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つぶらな瞳がこちらを見ていた。
牛だ。
いや、違う。人だ。
体全体が不気味な黒い影になってしまっているせいで人型であることを認識するのに少し時間がかかった。どうやら傘をさしていないらしい。お気の毒に、と僕は他人事のように思った。と言っても、傘があろうが、道路に川を作るほどの大雨だったから歩けばすぐに全身がずぶぬれになった。歩く度にぐしゅ、とローファーの中で不快な水音がなる。
「やあ」
牛のように大きく黒目がちな瞳は綺麗ではあったけれど流石に怖かったので下を向いて歩いていれば、すれ違いざまに腕を掴まれた。死人のような白い指に水が流れていく。なぜか一瞬ゾッとしたが、その女性的な指の持ち主を見上げて僕はゲッと声を上げた。
「き、岸沼……!」
「なんだよ、その死人でも見たような顔は」
「死んでるみたいじゃんか」
「えっウソ。俺、死んでる? 死んだ? やっぱり?」
何がやっぱり? だよ。呆れながら岸沼の手を振り払う。
「冗談だよ」
「わはは、よかったー。さっきちょうど踏切を渡ったんだけど、なんか記憶がすっぽ抜けちゃってんだよね。ひょっとして電車に撥ねられたじゃないかって心配してたんだぁ」
相変わらず変な奴だ。けらけら笑う岸沼は雨に打たれて余計にその卓越した容姿の良さに拍車がかかっていた。濡れて些か冷えたのか、どこか顔色が悪い。僕と同じワイシャツだけの夏服姿であるのに、なぜか岸沼の制服は黒く変色して見えた。昼間に見た岸沼のワイシャツは真っ白だったはずなんだけどな。日光に反射して眩しかったのをよく覚えてる。
中庭から教室にいる僕に向かって大声で昼飯を寄越せと叫ぶもんだから、担任に心配された。直球にいじめか? と聞かれた。センシティブな問題をそんな雑に扱わないで欲しい。本当にいじめられてたらどうするんだよ。容姿も素行も目立つ生徒である岸沼に絡まれる地味な僕をクラスメイトは同情するような目で見ていた。
「ねえ、川邑くん。お願いがあるんだけど」
「絶対にいやだ」
「なんでだよ。いつもお昼ご飯作って来てくれるのに」
「なんで昼飯まで恵んであげてるのにこの期に及んで我儘を聞かなきゃいけないんだよ」
「相合傘しない?」
呆れたように岸沼を見上げてしまう。なんだかやっぱり白いし黒い。
「帰る方向、真逆じゃん。折りたたみ、貸してあげるよ」
「いやだよ。俺は傘が欲しいんじゃなくて、川邑くんとくっつきたいだけなのに」
「気色悪い」
馴れ馴れしく肩を抱こうとしてくる岸沼から身をかわせば、ぎゃはは、と見た目に似合わない下品な笑い声を上げた。
「……岸沼」
「なーにー?」
雨に打たれる岸沼を見ながら、カッコいい人間は雨に打たれてもやっぱりかっこいいなー、なんて思った。長いまつ毛が僕を見下ろしてぱちぱちと瞬く。
美形は美形だが、異変は異変だった。やっぱりおかしい。
「ねぇ。なんか、赤くない?」
「そう?」
首を傾げて岸沼はぺたぺたと頬を触った。僕はごしごしと目を擦った。
真っ青な顔と真っ赤のコントラストで目がチカチカする。そういえば変色したワイシャツもよく見たら錆色だ。
「……」
「……」
土砂降りの夕立は未だ止む気配はない。傍をトラックが通り過ぎた。びしゃ、と盛大に左半身が泥を被る。
走り去っていくトラックの音が完全に聞こえなくなった時、僕はようやく口を開くことが出来た。
「赤いよ! 赤いよ、岸沼! いったい何してきたの!? それ血? 血!?」
「エッ、ウソ。死んでる? やっぱり?」
なにがやっぱり? だよ。大怪我じゃんか。
「ちょ、こっち来るな! 怖いよ、その出血!」
「え、ちょっと置いてかないでよ。助けてよ。あれ? あ、いてて。なんか、痛い……体が痛いんだけど」
「救急車? 救急車って何番だっけ」
「あ、やばい、なんか死にそう……川邑くん、お願いがあるんだけど」
「救急車って何番だっけ!!」
「話聞いてよ……死ぬなら君の膝の上がい……」
「岸沼!!」
・・・
「っていう夢を見たんだよね」
「嫌な夢だなぁ」
「だから今日はちょっと岸沼の顔は見たくないっていうか」
「ひどっ」
あまりにも生々しかった。よく覚えていないけど、錆び色に染まったワイシャツが吸い込み切れなくなるほど、どす黒い血が流れていたような気がする。
物騒な夢だな、と思うけど、血に染まった岸沼はそれはそれで猟奇的に美しかった。
「でも、なんか妙にリアルな夢だね」
「そう? あんな血まみれになった経験があるの?」
「そこじゃないよ」
岸沼はおかかの入ったおにぎりをごくん、と飲み込むと僕に手を差し出した。こいつはいったいどこのお姫様だ。僕は岸沼のモデルように綺麗な手に、温かいお茶を淹れたコップを差し出してやった。
「昨日の帰り、夕立がすごかったじゃん?」
口をすぼめてフーッとお茶を冷ましながら岸沼が言う。僕はさっきから岸沼の唇の端についている米粒が気になってしょうがなかった。
「そうだっけ」
「そうだよ。帰りに会ったじゃん、川邑くん」
「そうだっけ?」
高校生にもなって米粒をつけたままにするんじゃないよ。
「おんなじような会話、したよ」
「そう、だっけ……?」
まったく覚えがない。米は白い。空は青い。岸沼は赤い。
赤い?
ハッとして瞬きをする。岸沼をちゃんと見れば、相変わらず口の端に米粒をつけて、真っ白のワイシャツを着ていた。
「米ついてるよ」
「え、どこ?」
手を伸ばして岸沼の口元を拭う。軽く当たった唇が柔らかくて、うわぁと思った。取れた、と言うと岸沼は形の綺麗な瞳をどろりと蕩けさせるようにして笑った。うへぇ、と思った。
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