはなく、眠りにつける心の余裕もない。もはや地獄のノーワークノーライフ。
 そんな状態だったから、仕方のないことだと思う。

「弱ってる時にかけられる甘言って劇薬なんだよ」

 俺を駄目にしたのは紛れもなく折本だ。
 それまでどうにかやって来れていたのに。ほんのちょっと他人に気を遣われただけで崩れてしまった。

 泥のような日々を思い出す。朝起きて会社に行く。怒鳴られ、罵倒され、怯える毎日。時に手を上げられている同僚から目を逸らして、俺には関係ないって必死に言い聞かせた。暗くなったスーパーを横目に終電で帰ってはカップ麺を食らう。白んでゆく空に絶望しながら目を瞑って、今日こそ死のう、と幾度となく決意した。

 次第にタイピングができなくなった。パソコンを前にすると手が震えてしょうがなくなった。当然怒鳴られる。でも、そしたら頭の中で声がする。折本が優しく囁くのだ。甘く、優しく背を撫でる。

 折本のせいで俺は可哀想な人になった。折本のせいで俺は悲劇のヒロインになった。

「だからさ、滅多なことで同情なんてするもんじゃないよ」

 脳の奥底から蘇ってきた嫌な思い出を忘れるように、奢りのビールをぐいっと煽る。沢田は形の整った眉を寄せて神妙な顔で唸っていた。

「同情はその人の最後の砦を奪う行為だ」

 辛うじて支えにしていたプライドをぽきりと折ってしまう。それがろくでもないプライドだと、本心では分かっていたとしても、自分の力ではどうしても捨てられなかった。

「でも、真崎くんは折本に救われたわけだ」
「無職になるのと引き換えにね」
「嫌味に言うねぇ。同情されたこと、根に持ってるの?」
「違うよ。感謝してる」

 ただ。

「……」

 唇を噛んだ。唾液を飲み込み息を吐きだす。ただ息を吐き出しただけだったのに、重い溜息に変わってしまった。

「折本は気づいてないんだよ。俺の砦が折本にすり替わっただけだって」

 折本がいなければ生きていけない。そんなどうしようもない人間を作り出しておきながら、俺に言ったどんな言葉すらなかったことにするのだろうか。いい度胸じゃん。

 墓場まで持って行くような秘密でもなく、いつかは言ってやるつもりだった。いつかは突きつけてやるつもりだった。折本の好きも愛してるも、俺は全部欲しかったから。翌日には消えてなくなる言葉を実体の持ったものにしたかった。

「それはまた厄介だねぇ」

 親しみを感じる小さな笑いと共に沢田が言う。他人事だからって余裕だ。気の抜けた沢田を見て、俺も小さく笑った。

「ほんとにね。これほど厄介なことってある? でも、このままじゃ駄目だとは思うんだよ。いつまでも折本におんぶに抱っこで、折本の人生に寄生してさ」

 せめてハウスキーパーのように給料でももらっているのならいい。でも、俺は今、完全に折本に許容されることで生きているのだ。

 結露したグラスの表面に水滴が流れていく。半端に残ったビールの金色に目を落とした。沢田は急に大人しくなり、茶々を入れることもなく黙っていた。束の間、沈黙が落ちる。

「駄目なんだよ。いい加減、社会と繋がらないと」

 ぽつん、と呟いた声は擦り切れたようにくたびれていた。

 今、俺の世界は折本颯ただ一人で成り立っている。世界は個人じゃ成り立たない。社会が折本に帰属してるわけじゃない。そんなこと、分かっている。

「もういい年なのにね。だって俺たちもう二十六なんだよ?」
「俺はまだ二十五だけど」
「知らねえよ、お前の歳なんざ」
「理不尽〜」
「今とか結婚ラッシュだし。折本が結婚しないなんて言いきれる?」
「どうだろうね〜俺には想像つかないや」

 沢田が困ったように苦笑した。整った顔立ちはどんな表情でも様になっている。溜息を吐きだしてぬるいビールを口に含んだ。ろくにものを食べていないせいで、酔いが回るのがやたら早い。難しいことなど考えられなくなっている頭をぐしゃりとかき回す。

 机に肘をつけば、重さに耐えられなくなったように突っ伏してしまった。机の下で足がぶつかる。沢田が俺をちらりと見下ろして、下手な笑い方をした。机に広がった俺の髪が皿につかないようにすいてくれる。頭に男の節ばった指が触れる感触がした。

「結婚しなかったにしてもさ、こんなルームシェアなんて若いうちしかできねーじゃん。あいつが結婚したら俺だって流石に出ていくし、今みたいに異動で引っ越すってなっても……だから駄目になる前に慣らしとかないと。だって辛いじゃん。急に一人ぼっちになるなんて」
「うん」
「だから、就活始めたんだよね」
「偉いじゃん」
「うん……でも、うまくいかなくって」
「あれ、そうなの?」

 どこにも属さない自分の覚束なさ、曖昧さ。存在を否定されたわけでもないのに、全てのものに置いて行かれたような不安感。自分に対する嫌悪感で、人の言葉を素直に受け取れない。

 俺の髪をくるくると指に巻き付けて遊んでいた沢田の手が離れていく。頭上からカシャ、とカメラのシャッターを切る音が聞こえた。この野郎、酔っ払いを許可なく撮りやがったな。

「……ついむしゃくしゃしちゃって、嘘ついちゃった。転職先決まったって」
「エッ⁉」
「え?」

 やけに力強い相槌が聞こえて顔を上げる。沢田は眉を上げて二重の大きな目をぱちぱちと瞬いていた。俺の視線にハッとしたように首を傾げる。

「えー……枝豆?」
「頼む?」
「あ、おなしゃす」

 手を上げて店員さんを呼ぶ。沢田が何やらスマートフォンを弄っていた。ラストオーダーも近いのだろう。追加の注文を聞かれたが、もう既に大分酔いが回っていたから、俺は何も頼まなかった。
すっかり店内の客は俺たち二人になっている。天井に固定されたテレビに映る番組も、深夜ならではのオープンな下ネタが飛び交っていた。

 セックスレスな夫婦の悩み相談から、いつの間にかゲストの自慰行為の仕方にまで話が転じている。誰がそんなこと聞いて楽しむんだよ。聞きたくもねぇよ。

「なんかさ、折本、酔ってたのもあるんだけど、俺に出ていくなって何回も言うの。すっげー必死で、駄々こねてるみたいで」

 げらげらとテレビから笑い声が聞こえてくる。あの放送ってライブ放送なのかな。もしそうじゃなかったとしたら、正気じゃねえな。床オナがいいとか、そんなん地上波で流すなよ。アブノーマルこそ笑いの真骨頂なら俺が勝るぞ。

「それなのに出て行ったの、あいつだし……あんなに……あんなに、アナルセックスしてきたのに!」

 ブフォッと沢田がビールを吹き出した。しまった。テレビの内容に触発されてしまった。

「ディープすぎる……そこまで聞いてねぇよ……」

 沢田が引いたように顔を両手で覆った。がつん、と脛を蹴ってやれば、キラッと笑いながら「痛い!」と言う。平静を取り戻すように枝豆を高速で口に入れ始めたが、余計むせそうで心配になった。

「あいつ、俺のこと好きじゃねえのかよ……それとも俺も遊びだってのかよ!」

 あんなに好きだなんだ言ってきたのに。全部忘れるし、覚えていても逃げるし。
 どんっと机を拳で叩けば、案の定、枝豆を喉に詰まらせたらしい沢田がせき込みながら俺を諫めた。

「仮にさ、仮に。仮に折本くんが真崎くんのことをそれはもう心底大好きだったとする」
「当たり前だろ! あいつ俺が寝てる間にちゅーまでしてきたんだぞ!」
「急に覚醒するじゃん。この数秒で何があった。もしそうだったとして、片思い相手に知らないうちに手を出してましたーってなったら、どう? お家、帰れる?」
「帰れよ! 一発殴らせろ!」
「殴るな殴るな。いや、折本なら三発くらい殴られていいけど!」

 急に元気に喚き始めた俺のせいで、途端店内がやかましくなる。そろそろと近づいてきた女将さんが俺ではなく沢田に耳打ちした。

「もうまもなく閉店となります」

 あーあ。帰らなきゃ。せっかく酒が入って気持ちよくなってきたのに、また一人の家に帰らないといけない。沢田は愛想よく笑って、手を上げた。どうやら奢ってくれるらしい。

「真崎くん、一人で帰れる?」
「は? ナンパ? やめてもらえます?」
「この人酔うとめんどいな」

 失礼な奴だな。折本より数億倍マシだろうが。

 沢田の財布から何かが落ちた。立ち上がって拾い上げると、やけに洒落た紙幣のようなものだった。流石に日本円には見えない。

「なんか落ちたよ」

 沢田に見せれば、ぎゅうと目を絞って紙から顔を遠ざけたり近づけたりしてピントを合わせている。どうやらこの年で老眼らしい。

「あー……クーポンだな。あげるよ」
「どこの?」
「駅からちょっと歩いたところのバー」

 東條くんと会ったところか。そういえば、また行くねと言って結局一度も顔を見せていない。東條くんはいるだろうか。今日は金曜日。東條くんが来ている可能性が高い。帰りにちょっと覗いてみようか。

 店から出ればなおも沢田が送ろうか、と聞いてくる。前後不覚に酔っているわけでもないのだし、頑なに断ればあっさりと下がってホッとした。今、家の中は家事をサボったせいで荒れ果てている。それを沢田に見せるわけにはいかない。

「まあほら、きっとそろそろ折本も帰ってくるよ」
「どうかな……」

 帰っても気まずさは変わらないし、二か月後には折本も異動だ。何もかもが急すぎた。この状況で顔を合わせて、一体どうしたらいいのだろう。

「意外とあいつも繊細よね」
「あんなに女抱いてるくせしてよく言う」
「恋情がなくても性欲はありますから。大事なものほど触れられないことってない?」

 地面に視線を落としていれば、頭上から沢田の静かな声が降ってきた。

「俺は一人暮らしだけどさ」

 耳馴染みのいい爽やかな声。顔を上げれば、目が合ってにこりと笑いかけられた。整った笑顔に嫌気がさして、盛大に顔を顰めてやれば沢田も吹き出してにやりと笑った。爽やかな笑顔も、きっと処世術の一つ。社会に属している人間は皆、苦労している。

「正直、誰かと同居とか絶対できねえよ。どれだけ仲がいい相手だったとしてもね」

 最後にふっと笑うと、沢田は曲がり角で立ち止まった。振り向き際に手を挙げてふわりと笑う。

「じゃあね。健やかに生きろよ、ニート。折本によろしく」
「あ、ありがとう。話、聞いてくれて」
 なんか最後に馬鹿にされた気もするけど。

 沢田はひらひらと手を振って暗い夜道に溶け込んで見えなくなった。しばらくその場で立ち止まる。暗い家に帰るのがやっぱり嫌だった。

 一人暮らしとなれば、いつ帰っても誰もいない。沢田はそれを寂しいと感じることはないのだろうか。
どれだけ仲のいい相手だったとしても同居はできない、という気持ちも少し分かる。家族であろうと、友人であろうと、恋人であろうと、他人との距離感を測るのは難しいから。

 いかに折本との同居が俺にとって心地よいものであったのかが分かる。俺は折本に気を遣ったし、折本も俺に気を遣った。一方で俺は折本に遠慮をしなかったし、折本も俺に遠慮しなかった。折本のためだったら少しくらいの自我なんて犠牲にしていいと思っていたが、折本のおかげで失われずにすんだ自我を俺自身も尊重した。

 そんな生活が、自然にあった。ずっと続けばよいと思っていた。弊害なんて何もないと思っていた。

 好意が弊害になるのなら、それを手放すことはできるのか。

 俺には無理だ。それと同じで、性欲を手放せというのも無理な話だろう。なにせ生理的欲求だ。なら、別にその二つを共存させてしまえばいい。

 好きでいたいのなら好きでいればいいし、ヤりたいのであればヤればいいと思う。俺が許そう。その二つが許される関係が、一つだけある。

 カラン、と音が聞こえた。顔を上げればバーの前で、ちょうど店から見覚えのある野暮ったい男が出てきたところだった。



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