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 天下の折本が帰って来ない日は基本、飯を作る気にはならない。収入のない身としてはあまり無駄遣いはできないが、今日は俺も外に飲みに行くことにした。たまにはいいだろう。折本だって、毎日のようにもっと外に出ろって言ってくるしね。

 とはいえ、貯金を切り崩すのも正直そろそろ限界だった。

 労働量に見合わない雀の涙ほどのろくでもない退職金は、折本に強制的に口座の奥深くに入れさせられている。定額貯金を下ろすのは生きるか死ぬかの余裕がなくなった時でいい。
 
 働くだけで使う余裕がなかったせいで、それなりの貯金はあったが、それもそろそろ底を尽きる。あとは折本が気まぐれでくれるお小遣い。

 健全な二十六歳男児が聞いて呆れる。なんだか悲しくなってくるな。

 数少ない駅前の居酒屋は賑わっていて、一人客であろうと入れる余裕がなかった。しばらく歩いていればひっそりとしたバーが目に入る。たまにはいいかもしれない。いい酒を上品に飲んで、折本が帰る前にサクッと帰ろう。

 慣れないお洒落なバーに入ればテーブル席は空いていないようで、案内されたのはカウンター席だった。会社帰りらしい若いサラリーマンが隣に座っている。

 ちらりと盗み見すれば、重たい前髪にセルフレームの黒縁メガネをかけて、縮こまるようにしてウイスキーを飲んでいた。全体的にもっさりとしていて、そんな芋くささが妙に好印象である。

 だってバーに来るリーマンなんて普通意識高そうじゃない? それともアレか。ワンチャン狙っているタイプなのか。そうは見えないが、むしろだからこそそうなのかもしれない。

 にじみ出る童貞感。いいな、同士よ。酒でも奢りたくなっちゃう。これで折本みたいにヤリチンだったら許さん。いや、むしろギャップ萌えか……?

「…………」

 勝手に偏見を並べ立てていれば、横からスッとメニュー表が差し出された。
 おぉ……! 優しいじゃん! 気が利くじゃん!

「ありがとう」

 礼を言えばこくりと頷くだけで、しゃべってはくれない。寡黙なタイプなのかもしれない。

「お兄さんが飲んでるのは何?」
「…………」

 日頃引きこもっている人恋しさでつい話しかけてしまった。俺の言葉に、男はちょっと首を傾げながらメニューの上で人差し指を動かした。やっぱり言葉は発しないが、コミュニケーションを取る気がないわけではないらしい。

「これ?」

 顔を覗き込むようにして聞けばふい、と視線を逸らされた。小さく頷くが、メニュー表の上を彷徨っていた指が別のものをタンタンと叩く。クラフトビールの欄で、どうやら黒ビールらしい。

 え、俺の好み知ってんの? すげぇな。

「これが、おすすめ?」

 首を傾げてそう聞けば俯いてしまって、なんだか悪いことをしたような気分になった。人と話すのはあまり好きではないのかもしれない。

「あー、東條さん喋らないから!」
「え、あ、そうすか」

 注文を聞きに来たバーテンダーが笑ってそう言うと奥に行ってしまう。隣の男はおとなしく酒を舐めていた。名前を覚えられているなんて、ちゃんと常連だったんだな、この人。

「なんか、絡んでごめんね」

 一応謝っておけば、東條くんはふるふると首を横に振った。嫌ではなかったらしい。

「……お、東條くんが教えてくれたビール超美味い」

 俺が呟けばうんうん、と頷いてくれる。やっぱり会話したくないというわけでもないようだ。俺も日頃会話をする相手が話の通じないヤリチン野郎しかいないものだから、肯定的な反応につい嬉しくなる。

「東條くんはこの辺に住んでるの?」

 うーん、と首を傾ける。近所ってわけでもないようだ。

「会社の近くとか?」
「……」
 
 なるほど、職場の近くなのね。

「お仕事偉いねぇ……嫌になったりしない?」

 隣を見れば東條くんが爆速でヘドバンをしている。マジか……大丈夫かな。ブラックだったりするのか? いや、でもこの時間に飲みに来れていて常連ならば、退社時間は少なくともホワイトだろう。

「嫌な上司とか絶対いるしな。まぁ、俺ニートなんだけど」

 かははっと笑えば、東條くんは力強いグッドサインを出してくれた。ニート万歳ってか。この子、絶対いい子だな。

「あはは、ありがと。ニートは働けっていうのが世論ですから」

 とはいえ俺もやっぱりそろそろ真面目を職を探すべきか。金もないし、いつまでも折本に養ってもらうわけにもいかない。ただでさえ破格で住まわせてもらっているのに、それすら払えなくなったらルームシェア解消なんてことになりかねないだろう。人間関係に亀裂を入れるのは大抵、金か恋愛なんだよ。

 東條くんは何かを考えるように俯くと、バーテンダーを呼んで何やらメニュー表に指を刺していた。俺のグラスにコツン、と自分のグラスを当ててくる。

「え、なに、乾杯?」

 こくん、と大きく頷くものだから残り少ないビールを掲げてやるが、東條くんのウイスキーなどもう氷しか残っていない。

 その時、バーテンダーが二人分のカクテルを出してくれた。カクテルグラスに注がれたお酒は綺麗なオレンジ色をしている。

 もしかしてさっき頼んでいたのがこれだろうか。横を窺えば東條くんがうんうん、と頷いて俺を見ている。明らかに年下に見えるけど、せっかくだからありがたく奢られることにした。

「これ、なんていうの? へぇ、オリンピック! 綺麗な色だね。えーっと、じゃあ世知辛い世の中に、乾杯!」

 カン、とグラスが音を立てる。グラスがぶつかった瞬間、東條くんの口元がわずかにほころぶのが見えた。久々に飲んだカクテルは、苦みのあるオレンジの味がする。俺のためにそんな洒落たものを頼んでくれたのが、この垢抜けない東條くんだと思うとつい可愛く思ってしまう。

「いや〜いい子だなぁ、きみ」

 ひく、と肩を震わせた東條くんが困ったように首を傾ける。飲み慣れないカクテルはビールより酔いが回るのが早いように感じた。

「ちゃんと働いてさ、お酒飲んでさ。生きてるって感じだね」

 生きてるって感じ。うん、それだ。

 俺など一日中、家に引きこもって家から出ないことが多い。朝起きて朝食を作って、洗濯を回して、ネトゲして。テキトーな昼飯を食って、ちゃんとした夕飯を作る。誰と繋がるでもなく、社会と切り離された生活。

 夜には同居人が女をアンアン言わせているのを壁伝いに聞いて。いや、意図的に聞こうとしているわけではないんだけど。おまけに泥酔した同居人とのワンナイトは末梢され、掃け口のない性欲をナイショで買った玩具で消費する。

「あのさ、アナニーってしたことある?」

 いかん。息をするようにセクハラをしてしまった。

 横を窺えば、カクテルグラスを握った東條くんはふるふると首を横に振るだけだった。どうやらセクハラニートをマスターに訴えるつもりはないらしい。

「まじ? めっちゃ気持ちいいんだよ」

 いかん。さっきから息をするようにセクハラをしてしまっている。

 東條くんを見れば、マジ? とでも言いたげに目をカッと見開いている。あれ、もしかして興味ある?

「俺の同居人さ〜すっげぇヤリチンで」

 おい。人の性事情を初対面の人間に暴露するな。

「あいつ、酔うと俺のこと抱くんだよね」

 東條くんがガバっと口を開いて俺を見つめた。意外と表情豊かな子のようだ。

 初めてまともに正面から顔を見ることができ、眼鏡と前髪に隠された顔立ちが思いのほか端正であることに気がつく。なんだか図書委員が似合いそうなインテリっぽさとほんわかした癒しを兼ね備えていてかわいい。
 つい東條くんに笑いかけてしまう。

「でも、覚えてないの。あいつ酔ったら記憶なくなるタイプだから」
「…………」
「何回シても、覚えてないし。いつまで経っても、俺はあいつに寄生してるし……だからそろそろ、俺も働こうかと思って」

 この流れ、アナニーの話した意味あった?

 東條くんは開いていた口をムムッと閉じ、ごそごそとカードケースから何かを取り出した。何の変哲もないカードを俺にぐいぐい見せてくる。

「ん? なになに? ハローワーク……?」
「……」

 こくこく頷いた東條くんがハローワークカードをケースにしまう。自信気に俺を見て控えめに口角を上げた。

「東條くん、ハロワで仕事紹介してもらったの?」

 うん、と頷いた東條くんが、心配するなとでも言いたげにグッドサインを出してくる。

「そっかぁ……ありがと、俺も頑張るよ」

 ありがとうね、と笑いかければ、東條くんは照れたように唇をすぼめた。




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