1.Boy meets ×××


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 風鈴の音が鳴っていたのを覚えている。

 焼けるような陽射しも遠のき、辺りは薄暗くなり始めていた。庭の雑木がうなりを上げる。頬に当たる風は涼やかだった。

 濡れ縁に届くひぐらしの声が寂しい。ビニールプールにつけたままの足はすっかりふやけてしまいそうだった。この濡れた足のまま室内に上がるわけにもいかない。

 周囲をぺたぺたと探ってみるが、タオルが置かれている感触はなかった。使用人へ声をかけようと室内を振り返り、初めて人の気配が消えていたことに気が付いた。

 不安に拍車をかけるように、林がざわざわと音を立てる。風は強くないはずなのに、葉の擦れる音はやけに大きい。

 木々のうなり、ひぐらしの鳴き声、揺れる風鈴、鈴、鈴。

 しゃらん、と音が鳴り響いた。

 ハッとして庭に視線を戻すが、視界に何が映るでもない。ゆるやかに流れていたぬるい風が、まるで生きているように頬を撫でていく。

 奇妙な気配を目前に感じた。

「誰かいるの?」

 相変わらず視界は灰色だ。この目が見えていれば、と悔しさにいつもながら唇を噛みしめる。

「誰……?」

 その時ふわり、と空気が揺れたのを感じた。

 むせるような熱い空気とともに生臭い匂いが迫ってくる。人ではない。何か、生き物の気配。

 未知との遭遇にへっぴり腰になりながらも、ぬるくなったビニールプールに立ちあがった。ちゃぷん、と足元で水面が音を立てる。目の前のものに手を伸ばして、一歩。

 指先は何に触れるでもなく宙を掴んだ。どこからかやってくる焦りに、さらに一歩足を踏み出す。後ろ手に触れていた縁側からも手を離してしまった。途端、自分がどこに立っているのか分からない不安が押し寄せてくる。

 視覚に頼れない分、触れなければ分からないのだ。自分の立っている場所も、未知のものも。恐怖と興味は常に秤にかけられている。

 遠くで鳥が飛び立つ音が聞こえた。もう一歩、あと一歩。あとどれだけ進めば触れられるのだろうか。
 いまだ、足元はぬるい水に浸かっている。まだ、大丈夫だろうか。

 もう一歩、小さく足を踏み出した時、伸ばした指先が何かにのめり込むのを感じた。一層、心臓が大きく音を立てる。

「うわっ」

 指先に触れた感触はこれまでに触ったことのないような生暖かくべちょりとしたものだった。そのことに驚くより前に、プールのふちに足を引っかけ体が傾いていく。地面に叩きつけられる恐怖にぎゅっと目を瞑り、反射的に何かを掴むように手を伸ばしていた。

「っ……?」

 恐れていた痛みのかわりにやってきたのは、柔らかく体を抱きとめる人間のような体温だ。
 一つ異なるのはその感触。

 べたべたとした蜂蜜のような粘液。顔を顰めたくなる厭な匂い。

 顔を上げれば熱風が吹きかけられた。咳き込めば今度はねっとりとした熱い何かが背に回される。シャツに張り付いたそれがゆっくりと背中をさすった。

 どうやら悪い奴ではないらしい。このべたべたしたものは何だろう。蜂蜜が腐ったのだろうか。こんなにも全身に被ってしまって。

 そう思うとなんだかその間抜けさにおかしくなってしまった。ふふ、と笑えば、まるで困惑しているかのように背を撫でる動きが止まる。せっかくだから抱きつくようにして腕を回してみた。まったくもって手が届かないところを見ると、この生き物はとても大きなもののようだ。

「君は何?」

 こんなもの触れたことがない。意思を持って動いているようだから、生き物であることには間違いないのだろう。だけど耳を押し付けてみても脈動は聞こえてこない。

 胴体に回した腕に力を籠めれば、それは収縮するように痙攣した。グゥ、と内側から響くような音が返ってくる。獣の声とも違うその声にわくわくする。

「このねばねばは? お風呂に入ったらとれるの? そうだ、今日は僕とお風呂に入ろうよ……あ、でもこんな大きい体、入らないかな」

 勝手に身体をまさぐっていればますます困惑したらしい大きな生きものは小さくウ、ウ、と鳴いていた。全身が温かい。昼間の茹だる暑さには辟易とするのに、この温かさは不快ではなかった。つい布団に包まれているような安堵感にうとうととしてしまう。

 風鈴の音が響いている。ちりん、ちりん、と涼し気な音とは裏腹に全身を包む熱。

「坊ちゃん!」

 遠くのほうで使用人が呼ぶのが聞こえた。耳元ではグ、ゥと唸り声が鳴っている。

 そこからの記憶はひどく曖昧だ。庭に倒れていたらしい僕は、目が覚めた時には布団の上で、その後3日寝込んだ。
 未知の生き物に触れたわくわくした気持ちは寝込んだことでしゅんと消えてしまった。それどころがちょっとした恐怖すら感じた。

 だけど、あの妙な生き物はその後もたびたび僕の前に姿を現した。熱にうなされる枕元、父親がいない日の夕飯、使用人と言い合って裏山に迷い込んでしまった時。

 もちろん、僕がこの目でその姿を見ることは出来ないのだけど、温かく不器用な生き物の気配はいつでも僕に寄り添ってくれた。だから僕は彼を友人と呼ぶ。

 何年前になるだろう。これが僕と夜盗の出会いである。



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